十章
第十章 天主の塔
カーンのランプは遠くの霧の中に落ちた。遠くに見えるランプの光を頼りに進めば、きっと、天主様の塔の方角へ進むことができるだろう。……そんな不確かな事を考えながら、ルーネベリたち六人は老婆に別れを告げて、霧の中を歩きはじめた。
パシャルはクワンに話しかけていた。会話を盗み聞きするつもりはなかったが、大きな声で話すので自然と会話が耳に聞こえてきた。
パシャルは言った。
「クワンも剛の世界に住んでいないのかぁ。俺も今は、物の世界に住んでいる。久しぶりの剛の世界は、山と天秤の剣以外は、人も少なくて物もなくて寂しいもんだよなぁ」
クワンは「私は剛の世界が好きです」と言ったので、パシャルは言った。
「剛の世界が好きなら、なんで離れたんだ?」
「十歳の時に黒夜で家族を失くしましたので、やむなくです」
アラも二人の会話を聞いていたのだろう、人知れずびくりと肩を揺らしていた。
クワンは言った。
「親族も失くしていたので、他の世界の里親に育てられました。里親も、もう亡くなりました。今、家族といえるのは仲間だけです」
パシャルはバツの悪そうに首元を掻いた。
「悪い、辛いことを言わせて……」
クワンは首を横に振った。
「口に出すたびに、家族を思い出せて私は幸せです。辛いことさえ己の糧です。糧を得た分、精一杯、これからを生き抜かれなければ」
「立派な考えだ」と、アラが言った。
「アラ……」と、パシャルがアラの方を見ると、アラはランプの光の方を向いて言った。
「お前のように生きられたらどれほどいいだろう。いつまでも過去に縛られ、何も変えることができない。たった一言にずっと苦しめられている。あの言葉を告げた本人は、もう忘れているのに」
クワンはアラを見ながら、首元の革ひもを引っ張った。きらりと、クワンの掌に納まった銀色に鈍く光る飾りが見えた。それは背に銀色の翼をもつ人の形をしていた。
アラははっとして、右手で自身の口を塞いだ。
「すまん。私は何を言っているのだろう。出会ったばかりの者たちに、こんなことを言うなんて、どうかしている……」
「霧のせいかもしれないね」と、ルーネベリ同様、話を聞いていたシュミレットが言った。
「霧が不安を煽っているようだよ」
ルーネベリは言った。
「この霧が?」
「僕もこのタイトゥームに来てから、少し不安になるせいかな、嫌なことを思い出すことがあるよ。まだ何も話していないのは、僕の理性が勝っているからかな」
賢者は冗談のようにそう言ったが、ルーネベリは笑わなかった。なるほどと、頷いたのだ。皆、自覚していなかっただけで不安を感じていたのかもしれない。アラは黒夜の出来事、パシャルは仕事を解雇されないかどうかの不安が言葉として口から出たのだ。
ルーネベリは歩きながら顎に手を当てた。
「不安……」
不安に思った時、考えることは人によって異なる。ルーネベリにとって気になったことは、この世界は何なのかということだった。天秤の剣の内部にしろ、十三世界ではない別の球体にいるにしても、大方、自分がいる場所がどこにあるのか、ある程度の目安になるような正確なものが欲しかったのだ。ルーネベリには村というだけでは不十分だ。いつも抱く疑問はわくわくするが、今回はまるで違う。心がざわめいて、気持ちがまるで落ち着かない。
この世界の姿を隠す霧が不安を煽っているというシュミレットの言葉は事実だと、ルーネベリも思った。だが、それがわかったところで、ルーネベリに何ができるのかはさっぱりわからなかった。ただ、ここがどこなのかという謎をどうにか解明かしたいという気持ちだけが強くなるだけで、解明できる気はまったくしないが、気がつくと、また同じことを最初から考えていた。
ランプを投げた場所へ到着すると、カーンが再び遠くにランプを投げた。そして、再び、霧の中に見えるランプの光を追いかけて歩いた。その単調な動作を七度も繰り返した。
いつしか、皆は黙り込み、それぞれが考えに耽っていた。ぐるぐると答えのない思考を巡らせて、身体だけは規則的に歩きつづけたのだ。
シュミレットとルーネベリ、アラとパシャルとカーン、クワンは霧の中を途方もなく長い距離を歩きつづけた気がした。歩くことによって体力を消耗したという感覚はなかったが、精神的には皆疲れていた。考えなれけばいいと思っても、考えてしまう。思い出したくなくても、思い出してしまう。皆、心の中に見えるものに苦しみ、悲しんでいた。
ただ一人、六人の中でもっとも考えることが少なかったカーンだけはランプの光をしっかりと見据えていた。カーンは相棒のパシャルのように口数が特別多いわけでもなく、無心になることに慣れていた。後悔や反省とは無縁の男だったのだ。そのことが幸いしたのか、彼だけはたびたび、思考に耽る五人の様子を伺い見る余裕があった。誰かの足が遅くなっても、カーンが腕を引っ張り歩かせて先導したのだ。五人がバラバラにならなかったのは、カーンのおかげだが、誰もそんな些細な事にも気がつかなくなっていた。
霧の中にいるだけで少しずつ霧と同化してゆく、そんな気味の悪い感覚に襲われ。思考という迷宮に五人が溺れていた。虚ろになっていく五人の顔を見てカーンが焦りを感じはじめた頃、久しぶりに霧の中に声を聞いた。
目が覚めるほど明るく声が「おーい!」とランプを投げた方角から聞こえたのだ。カーンの不安が一気に掻き消えた。
カーンが大きな声で「誰だ?」と叫んだ。すぐに明るく若い男の声が返事をした。
「僕はタイトゥーム村のゼアロス!」
カーンはびっくりした。こんなにあっけなくゼアロスが見つかるとは思わなかった。カーンは叫んだ。
「お前がゼアロスか!」
「助けに来てくれたんでしょ!ラーズの音が聞こえたよ。ランプが壊れて、帰れなくなって困っていたんだ。こっちに来てくれる?」
「すぐに行く!」
カーンは五人を振り返るが、皆、まだ思考に耽り、虚ろな目をしたまま歩きつづけていた。ゼアロスを見つけたことにも気づいていなかった。仕方なく、カーンは五人をそのまま歩かせて、ランプの光を目指した。
ランプはそこからさほど遠くない場所に落ちていた。五人はランプのある場所で一度立ちどまって、再びランプが投げられるのを待っていた。皆、無意識の動作だった。
カーンがわざわざ皆の足をとめる必要はなかったので、さっそくゼアロスの姿を探すと、ランプから少し離れたところにある大きな岩の前で緑の布帽子と服を着た小柄な青年が両腕を手で覆って震えながら座り込んでいた。ゼアロスだろう。カーンたち六人に気づいたゼアロスは微かに笑った。震えて寒そうな見た目とは裏腹に、明るい声で言った。
「助けに来てくれて、ありがとう。このまま死ぬかと思ったよ」
「大丈夫か?」
「ちょっと寒いけど。大丈夫だよ。近くに池と果実の成る木があるから、ひもじい思いはしなかった」
「食料はあったのか。よかったな」
「うん。僕よりも、後ろの人たちの方が顔色悪いね。大丈夫?」
「途中からずっとこの調子だ。どうすりゃいい?」
ゼアロスは少し首を傾けてカーンの後方に立つ虚ろな顔をした五人をまじまじと見て言った。
「お兄さんたち、よその村からきたの?」
「そうだ」と、カーン。ゼアロスは言った。
「霧に慣れていない旅人がかかる病かもしれない。心と体が離れていく病だよ」
「どうにか、ならんか?」
「……光玉はあと二つしか持っていないけど、助けに来てくれたお礼に治してあげるよ。目を閉じて、眩しいよ」
カーンは頷いて、目を閉じた。ゼアロスは震えながら緑色のズボンのポケットに手を突っ込んで、何やら茶色い革の袋から黒い球を取り出した。それは土のようなものでできていたが、カーンは目を閉じているので、ゼアロスが持っている物が何なのか聞く暇などなかった。もっとも、見ていたとしても、カーンは聞かなかっただろうが……。
ゼアロスは黒い球を地面に向かって投げた。黒い球は地面に衝突すると、強烈な閃光を発して一瞬で消えていった。瞼の上からわかるほど明るい光がなくなり、小さな耳鳴りを感じながらカーンが目を開くと、周囲の霧がみるみると薄くなり視界が開けてきた。
ゼアロスは言った。
「少しの間、霧が晴れるけど、また少ししたら元に戻るよ。霧が戻る前に、はやく皆の肩を叩いてあげて。身体に心を戻すんだ」
カーンは急いで五人の元へ近づき、アラから順に肩を掴んで「おい」と呼びかけた。五人は身体を強く揺さぶられると、ほんの数秒後には虚ろだった目を瞬きさせた。まるで息を吹き返したかのよういだった。五人の身体の中で何が起こったかわからないが、ゼアロスいわく、身体に心が戻ったのだろう。目には生気が戻り、ランプの光が映り込んでいた。顔色もよくなってきた。
アラは「何が起こった?」と呟き、パシャルは「揺さぶるな。気分が悪くなる」と騒いだ。シュミレットは不機嫌そうに眉を潜めていた。ルーネベリは首を傾げながら周囲を見まわし、クワンはぼんやりとカーンを見ていた。
カーンはそんな五人の反応にほっとして、ゼアロスに礼を言った。
「助かった」
ゼアロスは微笑んで「困った時は、お互い様だよ」と言い、震える両腕を撫でながら立ちあがった。はじめて見た時から小柄だなと思っていたが、ゼアロスの背の高さはシュミレットと同じぐらい低かった。老婆と同じように背を丸めているので、少し高いぐらいだろうか。ゼアロスを見たアラが「誰だ?」と言ったので、カーンは「ゼアロスだ」と言った。
パシャルは叫んだ。
「もう見つけちまったのか。拍子抜けだぁ」
カーンはパシャルの方を向いて、「途中からの記憶がないのか?」と聞こうとしたが思いとどまり、いつもどおりに笑った。カーンには些細な事など、どうでもいいのだ。ただ、相棒が元気になって安心していた。
気を取り直したルーネベリはゼアロスに言った。
「あなたがゼアロスさん?」
ゼアロスは黙って頷いた。
「どうしてここに?確か、天主様の塔に向かったのでは……」
「天主様の塔に向かおうとしたんだけど、ランプが壊れたんだ。この霧だと、ランプがないと家に帰れないから。ここで婆ちゃんがラーズを鳴らしてくれるのを待っていたんだ」
「ラーズというと、あの鐘のことか……」
ゼアロスは六人が手に持っているランプを見て言った。
「六つランプを持っているなら一つ僕にくれない?家に帰って婆ちゃんに心配ないよって言いに行きたいんだ」
「あぁ、それなら俺のランプをどうぞ。もともと、あなたのお婆さんに頂いたものですから」
「ありがとう」
ルーネベリからゼアロスはランプを受け取った。手がぶるぶると震えるので、ランプも震えるように揺れていた。
「寒いから、はやく家に帰って暖かい服を着たいよ」
カーンは言った。
「一人で帰れるか?」
「ランプがあるから、大丈夫。家に帰って、天主様の塔には行けなかったって言うと、婆ちゃん落ち込むだろうけど。しょうがないよ」
しゅんとしたゼアロスにルーネベリは言った。
「天主様の塔に行けないっていうのは?」
「塔がすごいことになっているんだ。お守番のせいだよ。天主様の棺桶の蓋を開けたままにしたから、天主様がお怒りになったんだ」
ルーネベリは首を傾げた。
「それはどういう意味なのか……」
ゼアロスははっきりと見える岩を指差した。
「この三つ頭の岩を左に沿って行くと、天主様の塔があるんだ。見に行ってみると、わかるよ。風がぐるぐるになっていて、あんなの誰も通れない」
パシャルは後ろから小柄なゼアロスに近づき、半ば覆いかぶさるように抱きついた。パシャルの重みでゼアロスは前に転びそうになった。パシャルはにやけ顔で言った。
「俺たちが塔を見に行くついでに、墓の蓋ってやつを閉めに行ってやろうかぁ?」
「パシャル!」とアラは叫んだが、ゼアロスはパシャルに言った。
「棺の蓋を閉めてくれるの?僕の代わりに行ってくれるなら嬉しいよ。村の皆も助かるよ」
「任せとけ」と、片手をあげたパシャルにアラは言った。
「パシャル、いい加減にしろ。勝手に決めるな」
「アラ、どうせ、ゼアロスを見つけた後は俺たちなにしたらいいのかわからないだろぉ。蓋でも、栓でも閉めに行ってやろう」
「光の導きはどうなる?」
アラの言葉を聞いてカーンは思った。光の導きといえば、つい先ほど、ゼアロスが何か光るものを発した。あの光のおかげで五人は正気に戻ったのだ。もしかしたら、あの光も導きだったのかもしれない。しかし、そんなことをいちいち説明するのも面倒だったカーンは、「行こう」と皆に言った。
アラは言った。
「カーンまで何を言っている!」
「どうにかなる」
「どうにかなるって、お前……」
急にクワンが腹を抱えてハハハと笑った。
「どうした?」とパシャルが聞けば、クワンは言った。
「向こう見ずなところが、仲間に似ています。アラさん、棺の蓋を閉めに行きましょう。カーンさんの言う通り、案外、なんとかなるかもしれません」
シュミレットが頷いた。
「そうだね。どちらにせよ、さっさと前へ進んだ方が身のためかもしれないね」
「――えっ?」とルーネベリ。なにやら引っ掛かる言い回しをしたシュミレットは、何食わぬ顔でゼアロスに「この岩の左側に沿ってだね?」と聞いた。何かあるのだろうか……。
ゼアロスは頷いた。
「この岩を左に沿って歩くと着くよ。皆、くれぐれも気をつけて。それじゃあ、僕は家に帰るよ」
右手を振って、背を向けたゼアロスはランプを片手に霧の中へ消えていった。この霧の中、ランプを投げるのではなく、明かりを持ったまま進むことができるのは、ゼアロスが霧の町の者だからだろうか……。
六人はゼアロスの言う通りに岩の左手に沿って歩いて行った。
気のせいか、天主の塔へ向かって歩くたびに霧が晴れているようだった。その証拠に、以前は足元がよく見えなかったというのに、今では白灰色の小石ばかりが積み重なった地面が見えていた。視界がくっきりと晴れてくると、遠くに寂びれた灰色の裸の木がぽつんぽつんと数本離れて立っているのが見えてきた。緑もない、霧が残る殺風景な風景がなんとも侘しく感じる。
この急激な変化が気のせいではないとわかった六人は互いの顔を時折見ては、首を傾げるばかりだった。頼りの賢者シュミレットでさえ何も言わないので、霧の晴れてゆく道を黙って歩くだけだった。
三つ頭の岩の端にとうとう辿り着くと、霧がふわっと一瞬にして掻き消えていった。不安を煽る霧が消えたというのに、六人は喜ぶことはなかった。なぜなら、目の前に現れた恐ろしい光景に驚愕していたからだ。
パシャルは目を擦り、アラとカーン途方もなく高い空を無言で見上げていた。クワンは祈るように胸元に手を当てている。シュミレットは呆然と見上げるルーネベリに落ち着いた口調で言った。
「困ったね。ゼアロスの言っていたものがこんなものだとは思わなかったよ」
ルーネベリは赤い頭を掻いた。
「……俺もですよ。まさか、巨大竜巻に遭遇するなんて思いませんでした。天主様の塔は無事なんですか?」
「さぁね。この中で無事なら、たいした建物だよ」
「そうですね、無事に建っていればですが……」
首を縦に振ったルーネベリはもう一度、目の前に見える巨大竜巻を見上げた。
横幅は一体何十キロになるのだろうか。二メートルを超える五人など、竜巻の大きさに比べればまるで小さい点のようなものだろう。タイトゥームの空を支配するかの如く白く大きく渦巻く竜巻は、地から空へ大きな霧の柱を立てていた。霧の柱は恐らくは風が高速で渦巻いてできているのだろう。この巨大台風のおかげで霧は消えたが、新たな問題に突き当たってしまった。
シュミレットは言った。
「さて、どうしようかな?」