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クッキーフレンド  作者: 加護景
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病院にもクッキーを

 金曜日の病院は意外に混んでいた。ただ薬を貰うだけなので僕にはあまり関係のない話ではあるが、待合室で辛そうに順番を待っている人を見ると、少し心が痛くなる。それにしても、病院の匂いというものは未だに慣れない。あのイソジンとアルコールを混ぜこぜにしたような匂いは一体どこから来ているのだろうか。


 病院の隣の薬局で、処方箋を提出し、薬を受け取る。これで本日の仕事は終わり。実に晴れ晴れとした気分だ。後は実家に帰るぐらいだろうか。着替え……は必要ないか。置いてきてる服もあったはずだし。


 そうして、薬局から出ると、そこには見覚えがある姿があった。何を見ているのだろうか。彼女はぼんやりと上を見上げていた。まるで、空から何かが降りてくるのを待っているかのようだった。触れてしまうと、壊れてしまうような、儚い表情を浮かべている。そんな彼女を僕は知っていた。見間違えるはずがなかった。


 僕は彼女に近づき、話しかける。


「こんなところでどうしたんですか、三枝さん」


 顔を上に向けたまま、目線だけ僕の方に向ける。なんとなく不機嫌そうだ。


「……誰ですか?」


 三枝さんは冷たく言い放つ。他人のふりをしようとしているのだろうか。まあ、確かにこんなところでぼんやりとしている姿を知っている人に見られたくはないだろう。少しデリカシーの足りない行動だったのかもしれない。もしかすると、本気で僕のことを覚えていない……なんてことはないか。


「やだなあ、僕ですよ、三枝さん。羽田光輝です」


 ふうん、とわかったような言葉を発した後、三枝さんは携帯を取り出し操作をし始めた。しばらくすると、ピロンとメールが届いた音がした。三枝さんからだった。


『おはようございます』


 僕は思わず空を見上げる。外はもう、茜色に染まっている。夕暮れ時だ。


「もう夕方ですよ、三枝さん」


 真っ当なツッコミを入れると三枝さんは興味のなさそうな顔をこちらに向ける。


「ああ、なんだ、羽田さんだったんですか。すみません、あまりに地味だったので思い出せませんでした」


 会う度に他人のふりをするのは、三枝さんなりのユーモアなのだろうか。三枝さんはそういうのには縁遠い人だと思っていたけれどそうではないらしい。ただ唯一の問題点は、その冗談をされると僕が少し傷つくことぐらいだろうか。まあ、三枝さんにとっては多分、些細な問題なのだろうが。


「こんなところで会うなんて……どこか具合が悪いんですか」


 僕の言葉に三枝さんはそっと眉を顰める。


「……そうなのかもしれません」


 そうなのか、それは一大事だ。すぐに看病してやらねば。もちろん、二人っきりで。


 そんなあらぬ妄想をしていると、羽田さん、と三枝さんが呼びかける声がする。


「具合が悪いとは、どういう状態だと思いますか」


 哲学的な質問を投げかける三枝さん。いつもそんな難しいことを考えているのだろうか。


「そうですね……どこかが痛いとか、気分が悪いとか、体が普通の状態じゃないことだと思いますが」


「では、普通の状態とはどういった状態なのでしょうか。普通とは一体何なのでしょうか」


 普通。確かによく使ってしまいがちな言葉だが、考えてみると意外に難しい。


「うーん、難しい質問だけど、普通っていうのは最頻値の範囲内にいるってこと何じゃないかな。テストでいうと、偏差値五十付近が普通ってことなんだと思うけど」


 偏差値でいうと四十八から五十ニぐらいかなと想像する。そう考えてみると意外に広がりがあるように思えるが。


「つまり普通の状態っていうのは、今までの人生の中で、最も経験したことのある状態ってことなんじゃないかなあ」


 頭痛を感じている状態や下痢の状態が最も長い間経験している状態の人なんてさすがに存在しないだろう。そういうのは普通の状態じゃない、つまり具合が悪いのだと言えるのではないだろうか。


 なかなか上手いことを言えたなと、自分で自分を褒めているが、目の前の三枝さんは納得しているのかいないのか、微妙な表情を浮かべていた。何か不味いところがあったのだろうか。


 僕の不安を裏付けるように、例えば、と三枝さんが話を切り出す。


「生まれつき心臓が弱い人がいたとします。その人は自由に走ることも歩くこともできないでしょう。果たして、それは普通の状態なのでしょうか」


「それは……普通でないと思います。なぜなら、私達の大多数は走ることも歩くことも難なく行えるからです」


「つまり、他の人との比較も、普通であるかどうかの基準になるわけですね」


「そうなりますね」


 少し考え込む三枝さん。口元に手を寄せる仕草が非常に知的だ。その様子に見惚れていると、三枝さん口元が微かに動いた。


「――いないとしたら」


「えっ」


「他人がいないとしたら、比較するべき人が存在しないとしたら、どうでしょうか。歩くことができないその状態を普通だと思うでしょうか」


「……思うんじゃあないでしょうか」


 要するに、客観的に見るか、主観的に見るかの違いだ。自分以外の大多数と比較すると、自分が他の人とは違うことは一目瞭然だ。大勢の人が自由に歩いている姿を見るだけで、自分が普通でないということが容易に想像することができる。しかし、もしも世界に自分一人だけしかいないのであれば、歩くこともままならないのは普通であると言える。そもそも歩くという発想すら生まれないのかもしれない。


「そうですね。普通だと思うのかもしれません。では、その人にとって、その状態は幸せなのでしょうか、それとも不幸せなのでしょうか」


 それは……どうなんだろう。確かに自分以外の人が自由に動き回っているのを見るのは辛いし、悲しいだろう。だから、他人がいないということは、ある意味幸せだと言ってもいいのかもしれない。自分が劣っていると、不幸であると知らない内は幸福なのだ。


「その人にとっては幸せなんじゃないですか」


 僕の答えに、三枝さんが言葉を繋ぐ。


「それでは、もし、後から心臓が弱くなって歩けなくなったとしたらどうでしょうか」


「不幸せ……なのだと思います」


 自由に歩くことのできる昔の自分を知っているのだから、当然そう思うだろう。


「私もそうだと思います。では、もし、歩けない期間の方が長いのだとしたら、歩ける状態と歩けない状態、どちらが普通になるのでしょうか」


 即答しかねる質問だ。非常に難しい。僕の感覚からしたら、当然歩ける状態のほうが普通なんだと思うけど、当人からしてみればそうは思わないかもしれない。なんたって歩けない時間のほうが長いのだ。歩けないのが当然だ、とは思わないかもしれないかもしれない。だけど、歩けないのが日常だと、普通なのだとは思うかもしれない。


「歩けない状態が普通……なんですかね」


「残酷だと思いませんか」


 僕の言葉に被せ気味に三枝さんが話す。突然の言葉に、えっ、と間抜けな声を上げてしまう。


「不幸せな状態が普通だなんて、あんまりだとは思いませんか」


 三枝さんが悲しげな表情を浮かべながら言う。


 確かにそうだ。自分が不幸であると、しかもそれが普通なのだと、そう思いながら生きていくのだ。それはきっと辛いことなのだろう。


「だから」


 はっきりとした口調で三枝さんは宣言する。


「抗わなければいけません。戦わなければいけません。自分が不幸なのだと、そう思わないように、為すべきことをしなければいけません。昔の幸せを、普通を取り戻さなければいけません」


 羽田さん、そう僕に問いかける。


「確かに、その人は不幸なのかもしれません。ですが、不幸なままで終わらせる必要はないのです。その人はきっと、昔の幸せを、普通を、取り戻そうとするでしょう。足掻いて、もがいて、必死になって、それでも元通りにはならないかもしれません。歩くことができないのかもしれません。そうであっても、歩き出せる日を信じて、進み続けるしかないのです」


 三枝さんの真剣な眼差しに、僕は何も答えることができなかった。ただただ、傍観者として聞き手としてぼうっと突っ立ているぐらいしか僕にはできなかった。僕はこんな三枝さんを見たことがなかった。僕の知っている彼女とは何かが違う、そんな予感がした。この違和感は正しいのだろうか。間違っているのだろうか。


 ……そして、三枝さんはどうしてこの話をしているのだろうか。話しぶりからして、きっと昔から考えていたことなのだろう。長年思ってきたことなのだろう。三枝さん自身と何か関係があるのだろうか。


 ぐるぐると思考が渦巻く中、三枝さんが僕に言う。


「……すみません。少し喋りすぎましたね」


 はっ、として我に返ると三枝さんはいつもの冷たい表情に戻っていた。


「次のクッキー作りですが、テストが終わってから……そうですね、その週の土曜日にでもしましょう。予定は大丈夫ですか」


「えっ、あっ、はい、大丈夫です。その日なら一日中空いています」


 慌てて挙動不審な喋り方をしてしまった。いけない、いけない。もうちょっと冷静にならないと。


「わかりました。それでは、詳細はまた、連絡します」


 そう言うと三枝さんはその場を去っていった。


 僕がその場でしばらく放心していると、一通のメールが届いた。


『羽田さんは今、幸せですか』


 それはもちろん、答えは決まっている。


『幸せですよ』


 三枝さんに会えること、今の僕にそれ以上の幸せなど存在しないのだ。


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