二十三章
第二十三章 予期せぬ出来事
「やい!」
デューの叫び声が聞こえてきたと同時に、シュミレットの地面と頭上の時術式が光の柱で繋がり、一瞬にして空間移動した。
今や、シュミレットは巨大ドーム内から泉に囲まれたレンガ造りの青い屋根の家の前に立っていた。空を見上げてみたが、魔術式の姿は見えず。青々とした空に白い雲が浮かんでいるだけだった。しかし、シュミレットは安心したわけではなかった。学者が言ったように、世界中を探しまわりトーレイの遺物が見つからなければ、魔術式の大群がスヴファベッツの元へ飛んでくるかもしれない。
シュミレットはノックもせずにスヴファベッツの家の扉を開いた。
「スヴファベッツ、いるかい?」
家の中に足を踏み入れたシュミレットだが、スヴファベッツからの返事はなく、家の中には誰の姿もなかった。留守のようだった。
シュミレットは振り返った。
スヴファベッツの家からは薄茶色のレンガ道が遠くに見えている緑の屋根の小屋へと一直線で繋がっている。道の左右には泉があるだけだ。
スヴファベッツが小屋にある空間移動装置を利用するはずがないとシュミレットにはわかっていた。なぜなら、時の一部である管理者は、時術式の影響を受けることがあっても、「時のルート」とよばれる時術師が築きあげた空間移動のための出発点と到着点を結ぶ数多にある通路だけはけして通れないのだ。そのため、他所の世界に行くこともおろか、世界の中にある別の場所へも瞬時に移動することができない。管理者が唯一空間移動できる場所は、時の置き場へ通じる道だけなのだ。
シュミレットはスヴファベッツが時の置き場へ出かけていることを心から願った。第十四「水」の世界の件があって以来、時の置き場とてけして安全だとは言いがたいが、地上にいるよりもずっとましだろう。時の置き場には灼力が満ちている。翼人の羽のような強い冰力を持つ物がないかぎり、魔術式は簡単に燃え尽きてしまうだろう。
扉に手をかけ、「さて、どうしようかな」とシュミレットが俯いたところ、人の気配を感じた。顔を上げてみると、スヴファベッツがガラスの板を抱え家の裏から歩いてきた。あまりにも目を丸くしてシュミレットがスヴファベッツを見ていたので、スヴファベッツは苦笑いした。
「賢者さん。そんな驚いた顔をして、どうされたのですか?」
「君、今までどこで何をしていたのだい?」
「家の裏の日陰で、泉を見ながら目録を書いていました。何か……」
シュミレットはスヴファベッツの言葉を遮り、言った。
「君、何度も連絡をいれたのだよ。すぐに時の置き場へ向かいなさい。君の命が危ない」
スヴファベッツは一瞬、何を言われているのかがわからず、戸惑いを隠すように微笑んだ。
「……あの、何をおっしゃっているんですか?」
「君はまさか、騒ぎを知らないのかい」
シュミレットは気になって空を見上げた。すると、ついいましがたまで見えていなかった黒い点が数個、遠くの空の片隅に見えていた。まだ森の向こう側を飛んでいるようだが、移動する黒い点の後には空を覆う黒い集団がどっと広がっていた。見えている分にはゆっくりだが、実際は思っている以上に速くこちらへ向かって飛んできているようだ。
シュミレットはスヴファベッツの手首を掴み、泉を指差した。
「とにかく、早く行きなさい。君がここにいては不味いのだよ」
同じように小屋の方を見ていたスヴファベッツは、シュミレットに捕まれた手首を振った。
「でも、賢者さん。お客様が沢山いらしているのに。ルーネベリくんたちもまた来てくださったのに、一人で時の置き場になど行けませんよ」
「お客様、ルーネベリ?君は何を……」
シュミレットが小屋の方を見てみると、スヴファベッツが言った通り、赤い髪のルーネベリと黒いボロボロのローブを纏うバルローが一緒になってこちらへ走ってくるではないか。しかも、その後ろには……。
「先生!」
ルーネベリは走りながら、暢気に手など振っていた。シュミレットは首を横に振り、手を払うように大きく振った。
「ルーネベリ、早く戻りなさい!後ろにいる彼らと一緒に戻るんだ」
「えっ、彼ら?」
走りながらルーネベリとバルローが振り返ると、後ろには白い学者服や黒い学者服、フリペやボルディといった私服を着た者たちが大勢、空間移動装置のある小屋から出てきて、二人と同じようにスヴファベッツの家の方へ向かって走っていた。ざっと数えたところ、百人ぐらいはいただろう。どうやら、皆、魔術式が移動していく様を見ているうちに、スヴファベッツの身が心配になったようだ。室長たちに連絡を取ることも忘れ、後先考えずに泉へやってきたようだ。
バルローが空を見上げ、ルーネベリに言った。
「ルーネベリ、見てみろ。すごい数の魔術式だ。こっちに向かってくるぞ」
「なんだって!」
ルーネベリも空を見上げると、すぐに急停止した。靴の底が地面に擦れひどく熱を持ち膝が痛んだが、それどころじゃない。森の向こうから魔術式の大群が押し寄せてくるのを見て、ルーネベリは呟いた。
「どういうつもりだ。人を傷つけるつもりはないんじゃないのか!」
息を荒く吐きながらルーネベリが身を翻すと、同じように走っている学者や監査の者たちに向かって大きな声で叫んだ。
「皆、戻れ。空間移動装置にのって、元いたところに戻るんだ。スヴファベッツは無事だ。俺たちの方ずっと危ない。早く戻れ」
人々は咄嗟のことでわけがわからなかったが、なにやら赤い髪の男が必死に呼びかけていたので、言われた通りに引き返そうとした。だが、その時にもう遅かった。小屋からは一方的に空間移動してくる人々の流れができており、戻ろうにも戻れない状況に陥っていたのだ。
遠くでその様子を見ていたシュミレットは、空を見上げて非常に焦っていた。空に浮かんでいた黒い点の集団はすでに空間移動装置のある緑の屋根の小屋に近づこうとしていた。おまけに、西側の空だけではなく、北側にある森の空にも同じような黒い点の集団が迫っていた。巨大ドームに現れた数よりもずっと遥かに多い、おびただしい数の魔術式が近づいてきていた。
シュミレットはスヴファベッツに時の置き場へ行くように何度も言ったが、スヴファベッツは人々を置いて一人で安全なところへ逃げることなどできないと頑なに言い張って聞かなかった。二人は言い合いをつづけた。
小屋まで戻ったルーネベリの方は、小屋の周りに集まった人々を掻きわけ。これ以上、空間移動してくる人々を増やさないためにも、小屋の装置を壊そうと言い出した。人々はすぐに「帰れなくなるじゃないか」と反対の声をあげたが、バルローが意気揚々と人前にしゃしゃり出てきて言った。
「俺は魔術師なんだ。物を壊すなんてお手のもんさ。俺をとめたけりゃ、そうすりゃいいが。俺をとめたって、俺は壊してみせるぞ」
「どうするつもりだ?」
ルーネベリがそう聞くと、バルローは「まぁ、任せろ」と言った。両腕をぱっと前に広げると、バルローはそのまま両手で人々を押しのけて小屋の中まで辿り着いた。小屋の中では発動したまま二つの時術式を繋ぐ光の柱が立っており。光の柱から人々が次から次へと出てきて、入口を塞ぐように立っていたバルローの脇から小屋の外へと出て行った。バルローは言った。
「ルーネベリ、ここを頼む。出てくるやつらを押し返してくれ」
「よし、わかった」
ルーネベリは巨体を捻り、人々の中を無理やり押し通って小屋の中に入ると、光の柱から出てくる者たちを両手で押し戻しはじめた。バルローはしゃがみ込み、地面に手を置いて叫んだ。
「地面に描かれた時術式を壊してやる。さぁ、地面にある物質よ、ひび割れて時術式を壊せ、壊せ!」
まじないのように何度も「壊せ」と繰り返したバルローの手の周りには魔語と呼ばれる文字が小刻みに動きながら浮かんでは、すぐにはじけて消えた。魔力が吸われ、まともに働らかないようだ。もしかしたら、薄茶色のレンガにも塩の砂が含まれているのかもしれない。
へなへなとした「わ」のような線文字の魔語を何度も発生させ、バルローはどうにか小屋の中にある地面に浮かんだ時術式を壊そうとしていた。著しく魔力が体外に出しているためか、身体から蒸気を発し、顔を真っ赤にさせていた。血管までくっきりとこめかみに浮かんでいる様を見ると、随分と無理をさせているようだが、空間移動装置を操作する本体が小屋の奥にあるため、光の柱が消えない限り、装置を止めようがなかった。ここはバルローに任せるしかなかった。
ルーネベリはやってくる人々を押し戻しながら、小屋の外にいる皆に言った。
「皆、ぼんやりしていないでスヴファベッツの家の方へ行くんだ。先生が時術式を使えるはずだ。ほら、早く行くんだ」
人々は「それを早く言え」と文句を言いながら、我先にとスヴファベッツの家へと駆けて行った。一体、彼らは何をしに来たのだろうと思いながら、ルーネベリが地面を見てみると、何十回と出てきたバルローの魔語がわずかだが地面に小さな亀裂を生み、時術式の方へ広がっていった。傷さえつけば、地面に描かれただけの術式は壊れる。
「バルロー、もう少しだ。頑張れ」
繰り返し「壊せ」と言いつづけたバルローのおかげで、小さな亀裂は次第に地面に描かれた時術式にまで到達した。時術式の発動はとまったおかげで光の柱も消えていった。
「もういいぞ、よく頑張った」
ルーネベリがそう言うと、バルローはにんまりと笑うと、ばたんと後ろへ倒れて気絶してしまった。体力の限界まで頑張ってくれたようだ。礼を言いながらルーネベリがバルローをひょいと背負い、駆けて行った人々と同じようにスヴファベッツの家へと急いだ。
スヴファベッツの家の前では、未だにスヴファベッツとシュミレットは言い争っていた。
「君が逃げてくれなければ、僕が困るのだよ」
「仰っていることはよくわかります。でも、私だけ一人で逃げるなんてできません。おわかりでしょう」
「君の気持ちがわかるけれど、ここに残っても君にできることはなにもないのだよ。僕が彼らを安全な場所へ空間移動させるから、君はとにもかくにも急いで時の置き場へ避難しなさい」
「できません。彼らを見送ってからじゃないと……」
お互いに少しも引かない二人。そんな二人の元へ駈けてきた学者たちが叫んだ。
「おおい!揉めている場合じゃないぞ。空を見ろ、四方八方から魔術式がやってくるぞ」
「四方八方?」
シュミレットとスヴファベッツが空を見上げると、魔術式が空間移動装置のある小屋の上を飛んでいた。魔術式とスヴファベッツの家までの距離は一キロにも満たなかった。北側から迫っていた魔術式はもうすでにチャーグ・キーデレイカの上、北端の方を飛んでいた。スヴファベッツは空を見上げたまま、「閉会式の出し物ですか?」と言った。
ため息まじりにシュミレットはスヴファベッツの家の後方、東の空を見上げてみると、東からも魔術式の集団が近づいていた。南の空を見ても同じだった。気づけば、無数の魔術式に囲まれていた。
「まったく、調子が狂うよ。まったく、もう!」
片眼鏡に触れ苛々とマントをはたいたシュミレットは、のんびりと突っ立たままのスヴファベッツの腕を掴んで、こちらへやってくる人々の方へ走った。
スヴファベッツの家から離れ、道の途中で人々と落ち合うと、シュミレットは指先をくるり動かして時術式を発動させた。人々を順番に別の場所へと移動させはじめたのだ。言葉を発する暇もなく、時術式によって瞬時に十人ほど別の場所へ空間移動させたシュミレットは、こちらへ駆けてくる人々の最後尾にバルローを背負い走るルーネベリの姿を見つけて言った。
「君がそんなにのろまだったとは思わなかったよ。早く来なさい」
「無茶を言わないでください、先生!」
バルローを抱えたままのルーネベリは、息を切らし、筋肉が悲鳴をあげるのを感じながら走る速度をはやめた。
シュミレットが時術式を発動させても、まだ泉の傍には沢山の人々が残っていた。一度に大勢を空間移動させることができれば、こんな手間はかからなかっただろうが。魔術師であるシュミレットには一人一人を空間移動させるので精一杯だったうえに、時術式を使えば使うほどマントの下、胸元に感じる違和感が強くなっていた。
違和感の原因について考えている暇もなく、ガラスに包まれた高速で飛ぶ魔術式は長い道、長い泉の上を通って、目と鼻の先までやってきていた。とてもじゃないが、この短時間では全員を避難させることはできない。シュミレットは覚悟を決めるしかなかった。
やっとのこと、シュミレットとその周囲に集まった人々の元へ、ルーネベリとバルローが辿り着いたときには、到達したガラス入りの魔術式の大群に三百六十度取り囲こまれていた。逃げ場はどこにもなかった。どこを向いても魔術式ばかり。人々は震えながらスヴファベッツの周りに身を寄せ合った。
宙に浮かんだ魔術式が一斉に光ったのと同時に、シュミレットは右腕をかかげた。
「部分停止」
大きな時術式が発動した。シュミレットを中心とした範囲二メートルの円内にいた人々の地面と頭上に時術式が現れ、光の柱が皆を包んだ。
魔術式の集団は時の止まった光の柱へ次々にぶつかってきた。時術式の中にいるスヴファベッツ目がけて飛んでいるのだろう。時術式によって部分的な時を止めたので、光の柱の中と外の世界の時の流れにはずれが生じている。魔術式がいくらぶつかってこうようと、時術式の発動をとめなければ、中には入ってこれらない。
光の柱の中にいれば安全だったとわかった人々は、「おぉ!」と声をあげた。
その後も魔術式は幾度となく時術式にぶつかってきたが、そのうち、ぶつかっても何の効果もないと魔術式自ら考え出したのか。動きをとめて空中にとどまると、魔術式は強い光を発しだした。周囲、眩しい光が発せられ、光の柱の中にいる人々は目を瞑った。
魔術式は発動し、自らを包むガラスの一部を変形させてガラスの剣をつくりあげた。それも一本二本どころではない。恐ろしいほど大量のガラスの剣をつくりあげ、ガラスに包まれた魔術式は空中にとどまったまま、ガラスの剣を光の柱へと飛ばしたのだ。雨のようにとめどなく降ってくるガラスの剣は光の柱にぶつかり、地面に砕け落ちた。時術式には依然、何の傷もつかなかったが。魔術式はガラスの剣を投げつづけた。時術式の周囲には先の尖ったガラスの破片が塵のように積もっていた。
光の柱の外を眺めていたルーネベリは、魔術式の行動に疑問を抱き、話しかけようとシュミレットの方を向いてぎょっとした。シュミレットは冷汗を流しながら苦しそうに胸元をぎゅっと掴んでいた。
「先生、大丈夫ですか?」
ルーネベリはシュミレットの背を支えると、シュミレットはルーネベリの腕を掴み、わずかに顔をあげて言った。
「僕はなんて愚かだったのだろう。聖なる魔術式はすべてに通じていることを忘れていた。ウェルテルはすべての術式に関わっている。いくら僕が時術式を発動させつづけようと、大量の魔術式が発動を繰り返して空気中のウェルテルを消費しつづければ、ウェルテルの濃度が薄まり、時術式は自然に反応できなくなる」
「先生、何を……」
「魔術式が発動をつづければ、時術式が壊れる」
ルーネベリは時術式を見上げた。黄色く光っていた時術式はぼんやりと薄くなり、今にも消えてしまいそうだった。ルーネベリはすぐに右腕でシュミレットの華奢な身体をかばうように抱き、傍にいた学者まで抱き寄せて地面に伏した。そして、大きな声で叫んだ。
「皆、伏せるんだ。早く!時術式が消える」
戸惑いながらスヴファベッツ共々、人々が地面に伏した瞬間、二つの時術式が薄れ消え。光の柱も消えた。守られるものがなくなってしまった人々は悲鳴をあげた。魔術式は格好の機会がきたといわんばかりに剣を飛ばすのをやめて、スヴファベッツの元へ一斉に飛び立った。地響きが轟いた。――もう駄目だ。頭を手で覆い、隣の人の手を抱きしめ、目を閉じた。誰もが死を意識した。
地響きの後に、ごうごうと凄まじい水音と、パンッパンッと破裂音が耳まで届いた。魔術式が発動したのだろうか。それにしても、どうしていつまで経っても痛みを感じないのだろうか。ただ、水滴がぽとぽと全身に降りかかってきて冷たかった。
どこかおかしいと気づき、皆が顔をあげてみると、地面に伏した人々の頭上を激しく流れる太い水柱が右から左へ、左から右へと流れていた。よく見てみれば、大きな水柱のアーチが六つ、レンガ道の上を横切っていた。破裂音は水柱が空中に浮かんでいた魔術式を飲み込んで、ガラスを粉々に叩き潰す音だった。ガラスに包まれていた魔術式は外気に触れた瞬間、水に溶けて消えていった。
理の世界に滝は存在しない。だとすると、この水柱は一体どこから………。
「チャーグ・キーデレイカだ!」