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第37話 残る手


四十三


 その日の夕刻、蘇我の屋では人を退けていた。


 馬子は奥へ入った。

 蝦夷がそのあとに続き、入鹿も呼ばれて入った。

 御食子は呼ばれなかった。

 鎌足もまた、そこへ入る立場にはない。


 だが、御食子の屋へ戻ってのち、しばらくして川瀬が帰ってきた。

 外の気配を見てきたのであろう。


 御食子が問うた。


 どうだ


 蝦夷どのも入鹿どのも、まだ外へは何も漏らしておりませぬ


 父子で話しておるか


 さようにございます


 御食子はそれきり黙った。


 拒絶は、ことばとしては短い。

 だが、そのあとに人がどう受けるかで、はじめて政になる。

 御食子は、その先を待っているのであろうと鎌足は感じた。


 夜に入るころ、蝦夷がひとりで御食子のもとへ来た。

 入鹿の姿はなかった。


 蝦夷の顔は静かであった。

 だが、その静けさの底には、昼よりはっきりしたものがあった。


 御食子どの


 蝦夷どの


 御食子は礼を返した。


 蝦夷は言った。


 父上の願いは、退けられた


 さようにございます


 それは、老いを理由にしても、通らぬということか


 老いゆえに通る願いもありましょう

 されど、老いゆえに通してはならぬ願いもございます


 蝦夷は少し目を細めた。


 父上にとって、よほど重い願いであったのでしょうな


 御食子は答えた。


 重い願いであったからこそ、

 大王もまた軽くは受けられなかったのでございましょう


 蝦夷は黙った。

 やがて言った。


 父上は、葛城の女の腹より生まれた

 幼きころを、あの地の空気の中で過ごしておる

 ただ懐かしいというだけではありますまい


 御食子は静かに言った。


 存じております

 ゆえにこそ、軽く扱えぬのでございます


 蝦夷は、そのまま御食子を見ていた。

 やがて言った。


 葛城は、父にとっての纏向であったのかもしれぬ


 鎌足は、思わず顔を上げかけた。


 蝦夷は続けた。


 ただの故地ではない

 己のはじまりが置かれ、

 そこへ戻れば、自らが何者であるかを見直せる地だ


 御食子は、そのことばを受けてしばらく沈黙した。

 やがて言った。


 それゆえにこそ、なおさら御座の地としては渡せぬのでございましょう


 蝦夷は小さくうなずいた。


 さよう

 拒まれたのは、父上の願いが軽いゆえではない

 重すぎたゆえだ


 蝦夷は、ただ惜しんでいるのではなかった。

 なぜ拒まれたかまで受け取っていた。


 御食子は言った。


 蝦夷どの


 何にございます


 父上の思いを深く持たれるのはよい

 されど、それをそのまま朝の形へ出してはなりませぬ


 蝦夷はすぐには返さなかった。

 やがて言った。


 父上が生きておられるあいだは、大王のことばが朝のことばだ

 それは承る


 御食子は、そこで初めて小さくうなずいた。


 蝦夷はそれ以上は言わず、静かに去った。


 その翌朝、川瀬が戻った。


 入鹿どのは、どうしておった


 御食子が問うた。


 昨夜のうちに、葛城の旧き縁の者どもの名を、二つ三つ確かめさせておりました


 御食子の目が少し動いた。


 誰にだ


 蘇我家の若い者どもにございます

 人をやって、いまどこが御座の直にあり、どこがまだ旧き名を覚えておるかを見させたようにございます


 鎌足は黙って聞いた。


 蝦夷は、父の思いを胸に置く。

 入鹿は違う。

 拒まれたその日のうちに、もう先の手を数えはじめている。


 御食子が低く言った。


 速いな


 川瀬が答えた。


 速うございます

 ただ、あからさまには動いておりませぬ


 御食子はしばらく黙った。

 やがて言った。


 蝦夷どのは、父上の願いを胸に置く

 入鹿どのは、願いが通らなんだあとの手を探す

 親子でも、そこが違う


 鎌足には、その違いがはっきり見える気がした。


 その日の夕刻、蝦夷と入鹿は、ふたたび父のもとにあった。


 馬子は、昼より少し疲れて見えた。

 だが、気は衰えてはいない。

 拒絶されたことで、かえって内へ深く沈んだように見えた。


 蝦夷が言った。


 父上


 何だ


 大王は、今日はお許しにならなんだ

 だが、父上の思いまで否まれたわけではありませぬ


 馬子は子を見た。

 しばらく何も言わなかった。

 やがて言った。


 そうよ


 そのひと言に、老いも痛みも入っているようであった。


 入鹿が、そのとき初めて口を開いた。


 いま取りにゆけば、争いになります


 蝦夷が、わずかに眉を動かした。


 待つ、か


 入鹿は答えた。


 待てばよろしい


 馬子は、そのことばを聞いて、ゆっくりと息を吐いた。


 おぬしは早い


 入鹿は頭を下げた。


 早く見ねば、遅れます


 蝦夷は、それを咎めなかった。

 馬子もまた退けなかった。


 しばらく沈黙があった。


 やがて入鹿が、ほとんど独り言のように言った。


 葛城は、いづれ


 それだけであった。


 だが、その短さが、かえって鎌足の胸に残ったと、のちに川瀬から聞かされて思った。


 夜、鎌足は御食子の屋で、そのことを聞いた。


 御食子は長く黙っていた。

 やがて言った。


 蝦夷どのは、父上をよく継ぐ

 入鹿どのは、父上の先を見ておる


 それは怖ろしいことでございますか


 鎌足が問うと、御食子はすぐには答えなかった。


 怖ろしい


 やがてそう言った。


 思いは、人の身とともに薄れることがある

 されど、手は残る

 手が残れば、のちの者どもが、それをまた理にいたします


 鎌足は、そのことばを胸に入れた。


 葛城は、今日、大王に拒まれた。

 だが、拒まれたことで終わるのではないのかもしれぬ。

 人の胸に残り、

 人の手に移り、

 のちには別のかたちで戻ってくることもある。


 その夜、風は弱かった。


 宮は静かであった。

 だがその静けさの下で、拒絶された願いが、もうただの願いではなくなりつつあることを、鎌足は感じていた。



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