六章
第六章 森の中の研究所
沢山の薄いピンク色の蝶たちがふわふわと飛び、幻想的な風景が空に広がっていた。見る分には、良い眺めだった。
シュミレット曰く、魔術式で捕まえようとしても突然変異を起こした種に魔力を吸われるだけでまったく意味がないだろうとのことだ。現に、シュミレットが魔術式を一つ発動させて、空に放つと、薄桃色の蝶たちが魔術式に群がり、魔術式は跡形もなく消え去った。
結局、人力で捕まえた方がずっと早いというので、ルーネベリが巨大な鉄の虫取り網で種を捕まえることになった。魔力を持った種は、魔力を吸収することはできても、虫取り網を壊して逃げるなど、人間のような知能は持ち合わせていないようだった。
ルーネベリは網を大きくぶんぶん振りまわし、ふわふわ飛ぶ薄桃色の羽をつけた種を捕まえながら呟いた。
「なんだか、昨年を思い出すな……」
昨年、理の世界で天才工学者ベッケル・オーギュレイの引き起こした「聖なる魔術式」事件。あの事件に比べれば、のんびり空を飛んでいる蔓の種などかわいいものだ。ただ長時間、巨大な虫取り網を振りまわすのはご免だなとルーネベリは心の中で思った。両腕と腰の筋肉がすでに張っていたからだ。
シュミレットは持参した鉄の歯車からさらにもう一つ鉄の虫取り網を作り。ユアンにも種を捕まえるように言った。ユアンは重たそうに網を振りはじめた。
羽のついた種を捕まえるのはさほど難しい事ではなかったが、数があまりにも多いので、蔓畑のある丘から離れてしまった種をわざわざ走って追わなくてはならなかった。
種を捕まえる作業は一時間半ほどで終わった。
羽付き種が大量に入った鉄の網の口をルーネベリが両手で縛ると、シュミレットが魔術式を発動させた。網の中で、種たちがシュミレットの魔術式に反応して暴れたが。自由のきかない種は網ごとみるみる小さくなった。ちょうどルーネベリの掌に納まるサイズまで縮ませ、ボールにしたのだ。
ルーネベリは鉄の網ボールを軽く空に投げて、捕まえた。
「これはいいですね。運ぶのに便利ですね」
「ルーネベリ、あまり刺激を与えない方がいいと思いますよ。一応、魔力を持っているのだから、突然、君を襲うかもしれないよ」
ボールを握りしめて、ルーネベリは言った。
「……まさか」
ユアンの持つ網の方もボールにしながら、シュミレットは言った。
「食人植物のルーツは君も知っているだろう。魔力を含んだ土とアルコール、そして、蔓科の種。――その昔、魔術師が殺害されて土の中に埋められた。魔術師を埋めた男は罪の意識から、お酒に溺れ、毎日のように魔術師を埋めた場所にお酒を撒きつづけた。一年経った頃、紫の葉を持つ蔓が生えてきた。殺害される前に魔術師が蔓科の植物の種を持っていたことを知らなかった男は、亡くなった魔術師が男に復讐しようと植物となって現れたのだと思い込み、蔓を燃やそうと、火をつけた。ところが、蔓は燃えるどこから爆発的に育ち、火を放った男に絡みつき、男を飲み込んだ。
君の持っている種も似たような条件で誕生したのだよ」
涼しげな顔でそう言ったシュミレットに、ルーネベリは顔を顰めた。隣でユアンは「恐ろしい話ですね」と言った。
「植物も学習すれば、物質変化させることができるのかもしれないね」
「やめてください」
シュミレットは「冗談だよ」とクスリと笑ったが。ルーネベリは一向に笑えなかった。シュミレットのいう食人植物というのはキイベラのことだ。二年前、ルーネベリは治癒の世界でキイベラに殺されかけたジェタノ・ビニエを見たので、これっぽっちも笑えないのだ。
茎がぱっくり裂けた蔓畑は、種が飛び出た後はすっかり静かになっていた。ルーネベリが茎を掴んで土から引っこ抜こうとしても、薄桃色の蝶は現れず。あっさりと引っこ抜くことができた。
「魔力は全部種が持っていったようですね」
「そのようだね」と、シュミレット。ユアンに言った。
「蔓を全部引っこ抜いた後、畑全体に塩の砂をまんべんなく撒いて一年ほど畑を寝がしておいてください。一年経ったら、だいたい土から魔力は抜けているだろうけれど、心配だったらアルケバルティアノにまた依頼書を送ってもらえればいいかな。僕の知人を寄こすよ」
ユアンは頷いた。
「わかりました。雑草はどうすればいいんですか?」
「普段通りに抜いてもらってかまわないよ。もう邪魔されることはないだろうからね」
再度頷いたユアンは、鉄のボールをシュミレットに渡して「後の処理はお願いします」と言った。
引っこ抜いた蔓一本と二つの鉄のボールを抱え、三人はレガート家に戻った。居心地の悪い応接間の椅子に座り、机の上に置いた蔓と二つのボールを見てルーネベリが言った。
「これからこれらをどうしましょうか」
ユアンは突然現れたティーカップに熱々のお茶を注ぎ、ルーネベリとシュミレットの目の前に置いた。
シュミレットは言った。
「そうだね。とりあえずは、種を研究所に持って行こうかなと思っているところだよ」
「研究所ですか?」
「君が言っていたではないですか。親友が植物学研究所に勤めていると」
「えぇ、それは言いましたが……えっ、ジョラムに会いにいくつもりですか」
「君の親友はジョラムというのかい。植物学者なら、突然変異を起こした種を調べてくれるだろうしね。種の引き取り手としては最も相応しい人物がちょうどこの世界にいるから、ちょうど良いと思っているのだけれど、なにか問題でもあるのかな」
「いいえ、ありませんよ。確かにジョラムなら調べるでしょうね。……いやぁ、久しぶりに会うので、元気にしているのか」
ユアンは言った。
「助手様には植物学者のお友達がいらっしゃるんですね。意外ですね」
「意外ですか?」
「魔術師と学者が仕事以外で付き合いがあるなんて、聞いたこともありゃしません」
「あぁ、いや、俺はもともと学者なんです」
ポットを持ったままユアンはたいそう驚いた顔をした。
「学者様?」
ユアンはルーネベリとシュミレットの顔を交互に見て、言った。
「賢者様の助手様は当然、魔術師だと……」
何度聞いたかわからない話を興味なさそうに聞き、カップに手を伸ばしたシュミレットは言った。
「残念ながら、君の予想に反して、魔術師である僕と学者である彼は仕事以外でも付き合いはあるのだよ。そんなことよりも、どこか第八世界でいい宿はないかな?」
ユアンは言った。
「宿でしょうか。……もしかして気にされとるんですか。蔓畑の件が片付いた後も、どうぞ、今後もこの屋敷に好きなだけ滞在なさってください。たいしたおもてなしはできていませんが」
「君の申し出はありがたいのだけれど、これ以上、僕らが居すわりつづければ、君も満足に畑の仕事ができないでしょう。もともと僕らはこの世界で長期滞在しながら別の仕事もこなす予定だったからね、適当な宿を紹介してもらえるほうが助かるのだよ」
まったく遠慮しているわけではないとシュミレットがきっぱりと言ったので、ユアンも執拗に引きとめるのはかえって失礼だと思ったようだ。こっくりと頷いた。
「わかりました。そういうことでしたら、海岸沿いのリゾート地にある宿ならいくつか紹介できます。よろしければ、手配などはわいに任せていただけませんか。わいは宿屋にも顔がきくので、少しは融通がきくかと思います」
「助かるよ」
「お任せください。――それと、先日、お嬢さんからご連絡がありまして、蔓畑の件が片付いたらお二人をぜひ食事にお誘いしたいと仰っておりました。幸運なことに、わいも食事に誘われているんです」
嬉しそうにそう言ったユアンに対して、「お礼など必要ありませんよ」とシュミレットが冷たく言うので、ルーネベリがなだめるように言った。
「先生、せっかくのご好意ですよ」
「だけど、君ね……」
「先生、断るのは失礼です」
シュミレットはルーネベリの方を向いて、ため息をついた。そして、降参といわんばかりに片手をあげた。
「わかりましたよ。君はよっぽどローディア・シスケイルに会いたいのだね」
「えぇ、美女には目がありませんから」
「君には本当に困らされているよ。美女などどこにでもいるでしょう。……それで、食事はいつ頃がいいのかな?」
「お嬢さんはいつでもいいと仰っていたので、一週間後などいかがですか」
「一週間後だね、わかったよ。どこに向かえばいいのかな」
「宿屋街の近くの海岸に、ひときわ大きな『アトゥール』というレストランがあります。第八世界一のレストランです。夕方に四名でご予約しておきますから、身体おひとつでお越しください」
ルーネベリは言った。
「楽しみですね。先生」
「そうだね、とっても楽しみだよ」
皮肉交じりにそういったシュミレットはお茶を飲み、呟いた。
「このお茶を飲み終えたら、研究所に向かうことにしよう。滞在中、君には大変お世話になったね」
「いいえ、こちらこそ。蔓畑の問題を解決していただいて、感謝しています。またいつでもお越しください。次に我が家にお越しの際には、両親と妹も賢者様にご紹介できるかと思います」
ユアンはにっこり微笑んだ。ルーネベリもユアンに世話になった礼を言った。
レガート家に滞在した三週間は瞬く間に過ぎ去ってしまった。この三週間、毎晩のように酒を飲むルーネベリに、ユアンは次々と美酒を持ってきては味見をさせた。ユアンが実は大酒飲みでもあると知ったルーネベリは酒飲み友達がまた一人増えたことを大変喜び。夕食後、我先にと部屋に帰るシュミレットを放っておいて、ユアンと二人で夜遅くまで様々な話について語り合った。
ユアンとすっかり仲良くなったルーネベリは今後も連絡を取り合おうと軽い約束を交わし、レガート家の屋敷を後にすることとなった。
屋敷の門の外まできても、どうしても最後まで見送るといってきかなかったユアンを困った顔で見ながら、シュミレットはそそくさと時術式を発動させて、光の柱の中にルーネベリを押しやると、第八世界の管理者の家へ向かって空間移動した。
二人を見送ったユアンは、ぼんやりと消え去る光の残像を見ながら、「賢者様はいろんなことができるのだな。さすがだなぁ」と一人呟いた後、宿屋とレストランの予約をするためにせかせかと屋敷に引き返して行った。
第八世界の管理者ヴェレーラの家は、シュミレットの話にあったとおり、うっそうと生い茂る青緑の木々の合間、森の中にひっそりと建っていた。
藁ぶき屋根の、左斜めに傾いた土壁の家にはガラス窓が一つ付いており。テーブルと椅子、ベッドとキッチン。暗い静かな室内が外から丸見えだった。
シュミレットは言った。
「今日も留守のようだね。まぁ、彼に会つもりでここにきたわけではないからね」
窓から埃のかぶった室内をのぞきながら、ルーネベリは言った。
「そういえば、ヴェレーラはどんな人物なんですか?」
「オレンジ色の底の深い帽子と、オレンジ色の長い上着を着た男ですよ」
「オレンジ色の帽子……わかりにくい表現ですね」
「彼の容姿についてはあまりよく見た記憶がないのだよ。帽子と黒い髪で隠れていたことと、あとは鼻が大きかった気がするけれどね」
「先生、それはあんまりじゃないですか」
「それほど彼と会っている時間が短かったのだよ。彼は植物に興味はあっても、人には興味がまったくなくてね。僕も彼に対して特別知ろうとしなかったから、お互いになにも知らないのだよ」
ルーネベリは笑った。
「先生らしいといえば、先生らしいですね。おいくつぐらいの方なんですか。それはわかりますよね?」
「年はもう六十近いのではないかな。第九世界のエルアと年が近かったと思うけれど」
「いつかお会いできればいいですね」
シュミレットは頷かなかった。
「彼はほっておくのが一番だよ。今のところ、後継者の件以外で会う理由もないからね。わざわざ、彼の幸せを壊すこともないさ。
さぁ、研究所の中へ入ろう。後ろに見えているあの建物が君のいっている植物学研究所でしょう」
ルーネベリは振り返った。ちょうど真後ろに第七世界の研究ドームの四分の一ほどの真新しい小さな白いドームが不自然にも森の中に建っていた。
閉じられたガラスの扉が、ドームの中心にあり。窓が縦に四列横に六つ並んでいた。このドームは四階建てのようだ。研究ドームにしては珍しく、ドームの右屋根のほうから太い鉄パイプが十本も突き出ていた。煙突のように見えるが、煙はどのパイプからもでていなかった。
さっそく二人は研究所のガラスの扉を開けて、中に入った。訪問者がやってきたのにもかかわらず、照明さえつかない薄暗いドームの中。正面奥に空間移動装置があるのは遠くに見えていたが、なにやら埃と汗の匂いが混じったような異臭がして立ちどまった。
シュミレットはマントの袖口を伸ばし、口元を押さえて言った。
「ここは新しくできたドームではなかったのかな。ひどい臭いだよ、まったく」
小さな魔術式を発動させ、シュミレットは照明の灯りをつけた。
ルーネベリも口元を押さえて明るくなった周囲を見渡し、驚いた。
ドームの玄関の左右にはちょっとした広い空間があり、壁際にそって白い長椅子が設けられていた。本来では来客用の待合室や休憩室を兼ねていたのだろうが。床には山のような衣類が散乱し、箪笥や本が半分ほど収められた本棚が十二台、すべて左に傾いたままの状態で空間の中心に置かれていた。虫のたかる緑色の液体でベトベトに汚れた女の子の縫いぐるみがなぜか赤の鉢植に刺さっており、男性物の革靴の片方がトロフィーの上に逆さまにのっていた。本棚と本棚の間に挟まった杖の先には、なんと女性ものの紫色の派手な下着がぶら下がっていた。
どうしたらこうなるのだろうと思うほどの酷い有様だった。第七世界の研究ドーム群ではけして考えられない光景だ。まず、室長のクーとデューが許さないだろう。研究所は学者だけでなく商人や後援者などの人の出入りが多いうえに、実験による事故が起る可能性もある。避難することを考え、出入り口には燃えやすいものは置かず、常に清潔さを保つのが一般的だ。
ルーネベリは首を横に振りながら言った。
「こうなった理由はわかりませんが……。さすがにこれは俺でも許せませんね。いくら忙しくとも、清掃業者を呼ぶなりすればよかったのに。ごみ屋敷じゃないですか」
シュミレットは頷いた。
「僕も耐えられそうにないよ。この先へ行くかと思うと頭痛がするね」
指先をくるりとシュミレットはまわし、魔術式十個も発動させた。
「先生、片づけてくださるんですか?」
「嫌だけれど、しょうがないじゃないか。君に片づけてもらうとしても、時間があまりにもかかるでしょう」
「俺に片付けさせるつもりだったんですか……」
「少し汚れている程度だったらね」と、シュミレット。
発動した魔術式の一つは散乱した衣類の元へ行き着くと、光った。光を浴びた衣類たちは一枚一枚丁寧に折りたたまれ、別の魔術式に照らされた本棚はかくかく音を鳴らせながら傾きが戻っていった。緑色に汚れていた女の子の縫いぐるみは魔術式によって新品同様になり、鉢植から引き離された。宙を飛んだ赤い鉢植は本棚の棚に置かれ、女性ものの下着は折りたたまれた衣類の傍に置かれた。魔術式はそれぞれ役割分担しながら働いた。
臭いは徐々に取り払われ、最後の魔術式がステッキを本棚の端にかけると、魔術式は消え去った。三分ほどの出来事だった。
口元から手を放したルーネベリは言った。
「魔術式は便利ですね。俺も使えたらよかったんですけどね」
「便利だけれど、できれば、こんな風には使いたくはないものだよ。術式の発動には体力を使うから後で疲れます」
黒いマントを払い、シュミレットは空間移動装置の方へすたすたと歩いて行った。