第38話 名の置かれる日
四十四
冬は、さらに深くなっていた。
朝の庭は白まではゆかぬ。
だが、草はすでに倒れ、石は冷えを内へ抱えこんでいる。
息を吐けば、それだけがわずかに生きて見えた。
その朝、鎌足は御食子の後ろにあって、嶋大臣の前へ出た。
広からぬ間であった。
火はある。
だが、火のぬくもりより、人の目の方が近い。
嶋大臣は老いていた。
このごろは、ことばの前に置かれる間が、以前より長い。
されど、その長さが弱りとは見えぬ。
長く朝を持ってきた者だけが持つ重さであった。
嶋大臣が言った。
鎌足
は
そなたも、もう童ではあるまい
鎌足は頭を下げた。
嶋大臣は、しばらく鎌足を見ていた。
見ているというより、量っているようであった。
この者に、低き冠位を与えてはどうかと思う
そのことばは、ことさらに強く置かれたものではなかった。
だが、間の空気はそれで静まった。
鎌足は、頭を下げたまま、胸のうちでそのことばを受けた。
低き冠位。
高くはない。
されど、ただの褒めとも言えぬ。
朝の外から朝の内へ、足を掛けよということにも聞こえた。
なぜ私に。
その問いが、まず胸に立った。
次いで、なぜ今にございます、と思った。
さらに、その奥で、なぜ嶋大臣がそれを口にされるのか、とも思った。
御食子は、すぐには答えなかった。
嶋大臣が続けた。
高くするとは申さぬ
まだ若い
されど、若きまま置いて散らすには惜しい
まず名を置いておけばよい
御食子が静かに言った。
重うございます
重かろうな
嶋大臣は答えた。
されど、見ておらぬ者へは、そもそも名は来ぬ
そのことばが、鎌足にはひどく引っかかった。
見ておらぬ者へは、そもそも名は来ぬ。
では、この人は、いつから自分を見ていたのか。
箸墓のときか。
鹿嶋より出てきてのちか。
それとも、自分の知らぬところで、もっと前からか。
嶋大臣は、もう鎌足を見てはいなかった。
御食子へ向けて言った。
中臣の家としても、ころ合いではあるまいか
御食子は深く礼をした。
ころ合いではございます
ただ、冠位を受くる前に、先に整うべきことがございましょう
嶋大臣の目が細くなった。
加冠か
さようにございます
そのとき、戸口に近くいた蝦夷が、低く言った。
私も、そのように存じます
鎌足は、はっとした。
蝦夷は、いつからそこにいたのか、鎌足にはよく分からなかった。
だが、その声は場に合っていた。
童のまま冠位を受ければ、家の内と朝の内とがずれます
まず加冠を
そのうえで名を置かれるのが筋にございましょう
少し置いて、さらに言った。
鎌足は、中臣の世継ぎにふさわしい
御食子どのも、もうそのように立てられてよろしい
御食子は蝦夷を見た。
蝦夷の顔に押しつけはなかった。
ただ、父のことばを受けて、筋を言っている顔であった。
嶋大臣が、小さくうなずいた。
では、そのようにせよ
鎌足は深く頭を下げた。
だが、胸のうちは静まらなかった。
名を与えられる。
それは喜ぶべきことのはずであった。
されど、喜びは先へ出なかった。
まだ何も成しておらぬ。
なのに、名だけが先に置かれる。
それは褒めであると同時に、どこかへ引き入れられることのようにも思えた。
間を辞したのち、御食子はすぐには何も言わなかった。
廊をしばらく歩き、人気のない端まで来て、ようやく足を止めた。
鎌足
は
訝しんでおるな
鎌足は、頭を下げた。
なぜ私にございましょう
御食子は庭を見たまま答えた。
見られたからだ
それだけでございますか
それだけで十分重い
御食子は言った。
位は、身を飾るものではない
人の目の置きどころを変える
昨日まで童として見ておった者どもが、
明日からは、別のものとして見るようになる
鎌足は黙った。
御食子は続けた。
ゆえに、先に加冠を受けよ
身が追いつかぬまま名だけ置かれれば、人に引かれる
鎌足には、そのことばがよく分かった。
追いつかぬまま名だけ置かれれば、人に引かれる。
それは、いま自分が感じている違和そのものであった。
加冠の日は、すぐに来た。
晴れといえるほどの明るさではない。
冬の光は低く、板敷の上に細く落ちていた。
髪が改められ、装いが変わる。
ただそれだけのことであるのに、周りの目はもう違っていた。
昨日まで鎌足へ気軽に向けられていた視線が、今日は半歩引いて置かれる。
御食子の目もまた違った。
父の目であると同時に、家の長の目になっていた。
鎌足は、衣の重さより、その目の変わり方の方を重く感じた。
これで、もう童ではない。
だが、身の内はまだ昨日のままである。
そのずれが、かえって窮屈であった。
冠位が授けられたのは、そののちであった。
低き位である。
高くはない。
されど、朝のうちに名を持つ者の位であった。
嶋大臣は長くことばを費やさなかった。
若き者は、若きままに置けば散る
まずは道だけ置いておく
それだけであった。
鎌足は礼をした。
礼をしながら、なお胸のうちでは量っていた。
道だけ置いておく。
そのことばは、やわらかいようでいて重かった。
道を置かれるとは、いずれその道を歩けということでもある。
授与ののち、御食子は鎌足を呼んだ。
鹿嶋へ戻れ
鎌足は顔を上げた。
この冠位を、向こうで披露してまいれ
朝で受けたものは、根の前でも受けよ
さもなくば、身に落ちぬ
鎌足は深く礼をした。
承りました
鹿嶋へ向かう道は、冬の光のなかで長かった。
海へ近づくにつれ、空気が変わる。
宮の冷えとは別の冷えである。
潮の匂いがあり、風は広く、地は平らにひらいている。
鹿嶋へ入ると、鎌足は、ようやく息をつけるように思った。
ここには、宮のような張りつめた目はない。
だが、目がないのではない。
もっと古く、もっと深い目がある。
社のまわりの木々は冬に沈み、空は高かった。
水の音が遠くでしていた。
鹿嶋の長は、鎌足を見ると、しばらく黙っていた。
それから言った。
顔が変わったな
鎌足は頭を下げた。
加冠し、冠位を受けました
長はうなずいた。
そうであろう
童の顔ではなくなった
ことさらに祝うことばはなかった。
だが、その短さがかえって重かった。
その夜、鎌足は久しぶりに鹿嶋の気を深く吸った。
宮で得たものが、ここではまた別の重さを持つ。
あちらでは朝へ出る名であり、
こちらでは中臣の子として受ける名であった。
同じ冠位であるのに、地が変われば意味が変わる。
自分は、もう鹿嶋の子であるだけではない。
だが、宮の者になったともまだ言いきれない。
そのあいだに立たされているのだと、鎌足は感じた。
翌日も、鹿嶋は静かであった。
風は海の方から来て、木々の枝を鳴らした。
社の前の砂は白く、空はひろかった。
このまましばらく、ここにいられるのではないか。
ふと、そんな気もした。
根へ戻った。
いまはまだ、その根を踏んでおればよい。
そう思いかけたときであった。
長が、人をやって鎌足を呼んだ。
呼び方がいつもと違った。
低く、短かった。
鎌足はすぐに出た。
長は立ったままであった。
顔に余計な色はない。
そのかわり、ことばの前に間がなかった。
宮へ戻れ
鎌足は息を止めた。
大臣が薨った
(鎌足伝 第一部 完)




