ある日の事件――発端(2)
◆
音。亀裂。それは背後に在る学園の校舎からだった。
訝しがるように振り返る。音の出所を探す。同時に上階の窓が何の前触れもなく割れ落ちたのが見えた。
「なにかあった……?」
ブライカがこの場所を通りかかったのは偶然である。
やはりというか、エトリは放課後の付き合いが悪くなっていた。今日も探してはみたものの、学園にいる痕跡は見あたあらず、それはついでに探してみたあの教師も同様だということを知ってブライカも帰ろうとした。
――きっと二人でどこかでお茶でもしているのだろう。それで本当にお茶を飲むだけで、そのまま何事もなく普通に別れているのだろう。なんという、面白くなさ。真面目か。
何となくあの二人の〝甘い〟情景が想像できなくて、それでもブライカはため息をついた。
「嗚呼。あたしも恋がしたい」
見上げた視線を凝らしても、その教室の中で何かの異常が起きているようには見えなかった。
「ただの老朽化か、な?」
ぱりん。二度目の音が聞こえた。
躊躇はしない、脅威を感じて飛び退る猫のようにブライカは全力で校舎から距離をとった。
何かが当たったようには感じなかった。教室内も明かりが点いておらず無人に見えた。
「……?」
その時、何かが聞こえてきた。どこか遠くから。放射状に広がり連鎖する音。
喩えるなら倒れるドミノの弾み。同調して響く、規定された演奏回路。静かな小石から始まる波紋が、水面を揺らがせ続けるような。
「――っ!!」
弱々しくも波は途切れない。水面に沈む最初の轍も、呟く輪唱も未だ聞こえている。
違う。続いているということは、それを奏でる力は蓄えられているということだ。
ただの音で終わるわけがない。その時が来れば進路上のすべてを押し流し、暴力的に突き進む、波となる――!
「まずい! 来てる!!」
ブライカは最初の窓ガラスが割れた意味に気付いた。
歪みだ。校舎という立体の枠が内側から膨張する何かに圧されて軋む。まずはそれに耐えられなくなった窓ガラスから亀裂が刻まれる。
膨張による圧壊。そしてそれは今なお続いている。
「なんだ!?」
昼と夕暮れの境目。次々と校舎から流されていく銀色の星屑。それは不吉な流れ星としてブライカの全身の毛を逆立てた。
「ちっ――!」
降りしきるガラス程度ならば〈套紋〉で防ぐことは可能だが、この音の原因が不明だ。ここは一時撤退するべきだ。逃げる時は全力で。ブライカの足は再び地面をけりだした。
結果としてそれが正しかった。
ひとしきり校舎の窓を崩しきったことを示すかのように、大量に何かが飛び出してきていた。
「……蛇……?」
肩越しにそれを見つめるブライカにはそう見えた。のたうつように暴れながら狭い出口を抉じ開けようとする、多頭の大蛇のように見えた。
仮に蛇であるならばどこかに頭部器官が存在するはずだが、飛び出してきた先端は全て槍のような穂先であり、目のようなものはどこにも確認できない。それに個という意思がないのは鞭のように全身を叩きつけ、時には絡ませ合い、抉り合いながらも何ら痛痒を感じていないことからも見て取れた。
「……違う。あれは……」
これが単一の生物であるとは考え難い。
つまりこれ自体が一つ、もしくは複数の植物の群体のような性質なのだろう。だが植物にあるまじき速度で何かに食らいつくようにうねりを轟かせ、瞬く間にさらなる枝を伸ばし、それが組み合いながら次々と増殖しているのた。校舎という宿主を内側から食い破り、飛び出してきた大蛇の群れという錯覚を感じるのもあながち間違いではないだろう。
――奇跡という神秘は魔術という技術になった。
例えば新しい技術。新たな概念。
だが便利と幸福だけを手に入れることなどできはしない。
革新という進化そのものが新たな業と成るのは必然の歪みである。
故に。
人為を介し創造を超えてしまった現象。
人の手に余る〝幻想〟が世界に顕現してしまった状況。
「これは――魔術災害だ」