カジツノシマイ(2)
◆
凍てつく刃が彼女の両足を突き刺した。
極寒に荒れる吹雪の中。
高鳴る鼓動は悲鳴のように〝動け〟と叫ぶが、体の芯となるものがそれを拒んだ。
少女は光景に縛られている。狼狽する心の影は、鈍重に彼女を放さなかった。
「あ、あ――」
孤独な英雄は立ち尽くしていた。
冷たき世界。凍える吐息は少女が想う景色の心象に過ぎない。
極寒に包まれ身じろぎができないのではない。むしろその対極。
熱い――
灼熱の炎はいまだ紅き尖塔となり、残されたものを容赦なく焦がしていく。
熱い――
燃える世界において彼女は寒さを感じていた。
汗が伝った。肌を流れる雫。肌が凍り付き身が剥がれ落ちたように錯覚した。
「どうして――」
怯むような熱気に曝されながらも、場違いな氷の彫像のように彼女はその場から一歩も動けなかった。
背を向けることは許されない。身開かれた双眸がそれを赦すことはない。
彼女だけを切り取るように、拒絶するように、まるで始点であるかのように滅びは明確に区切られていた。
彼女が持つ力――加護なるものが、あるいはそう結果を分けたのかもしれない
だから境界線の只中にただ無事に存在する自身だけを責めた。責めなければならなかった。
「……」
唇をかみ、震える彼女の視界が呆然と右腕へと向けられた。
少女の手。光を宿すその右腕。
それは世界を救う力を持っていた。――持っていた。
彼女は遅すぎた。いや早すぎたのだ。
仲間よりも一足早く、唯一人でここへ辿り着いてしまった。
彼女がその人生の中で築き育んできた心を支える仲間たちは、今はここにいなかった。
信頼を寄せる友。頼りになる戦友。導きを示す師。そして彼女を認める仲間たち。
心の熱となる者たち。何度も顔を合わせ、声を聴き、思いを交わし合った。
だが今はその顔すら思い出せなかった。
両手で足りる彼らの姿は、星の数ほどいる彼女が護りたかった隣人たちの死で容易く塗りつぶされていた。
そうして今、決壊に揺れる彼女を救う者はなかった。
心は相対の鏡。環境という世界を学習し、反映に応じ構築されるシステム。
あるいはそれこそが奇跡なのかもしれない。
見えず、示せず、証明できず。
広大な世界に存在する数え切れぬほどの末端という単位。そのすべてに定まりのない形としてそれは備わっていた。
あるいはそれこそが悲劇なのかもしれない。
天上より選ばれし者へと託された超常の力であってさえ、誰も知らない領域に在るものを侵すことは出来なかった。
まるで本質という根源では相容れぬことを示すかのように、如何に力を引き出そうとも俯瞰者たちのそれへと変質が果たされる事は無かった。
超越者ではない、ただヒトである彼女たちは――彼女は知っていた。
現実という難題を。夢想無き未来を。
その中にあるものを――
数秒ごとに死んでいく命。奪われる財産。滅ぶ街。悪政嗤う国。
そういうものがあった。いくつも見てきた。
今、目の前にある状況もそんな一つに過ぎない。
万能である彼女たちに寄せられる期待――約束は違えることが許されぬ呪いでもある。
救えるものを救い、糺すものを正す。
人の世に降りかかる災厄からすべてを救ってみせるには、世界はあまりにも広いという諦観に背を向け――いつかの失敗を予感しながら、それでも彼女たちは奇跡的にうまくいっていた。
――そして失敗した。
誰かの希望とは関係がない、命じられたわけではない。
ただ自身が誓った、この場所だけはと己自身が信じていたこの場所を。
昨日までは平和だったはずのこの町が、何の前触れもなく滅ぼうとしていた。
原因は――〈罪悪の獣〉だ。
局地的に〝繋がった〟のではなく、広域的に〝開けられた〟という事態は、果たして必然か偶然か。
「ううっ、あ、ああっ……ああ――」
絶望を過ぎ、彼女の瞳は憎しみに沈もうとしていた。
怒りという感情を誰かに、何かにぶつけなければならない。
そうでなければこの心は壊れてしまう――
心が昂ると剣はそれに応える。
剣は正しさも間違いも下さない。
聖剣とは名ばかりの、正邪の分別すらない。
共感という感情を理解できない超越したモノが作り出したのだから。だから担い手の悲しみすら汲む事は無い、ただの心持たぬ道具でしかなかった。
「ダメ、だ――!」
だから彼女は踏みとどまった。こんな道具程度と、そんなものと同じであると思いたくないという感情が彼女の顔を再び上げさせた。
――今するべきことは何か?
すでに死んだ者を甦らせることは無理だが、その危機に瀕している命ならば救えるかもしれない。
仲間の到着を待ってはいられない。直ちに〈獣〉の世界へと向かわねばならなかった。
〈獣〉を狩れば――狩りつくせばまたいつもの日常が帰ってくるはずだから。
だが、その足を動かせなかった。
彼女にとっての〝宿敵〟が今まさにその視線の先にいた。
「お前は――」
長い時を掛けて追いかけ、探し求めていた。それがこの状況、この場所で遭遇することになるとはなんという皮肉。
「いやこれは必然なのか……ここならば、そう……」
この事情に名を付けるならば私怨と呼ぶのだろう。当然、無数の命と釣り合う天秤としては成立しない。
それはわかっていた。それでもこの剣を、今向けなければならぬ理由があった。
どうする――
チクタクと時の針は刻み続ける。止まっていたものが動き出し、動いていたものは止まっていく。一秒の価値は変動し、あるいは残酷な切れ味となり、時間という意味を切り分け続ける。
「こんな、時に――!」
視線で、見るだけで、思うだけで罪を濯ぐことが出来るのならば。
願いで、祈るだけで、触れるだけで病んだ心を救い、涙を微笑みに変えることができるのならば。
――もし、この身が世界を創る神であったのならば。
そう願わずにはいられなかった。
「この出来そこないめ……!」
それは誰に向けられた声であったか。
光をその手に、孤独な英雄は立ち尽くす。
聖剣に選ばれた戦士は世界を救う力を持っていた。
――持っていた。
2018/06/07【投稿】オヒサシブリデス。