第12話 魔物暴走の夜
その夜、リュカは眠らなかった。
いつもなら、俺の外套の上か、空き家の隅か、ニナの寝台の足元で丸くなる。呼んでも来ないくせに、こちらが眠ろうとすると当然のように膝へ乗ってくる。
だが、その夜だけは違った。
リュカは麦倉の屋根の上にいた。
白い小さな影が、星明かりの中でじっと北の森を見ている。
尻尾は膨らんでいない。
毛も逆立っていない。
けれど、動かない。
それが一番不気味だった。
「何を見ている」
俺が下から声をかけても、リュカは振り向かなかった。
北の森。
昼間、水路を直した斜面のさらに向こう。村人たちは、あの森を古い森と呼んでいる。薬草も獣も多いが、奥へ入りすぎるなと子供に教える場所らしい。
俺の視界に数字が浮かぶ。
北の森、24時間以内の魔物出現率、18%。
低い。
そう思った瞬間、数字の輪郭が揺れた。
18%。
27%。
39%。
俺は眉をひそめた。
条件が変わったのか。
それとも、俺が見たことで変わったのか。
その違いが、最近分からなくなってきている。
「ユリウス」
背後からセラが声をかけてきた。
肩に薄い外套をかけ、手には薬草を入れた籠を持っている。
「まだ起きていたのか」
「あなたにだけは言われたくありません」
「俺は少し寝た」
「壁にもたれて目を閉じるのは、睡眠に入りません」
「厳しいな」
「リュカに似てきました」
屋根の上のリュカが、耳だけ動かした。
どうやら聞いている。
セラは北の森へ目を向けた。
「あの子、ずっとあそこを見ています」
「ああ」
「森に何かあるんですか」
「分からない」
そう答えると、セラは少し驚いた顔をした。
「分からない、と言うんですね」
「最近、分からないものが増えた」
「それは悪いことですか」
「普通は、悪くない。分からないと分かるのは、分からないまま分かったふりをするよりはましだ」
「では、今は?」
俺は北の森を見た。
数字はまだ揺れている。
39%。
41%。
37%。
「今は、少し気味が悪い」
セラは何も言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
質問を重ねられれば、俺はたぶん説明しようとしただろう。見えている数字のことも、最近それが揺れることも、自分に関する数字まで一瞬見えたことも。
だが、説明できないものを説明しようとすると、たいてい余計に分からなくなる。
遠くで、鳥が鳴いた。
夜の鳥ではない。
寝ていた鳥が、驚いて飛び立つ声だった。
リュカが立ち上がった。
白い毛が、今度こそ逆立つ。
俺の視界に数字が浮かぶ。
北の森、魔物出現率、64%。
村到達率、42%。
人的被害発生率、31%。
急に跳ねた。
「来る」
俺が言うと同時に、森の方で低い音がした。
木が折れる音。
続いて、獣の唸り声。
セラの顔色が変わる。
「魔物ですか」
「たぶん」
「たぶん、で済む声ではありません」
「同感だ」
リュカが屋根から飛び降りた。
音もなく地面に降りると、広場の北側へ走る。
俺も続いた。
村はまだ完全には眠っていなかった。
煮沸の火を絶やさないため、数人が広場に残っている。発熱者の空き家にも灯りがある。
問題は、魔物への備えなど誰もしていないことだった。
疫病で倒れ、食糧を分け、水を運び続けた村に、戦う力はほとんど残っていない。
村の北柵まで走ると、ギルがすでにいた。
手に鍬を持っている。
寝ていろと言われても、たぶん聞かない男だ。
「何の音だ」
「森から何か来る」
「魔物か」
「可能性は高い」
「また確率かよ」
「今回は外れてほしい」
「そういう言い方をされると、外れない気がするな」
ギルは鍬を握り直した。
額に汗はあるが、熱は昨日より下がっている。
戦闘可能率、54%。
無理をした場合の再発率、33%。
使いたくない。
だが、人手が少ない。
「ギル、直接戦うな」
「この状況で見てろってか」
「柵の内側で指示を出せ。動ける男を3人。松明を持たせる。子供と老人は南の納屋へ移動。発熱者は動かすな。ただし入口を塞ぐ」
「魔物が発熱者の家に来たら」
「来させない」
「どうやって」
俺は北の森を見た。
魔物到達予測線。
そんなものが、視界に浮かんだ。
線だった。
薄い赤い線が、森から村へ向かって伸びている。
3本。
1本は麦倉へ。
1本は井戸の裏手へ。
もう1本は、発熱者の空き家の方へ。
俺は一瞬、息を止めた。
以前なら確率だけだった。
今は、道筋まで見えている。
「ユリウス?」
セラが俺の顔をのぞき込む。
「大丈夫ですか」
「今、大丈夫ではないと言うと動けなくなる」
「なら、あとで聞きます」
「ああ。あとで叱ってくれ」
「叱る前提なんですね」
「たぶん叱られる」
セラは短く息を吐き、それからギルを見た。
「ギル、南の納屋へ子供たちを移します。ミアを呼んで。私は発熱者の家を見ます」
「お前も無理するなよ」
「あなたに言われたくありません」
「なんでみんな俺に厳しいんだ」
ギルが文句を言いながら走る。
俺は地面に枝で線を引いた。
魔物の予測進路を、村人に分かる形にする。
「ここに松明を置く。麦倉には近づけるな。井戸の裏手は昨日崩した土がある。足場が悪いから、そこで止まる可能性がある。発熱者の家は音を立てるな。弱った人間の匂いに寄るかもしれない」
村長が杖をついてやって来た。
「今度は魔物か」
「らしい」
「次から次へと、忙しい村だな」
「水路の詰まりが原因かもしれない」
「魔物まで水路のせいか」
「森の水場が変わった。獣が移動する。獣が移動すれば、魔物も餌を追って動く」
村長は顔をしかめた。
「つまり、井戸も麦も魔物も、元は同じかもしれんと」
「完全に同じではない。だが、つながっている」
「厄介だな」
「ああ」
遠くで、また木が折れた。
今度は近い。
村人たちの間に緊張が走る。
松明が次々と灯された。
火の光が夜の中で揺れる。
北柵の向こう、森の縁に黒い影が見えた。
猪に似ている。
だが、大きすぎる。
背中から黒い棘のようなものが生え、目が濁った赤色に光っていた。
「棘猪だ」
ギルが低く言った。
「普段はもっと奥の森にいる。なんでこんなところまで」
棘猪、村到達率、86%。
柵突破率、57%。
直接戦闘時の負傷率、72%。
火を嫌う傾向、強。
音への反応、強。
餌への誘導可能性、38%。
情報が多い。
多すぎる。
俺はこめかみを押さえた。
「戦うな。火で曲げる」
「曲げる?」
「正面から止めるな。進む先を変える。麦倉と空き家から離して、水路の掘り返した場所へ誘導する」
「誘導って、誰がやる」
ギルが言う。
俺は答えようとした。
だが、リュカが先に動いた。
白い獣は柵の隙間から外へ出ると、森の縁へ向かって走った。
「リュカ!」
セラが叫ぶ。
リュカは振り返らない。
棘猪が白い影に気づいた。
赤い目がぎょろりと動く。
次の瞬間、棘猪がリュカへ向かって突進した。
速い。
見た目の重さに反して、地面を削るような速度だった。
リュカ死亡率。
数字が浮かばなかった。
何も見えなかった。
空白。
俺は、頭の中が冷たくなるのを感じた。
「松明を左へ!」
叫んだ。
村人たちが反応する。
「左の列を前へ出せ! 右は下がれ! 音を立てるな、火だけ見せろ!」
自分でも驚くほど声が出た。
ギルがすぐに動いた。
「おい、左だ! 怖がるな、近づくな、火を見せるだけでいい!」
松明の列がゆっくり動く。
棘猪の進路がわずかに曲がった。
リュカは棘猪の前を横切り、掘り返した水路の方へ走る。
白い体が闇の中で跳ねる。
棘猪はそれを追う。
予測進路線が変わった。
麦倉への到達率、31%。
発熱者の空き家への到達率、18%。
水路への誘導成功率、52%。
「まだ足りない」
俺は歯を食いしばった。
「何がですか」
セラが横で聞く。
「水路に落とすには、もう少し右へ曲げる必要がある」
「右へ」
セラは一瞬だけ周囲を見た。
それから、近くにあった空の桶をつかんだ。
「音を立てるなと言った」
「火だけでは足りないんでしょう」
「近づくな」
「近づきません」
セラは桶を地面に置き、棒で叩いた。
乾いた音が夜に響く。
棘猪の耳が動いた。
リュカから少し視線が外れる。
「セラ、下がれ!」
俺が叫ぶ。
棘猪の進路が一瞬だけ揺れた。
リュカがその隙を逃さなかった。
白い影が水路の手前で鋭く曲がる。
棘猪は追いきれず、掘り返された柔らかい土へ前足を取られた。
巨体が傾く。
重い音がした。
棘猪は水路に半身を落とし、暴れた。
村人たちが悲鳴を上げる。
「近づくな!」
俺とギルの声が重なった。
棘猪は土を蹴り、棘を震わせた。
だが、掘り返された水路の泥に足を取られ、すぐには抜け出せない。
水路への封じ込め成功率、71%。
人的被害発生率、31%から9%。
リュカは、水路の向こうで立ち止まっていた。
無事だ。
数字が見えなくても、それだけは見えた。
俺は深く息を吐いた。
その瞬間、膝から力が抜けそうになる。
セラが腕をつかんだ。
「まだ倒れないでください」
「倒れる予定はない」
「予定はなくても倒れます」
「それはそうだな」
否定できなかった。
ギルが村人たちに指示を出す。
「縄を持ってこい! 直接近づくな! 長い棒で押さえろ!」
村長も声を張り上げた。
「子供を外に出すな! 火を絶やすな!」
混乱はあった。
恐怖もあった。
だが、村は崩れなかった。
線を引くことに慣れた村人たちは、今度は火と距離の線を守った。
棘猪は夜明け前まで水路でもがき、やがて動きが鈍った。
殺したのではない。
夜明けとともに、森の方へ逃げていった。
村人たちは誰も追わなかった。
追う余力もなかったし、追わない方がいいと全員が分かっていた。
被害は、柵の一部と水路の土手。
怪我人は2人。
どちらも軽傷。
発熱者の空き家にも、麦倉にも、魔物は近づかなかった。
魔物暴走による人的被害、予測31%から実測軽傷2人。
俺は手帳にそう書きかけて、やめた。
実測軽傷2人。
その2人には、ただの数字ではない。
痛む腕があり、怖かった夜があり、明日も働かなければならない体がある。
俺は書き直した。
軽傷者2人。処置済み。経過観察。
それで十分だと思った。
朝日が昇る頃、リュカが戻ってきた。
白い毛は泥だらけで、耳の先に草が絡んでいる。
俺はしゃがみ、手を伸ばした。
リュカは避けなかった。
「無茶をするな」
言ってから、自分に返ってくる言葉だと思った。
リュカは俺の手袋を軽く噛んだ。
痛くはない。
だが、叱られていることは分かった。
「分かってる。俺も悪かった」
セラが横で言った。
「両方悪かったですね」
「公平だな」
「はい」
ギルが近づいてきた。
「その白いの、村で一番勇敢だったな」
リュカはギルを見た。
そして、ふいと顔を背けた。
「嫌われてるのか、照れてるのか分からんな」
「前者では」
セラが言うと、ギルは苦笑した。
村人たちも、少しずつ笑い始めた。
魔物が去り、朝が来た。
それだけで、人は笑えることがある。
俺は北の森を見た。
視界に数字が浮かぶ。
24時間以内の再出現率、12%。
水路修復継続時、5%。
村全体の短期生存率、84%。
数字は悪くない。
悪くないはずなのに、胸の奥は晴れなかった。
リュカの死亡率だけは、最後まで見えなかった。
それが何を意味するのか、俺には分からない。
ただ、白い獣は俺の足元に戻ってきた。
泥だらけで、少し得意そうに。
今は、それで十分だと思うことにした。




