二十一章
第二十一章 光の示すもの
ルーネベリがハロッタ・トーレイの著した本のあり処を聞くと、ダネリス・バルローは頭に手を置き。書類などがごちゃごちゃと物が置かれた長いテーブル、壁際の木の机、簡易キッチンをぐるりと見まわした。
「色々と忙しかったから忘れたな。その辺に置いたと思ったけど、元にあった場所に戻したのか?」
ルーネベリは眼鏡をテーブルの端に置き、木の机へ走った。小さく身を屈めて机の下に入り、机の左の脚の内側にある戸を開いてみると、本棚の下の段はきちんと七冊の本が並んでいた。一番右側に置かれた本の背には魔道具協会の金のマークが見えていた。本は元の場所に戻っていたのだ。ルーネベリは金のマークのついた本を本棚から抜き取り、後ろに後退しながら机の下から出た。本を手にしながら立ちあがったルーネベリを見て、バルローは言った。
「元に戻したんだな。でも、俺が戻したのか。そんな時間あったか?」
「僕が元に戻したんだ。床に落ちていたから」
ルーネベリは振り返り、「カティエンさんが?」と言った。カティエンは言った。
「何度かその本を見たことがあったんだ。この研究室に来たとき、オーギュレイが本を撫でていたから大切な本だと思ったんだ。本を机の下の戸の中に戻している姿を見たことがあったから元に戻したんだ。失くさないようにと思って」
バルローはカティエンに言った。「オーギュレイに騙されたって言っているわりに、よく親切ができたな」
「書物はどんなものでも大切にしろって耳にたこができるほど言い聞かされて育ったんだ。本を元にあった場所に戻すことも習慣になっている。別に親切をするつもりじゃなかった」
言い訳するカティエンをバルローは素直じゃないなと思いながらも、とりあえずは「良い心がけだな」と言った。
ルーネベリは二人の会話を聞きながら、手の内の本へ目線を下ろした。カティエンの話に嘘がなければ、きっとオーギュレイにとってハロッタ・トーレイの本は大切なものだったのだろう。そして、恐らくは、この本こそがなんらかの答えを教えてくれるに違いないとルーネベリは思った。
テーブルにトーレイの本を置き、ルーネベリは眼鏡を手に取った。
「俺の勘が正しければ、この眼鏡で何かが見えるはずだ」
眼鏡の左右テンプルを大きく開き、顔に近づけて耳へかけた。驚くべきことに眼鏡のサイズはルーネベリにぴったりだった。小さすぎることも大きすぎることもなかった。これは偶然か、それとも故意によるものなのだろうか。眼鏡はルーネベリが身に着けるべきものとして作られたかのようだ。なんともいえない緊張感に襲われながら、テーブルに置いた本に手を伸ばし、もやもやとした赤や黄色の霧の見える右側のレンズ越しに本を見ていた。バルローとカティエンが長いテーブルの傍まで歩いてきて、黙ってルーネベリを見ていた。
トーレイの本を持ちあげたルーネベリは本の真っ黒の表紙を念入りに右のレンズで見た。もやもやとした霧の色に少しずつ緑や青が混ざってきたが、その他にはなにも見えなかった。ルーネベリは次に表紙を開き、見返しの部分を見てみた。黒い表紙の裏側は紫色の効き紙が貼られていた。文字はなく無地だった。ここにも右のレンズ越しには何も見えなかった。それから、遊び紙、本の題が書かれた扉にも黒いインクで書かれた文字以外はなにもなかった。ルーネベリは次々とページを開いていったが、黒いインクで書かれた文字や記号、数字が見えるだけで。右のレンズに映る霧の色が増えていくだけだった。結局、反対側の表紙まで辿り着いても、右のレンズはなにも映しださなかった。
「どうだ?」とバルローに聞かれたが、ルーネベリは首を横に振るしかなかった。
「駄目だ。なにも見えない。何かが足りないのか……?」
眼鏡を外し、ルーネベリは赤い髪を搔いた。簡単に考えすぎてしまったのだろうか。眼鏡には別の用途があるのだろうか。またわからなくなってしまった。どうするべきかしばらく考えてはみたが、同じ答えしか浮かばなかった。眼鏡はなにかを見るために作られ、本はなにかを読むために研究室に残されていた。この考え方は間違っていないはずだ。けれど、なにも見えないのはなぜだろうか。
もう一度だけ確かめてみようと、眼鏡をかけて本を隅から隅まで見てみたが、なにも見えなかった。バルローが貸してくれと言って、眼鏡を取りトーレイの本を見てみたが、同じことだった。なにかが足りないのか、見るべきものが間違っているのか……。わからない苛立ちが募るばかりだった。本と眼鏡を机に置き。ルーネベリは昨日、オーギュレイが座っていた茶色い革の椅子に座り込んだ。
「どうして見えないんだ。何か見落としているのか?」
両手を合わせ二本の親指を額にあてて、ルーネベリはここ数日の間に起った出来事をすべて思い出そうとした。目線をどこかへ向け、ひたすら思い出す作業にルーネベリは没頭した。五分、十分と時間が過ぎて行った。バルローとカティエンは言葉を交わすことはなかったが、さすがに十分も無言がつづくと退屈になってきた。欠伸を繰り返すバルローに、カティエンが簡易キッチンを指差して「何か飲むか?」と口だけを動かして言ったので、バルローは頷いた。
カティエンは簡易キッチンの透明なヤカンで湯を沸かし、棚から取りだした茶葉を古紙に包んだ。包んだ古紙をポットに放りこむと、沸いたばかりの湯を注いだ。なにからなにまで手慣れたもので、湯を沸かしてからほんの数分後には二つのカップの中で砂金のような茶葉が踊っていた。傍で静かに見ていたバルローは思わず大きな声で「随分と早いな。他人の部屋なのに、どこに何があるのかわかるのか?」と言った。
ルーネベリはぱっと顔をあげ、カティエンに言った。
「あなたは何度かこのオーギュレイさんの研究室にいらしているんですよね?」
カティエンが首をすくめて、「まぁ」と頷いた。
「何か変わったこととか。気になることはありませんか。なんでもいいんです。手がかりが欲しいんです」
「変わったこと?」茶を淹れたばかりの二つのカップを両手に持ち、バルローの方をちらりと見て、今度は部屋を見上げた。カティエンは困惑しているようだった。ルーネベリは言った。
「今、はっきりと特定できる人物の中で、大研究発表会が行われる以前にオーギュレイさんの研究室に訪れたことがあるのはあなただけなんです。もちろん、デューを除いての話ですが。あなたは何か見ていませんでしたか。今はないもので、以前にはあったなにかを」
「今はないもので、前にはあったもの……。あちっ!」
熱いカップの縁についうっかり親指をかけてしまったカティエンは、カップをテーブルに置くと、痛そうに指を擦りながら言った。
「今、この部屋にないものは試作品かな」
「試作品?」
「この部屋にあった発明品の試供品が一つもない。大研究発表会前に来た時は、天井から色々な試作品がぶらさげられていたんだ。未完成だから売れないだろうなと思っていたんだ」
バルローは「研究の協力をしていたんじゃなくて、売れるものを探していたのか」と笑った。カティエンは言った。
「僕が協力したのはオーギュレイがもってきた一部の理論を数式で表したことだけだ。魔術式の設計図も見せてもらったことはなかった。だから、他に何か売れそうなものはないかと思ってちょっと物色させてもらったんだ。それはそうと、さっきのあんたの話で気づいたけど、今はないもので以前にはあったものの正反対のことなら今見つけたよ。前はなかったのに、今はあるもの」
「前にはなかったのに、今はあるもの?」と、ルーネベリ。カティエンはテーブルの上に置いたカップを指差した。
「こんなにきれいな金のお茶ははじめて見た。僕はこの研究室で数えきれないほどお茶を淹れたけど。六月のはじめにキッチンに立ったときはこんな茶葉じゃなかった。前は薄桃色のお茶だった。このお茶、とても高そうだ」
「約一カ月ちょっと前まで?確か、ビニエさんはオーギュレイさんの記憶が消されたのは二カ月以内と言っていた。つまり、記憶を消したのは、黄金の茶葉がこの部屋で飲まれるようになった一ヶ月以内ということか。――いや、待てよ」
ルーネベリの脳裏にオーギュレイがお茶を飲んでいる姿が浮かんだ。茶葉は飲むためだけにあると思い込んでいたが、あの高価な茶葉は本当に飲むためだけにあったのだろうか。ルーネベリはオーギュレイが学者だということを思い出し。もしかしたら、とんでもない初歩的な間違いをしていたのではないだろうかと思った。
オーギュレイの研究室にはじめて足を踏み入れた時、長いテーブルの上には飲みかけのカップがいくつも置いてあった。色も形も違うカップたちはもしかしたら……
「カティエンさん、オーギュレイさんは飲みかけのカップをいくつも作ってしまう癖があったんですか?」
「僕がお茶を淹れた時は熱いうちに飲みきって、飲み終えたらすぐにキッチンに置いていた。工学者はだいたい研究目的以外で水を使うのを嫌う。精密機械は水で破損しやすくなるから」
カティエンの話を聞いてルーネベリは口を閉じ、やはりとばかりに頷くと、真剣な面持ちでトーレイの本とバリオーズのレンズが入った眼鏡を置いた机へ近づいた。眼鏡と本をそっと手に持つと、振り返り言った。
「湯を沸かして、新しい茶葉でお茶を淹れてくれ」
「急にどうしたんだ?」と、バルロー。ルーネベリは言った。
「説明は後だ。先に黄金のお茶を作ってくれ」
カティエンは急に粗っぽい口調になったルーネベリに少々驚いたが、すぐにヤカンで湯を沸かし、そのうちにポットを空にし、新しい茶葉を古紙で包んだものを入れた。数分後、カップには黄金の茶が淹れられていた。
「出来たぞ」バルローが黄金の茶の入ったカップをテーブルに運んできた。ルーベリは二人に礼を言い、持っていた眼鏡を耳にかけ、黒い本の表紙を開き、白いページ側をテーブルの上へ、黒い表紙側を天井へ向けて置いた。
「ルーネベリ、どうするつもりなんだ?」
「わかったんだ。何が欠けていたのか。どうして眼鏡と本だけでは見えなかったのか。飲みかけだと思い込んでいた形の違うカップたちは、何度も試した後にできたものだろう。恐らくはお茶は熱をもった状態でなければ意味がないんだろう」
「実験?」
「ベッケル・オーギュレイは発光ブローチの開発者だ。発光ブローチは、蛍光物質Iと蛍光物質Uの混合物が不可視光線を吸光することによって発光する。つまり、不可視光線を使うというのがオーギュレイさんの得意とするところだったんだろう。
トーレイの本の場合、薄いページと違って、表紙のほうは素材を選ばない。あらかじめ水気に強い生地で作った表紙に特別な塗料を塗り、特別な塗料と熱を持った特別な液体が化学反応を起こし、感光物質となる。だが、できあがった感光物質は不可視光線が見えなければ見えないんだろう。だからこそ、広範囲不可視光線受容レンズが必要だったんだ」
バルローは首を傾げたが、物理学者カティエンはルーネベリが言わんとしていることをすぐに理解して言った。
「熱を持つ特別な液体は金のお茶で、黒い本には見えない特別な塗料が塗られているのか。あんたがかけている眼鏡が不可視光線を見るためのものなら……」
「条件はすべてそろったはずだ」
ルーネベリはカップを手に取り、表紙に淹れたばかりの熱い黄金の茶をかけた。湯気を出しながら黒い布の上に落ちたお茶は表紙全体へ広がったが、布は一向に濡れずお茶を弾いていた。右のレンズをルーネベリはよく目を凝らして見ていた。表紙の上を覆うお茶は空気に触れて熱を失ってゆくが、湯気がレンズを曇らせた。ルーネベリが曇ったレンズをジャケットで拭うと、黒い布の上で変化が起きていた。布にまったく吸収されずに残った大きな水滴の中にじわじわと光沢のある緑の細かな文字が現れだした。熱を受けた後、ゆっくりと化学変化を起こしたのだ。
ルーネベリはすぐさま、この文字を声に出して読んだ。




