六章
第六章 生きられない者
シュミレットはズゥーユの問いに答える前に、ビニエに言った。
「君が見たという連れ去られた人物は、タニラ・シュベルという青年だね?」
ビニエは深く頷いた。
「シュベルは連れ去った人物の容姿は?」
「背中しか見ませんでした。でも、あれは翼を持った女性でした。白い羽を持った……」
「魔力が原因ですか?」
ズゥーユは言った。
「魔力ではないよ」
「それでは、何だったのですか?ビニエの症状は、薬物中毒ではありませんでした。まして、奇力異常でも……」
「彼の奇力に問題はなかった。ただ、タニラ・シュベルがいなくなった日、彼は確かに翼人を見たのだよ」
「根拠はおありなのですか」
シュミレットはズゥーユに目を向けた。
「彼は冰力にあてられたのだよ。時に、威力の強い冰力は毒と同じように体内に蓄積されて、弱った奇力を狂わせることがある。解毒剤が全身にいきわたるように、僕が少し手を貸したけど。微量の冰力にあてられただけなら、解毒剤を飲めば、すぐに治る病気だよ。ビニエの場合、患者を診察したことや、もともと、なんらかの原因で体調を崩していたのかもしれないね」
ビニエは「ああ」と、声を漏らした。
「思い当たることが?」
「数週間前まで、少し肩が凝ることが多くて。やけに疲れやすいなと……」
シュミレットは言った。
「一昔前は、翼人の羽に含まれる冰力を目当てに、羽を使う人が多くてね。一部の魔術師の間で流行った病気だよ。冰力はすべての元素に干渉する作用かあるけど、灼力のように破壊などは起こさない。ビニエのように言語能力を狂わせたり、些細な不調を引き起こすだけだから、奇力的には問題がないように思われるのだよ。奇力を扱う奇術師には、やっかいな病気だね。でも、冰力にあてられるなんて現代では、珍しいかもしれない」
「奇術師になって三十年も経ちますが、冰力が人体に影響を与えるなど聞いたこともありませんでした」
「十三世界で冰力を持つのは、今では竜や竜族しかいないからね。竜の持つ冰力は翼人の持つものの二十分の一ほどだから、感染する人間がいるほうがおかしいってものだよ」
ズゥーユは俯き、ため息をついた。
「では、やはり……。翼人が十三世界に再び現れたのですね。これから、私たちはどうすればいいのですか?」
「でも、冰力といっても、一概には――ねぇ、君。タニラ・シュベルの恋人は誰だったかな」
「ギルビィ・ベーグですか?」
「確か、ギルビィ・ベーグは灼力感染者だったね。病状は?」
「主治医である、治癒者しか存じませんが。重要なことですか」
「すぐにその治癒者を呼びなさい。僕らは、すぐに病室に向かおう」
「どうしたというのですか?」
「僕の考えすぎならいいのだけどね。灼力感染患者の恋人が翼人に連れ去られたのなら、感染患者が連れ去られる可能性もおおいにあるわけだよ」
シュミレットは口を閉ざして、こちらをぼんやりと見ていたブリオに言った。
「そこの君、僕の病室にいってルーネベリ・パブロという大柄な男に、僕がギルビィ・ベーグの病室に向かっていると伝えてきてくれないかい」
ブリオは急に話を振られて、びくりと驚いた。
「僕の部屋は……」
「北東七百八棟の十二号室です」とズゥーユが答えると、シュミレットはブリオににっこりと微笑んだ。
「さぁ、行ってらっしゃい」
治癒者の中でも新人のブリオ・ボンテは、いわゆる下っ端で、患者を診るよりも雑用を任されることが多かったが。管理者を前にして緊張していたとはえ、ズゥーユよりも少し物知りなだけの、蒼白い顔したひ弱そうな少年に扱き使われる日が来るとは思ってもいなかった。あきらかに、見た目からして、ブリオの方が年上だというのにだ。
ブリオはぶつくさと文句をいいながら、病棟の一階までおりて、一階にある時術式に乗って第三世界に飛んだ。そして、第四空間移動室につくと、無数にある時術式の中、迷わずに北東七百台の時術式の方向に歩き。ちょうど七百八棟に通じる時術式の上にのった。
一息つく前に、北東七百八棟に着いたブリオは廊下を通って階段をのぼった。十二号室といえば、四階の一番奥だ。
四階につくと、ブリオは庭を横切り、十二号室の庭についた。部屋は灯りもついていない、真っ暗だった。大柄な男はいないようだ。下を向きながらガラス戸を開いて部屋の中に入ると、ブリオは灯りをつけようとベッドの方へ歩いた。
「やっぱり、腑に落ちない……」いきなり背後から聞こえた声に、ぎょっとしてブリオは振り返り、目を擦った。何度瞬きしても、見間違えではない。ソファの方で、得体の知れない黒い影がもぞもぞと動いていた。
たまらず、ブリオは悲鳴をあげた。
「なんだ!」
影が立ちあがった。平均的な身長のブリオよりも、ひとまわりも大きい人影が目の前に立ちはだかり、しかも、こちらに近づいてきた。悲鳴が尽き、声もでないものにかわった。ブリオは恐怖のあまりに身動きすらできなかった。人影がどんどん近づいてくる。ブリオは頭を抱えて蹲った。
そのうち、人影はブリオの脇と通って、ブリオがつけるはずだった部屋の灯りをつけた。部屋がぱっと明るくなり、その場にいた人物たちを照らした。
「おい、何をやっているんだ」
人影ならぬ、一枚の紙を持ったルーネベリ・L・パブロが、床の上で蹲るブリオに言った。ブリオは「えっ?」と、明るくなった部屋を見まわして、叫んだ。
「あっ、あなたこそ。暗い部屋で何をしていたんですか」
「落とした書類を拾っていただけだ。そっちはどういう用件で――」
ルーネベリはブリオの服装に目をむけた。
「あぁ、治癒者か。先生なら留守だぞ」
ブリオはルーネベリを見上げた。真っ赤な髪を持った、大柄な男。襲ってくるどころか、床に座り込んでいたブリオの前に屈んで「大丈夫か?」と言った。
「はい。泥棒だと思ったんです」
「泥棒?」
「あの、伝言をお伝えするように言われてきたんですが。あの、でも、お名前を聞くのを忘れてしまって……。だけど、あなたはルーネベリ・パブロさんですよね」
ルーネベリは苦笑った。「あぁ、そうだが。伝言というのは?」
「ギルビィ・ベークの病室に向かっている、とのことです」
「ギルビィ・ベーグ?」
「はい。そのことを伝えるように言われてきたんです」
「はぁ、そうか。礼を言いたいところなんだが――、しかし、ギルビィ・ベークというのは一体、誰のことだなんだ?」
管理者ズゥーユの話を聞いていないルーネベリには、まったくもって聞き覚えもない名前だった。ブリオは困惑した。
「患者のようですが。ズゥーユ様たちは難しい話ばかりしていらしたので……。ぼくには……」
「難しい話か。ズゥーユというのは、管理者ニエルヌ・ズゥーユのことだよな?」
「はい」
「管理者の他に、誰が難しい話をしていたんだ」
「ええっと、奇術師のビニエさんと少年です」
「少年?」
「はい、少年です。黄色い目をした、ちょっと変わった少年です」
ルーネベリは顎を撫でた。
「ということは……、わかったぞ。先生はついに見つかってしまったのか。だが、どういう展開なんだ。俺がいなかった間に、なにやら色んな出来事が起こったようだな。その場で見たことをわかる範囲でいい、詳しく教えてくれないか」
ブリオは軽く頷いて、副管理者の部屋で起こった出来事の一部始終をルーネベリに話して聞かせた。ルーネベリはビニエが冰力に感染していたことや、翼人を見たということを聞くと、小さく唸った。
「それじゃあ、先生は翼人がここにいたと確信したんだな?」
「あの、ビニエさんが仰ったことは嘘ではないそうです。それから、管理者様たちはギルビィ・ベークの病室に向うと仰って、ぼくに伝言を」
「なるほどな。やはりそうなると、腑に落ちないな」
「えっ、なにが腑に落ちないのですか?」
ブリオは自分の説明が悪かったのかと思い、おどおどしながら聞いた。ルーネベリは言った。
「奇行がはじまる直前、ビニエは千年前の軍人の日記に記された一節を、夜中に泣き叫んでいたそうだ。翼人を見たことを誰かに知らせようとしたとしても、そんな昔の言葉、誰かに伝えるには不利だ。しかも、なぜ泣き叫んでいたんだ。言語能力がうまく働かなかったとしても、あきらかにビニエの行動はおかしい。過去の、その一文が翼人に関わると知っていたのはあまりにも不自然だ」
「不自然。そうですかね……」
「ビニエはどこにいったんだ?」
「自宅に戻られました」
「ビニエの住んでいる病棟はわかるか?」
「あっ、はい!奇術師の病棟ならすべて暗記していますから」
途端に、ブリオの顔が喜びにかわった。得意分野なのだろうか、さっきまでのそわそわした感じがなくなり。立ちあがったブリオはハキハキした口調で壁に掛かった地図にむかって、「ビニエさんの住まわれている病棟はこの辺りになるので、西南四十五棟の……」と、わかりやすく指差した。
ルーネベリはその大きくなった声を聞いて、ブリオの肩を掴んだ。
「待て、お前……。最近、お前の声を聞いた気がする」
「はい?」
「でも、今日はじめて会ったはずだ。俺の気のせいか?」
「いいえ、あなたとはまったくの初対面ですけど」
ブリオは急激に顔を歪めたルーネベリに、不安になって言った。
「あっでも、ビニエさんの奇行をご存知なら。ザッコが塔にのぼった日もいらしたんですよね?」
「あぁ」
「だったら、その時にお聞きになったのかもしれないです。ぼくはあの日、メリア・キアーズ治癒長に連絡を取るために、通話機の奇術式をつかったんで……。後で、散々叱られましたけど。でも、キアーズ治癒長が通話機を持ち歩いてくださらないから。ああでもしないと、連絡がつかなくて」
「あの時の、頭の中まで聞こえてきた声はお前だったのか。しかし、通話機の奇術式を使ったっていうのは、どういうことなんだ?」
「通話機を使ったんです。科学道具の通話機です。治癒者は奇術式が扱えないので、通話機に頼るしかなくて」
「それはわかる。だが、科学道具の通話機をどう使ったら、あんなことができるんだ。関係のない俺たちにも聞こえていたぞ」
「ええっと、それは……・ぼくはぼくに向かって通話しようとしたんです。球体は丸いじゃないですか。だから、ぼくがぼく自身の奇力に繋ごうとすると、球を丸々一周しなければいけないことになるので。ぼくの発したメッセージは、球体にあるすべての奇力間を通って、ぼくのところにかえってくるんです。行きっぱなしで、送る人物を特定することはできませんけど、確実に伝える方法はこれしかなくて」
「はぁ、よく考えたものだな」
「奇術師は人探しに、術式じゃなくて奇語を用いるそうですけどね。キアーズ治癒長も奇語の扱える方なので。だから、通話機を持ち歩いてくださらないんですよ」
「奇語か。元素に直接働きを促す魔語と同じようなものなのか?術式を使うよりも、単体が発揮する力は強いらしいが。たった数個の魔語では、使える範囲は狭く限定されているとか」
「……あの、多分、そうなんじゃないですか。でも、奇語は魔語よりも語数は多くありませんよ。四つなので」
「四つ?」
「四つです。インスラット、アンジュールにサンクドン、シハ……」
「待て、アンジュールだって?」
「あっ聞き覚えありますよね。ぼくも、はじめて聞いた時、驚きましたよ。ブラノ・デュッシの『幾夜の幻』にでてくる主人公です。デュッシは奇語をどこかで聞いたんですかね。アンジュールの三人の友人も、奇語から取られています」
ルーネベリは壁に手をついた。「――いや、登場人物に奇語が使われているからといって、今回の件とは無関係だ。とりあえず、ジェタノ・ビニエに会いにいってくる」
「えっ、はい。西南四十五棟の六号室なので、お間違いないように」
「大丈夫だ。俺は記憶だけはいいからな」
ルーネベリは一枚の書類をベッドに置いて、庭にでていった。
部屋に残ったブリオは灯りを消そうと、ベッドの脇に立ち。そこで、ルーネベリの置いた書類の【灼力感染者への奇力干渉のお願い】という見出しに目がいった。
ギルビィ・ベークの病室に着いたシュミレットと管理者ズゥーユは、庭もない、ふつうの病棟とは大分異なる、何重もの厚い扉で密閉された病室に入ると。病室の奥で、マイナス千度まで下られた石のベッドの中で眠るギルビィ・ベーグの身体に目を奪われた。
茶色い髪の根元から数センチは白く、肌はほとんど紫色に侵食されていた。皮膚も擦ったように捲れている。左足がほぼ九十度捩れ。両手の先にあるはずの指がなくなり、切断面が黒ずんでいる。部屋に入った時から匂う、この異臭は壊疽のせいだ。紫色に混じって見える黒い染みもそうだ。マイナス千度に冷却されてもなお、腐敗は進んでいた。もはや、被せるだけの寝巻きからはみでた、身体の中心から飛び出た心臓が強くゆっくりと脈打っていた。不思議だ。この状態で命を繋ぎとめているとは……
シュミレットは少しギルビィ・ベーグに近づいて言った。
「君の所見は?」
「見たところは、第三期から第四期のようですが」
「今にも、死んでしまうかもしれないということだね。もしかしたら、彼女を連れ出すつもりだったのかと思ったけど、この状態では、かえって動かしたら命取りですね」
「えぇ。彼女をここから連れ出したところで、彼女の腐敗はさらに進行するだけでしょう。死を早めるだけです」
「彼女が目的ではないのかな」
黒いマントの下でシュミレットは腕を組んで壁際に立った。賢者は当てが外れて、むくれていたのか。いや、そうではなかった。シュミレットはギルビィの目の閉じられた顔を注意深く見ていた。
黙ったままのシュミレットに目を向けていたズゥーユは、シュミレットの足元に、なにか落ちているのに気づき。近づいて、屈み込んだ。手に拾ったのは、茶色く枯れた花びらだった。そういえば、この病室のいたるところに、枯れた花びらが落ちている。沢山の花びらの残骸。しかし、石のベッドの脇に置かれた花瓶にすら、新しい花など生けられていなかった。
シュミレットはマントを払い、ギルビィの横たわる恐ろしく冷たい石のベッドの脇に立った。そして、細く白い腕を伸ばして、ギルビィの瞼を押しあげた。膜がはったように白濁した瞳に、うっすらと人影が浮かんでいた。
「ギルビィ……」
意識を取り戻したタニラ・シュベルは、空に向かって消えていく煙を見上げていた。どこまでもどこまでも、昇っていく煙。高い天井に、丸い天窓がついていたが。昨日とはうって変わって、ガラスを通した先には青い空しか見えなかった。タニラの身体から、湯気だったように煙があがっていた。けれど、痛みもなにも感じなかった。身体は軽く、心も軽い。とても、心穏やかだ。すべての苦痛から逃れたようだった。
タニラは炎の消えた魔術式からそっと離れ、人の気配を感じる傍らに目線を向けた。古い本を持った黒いローブを着込んだ人物が、タニラを見ていた。
この幸福は、あの男のおかげだ。あの男が願いを叶える手助けをしてくれる。与えられた試練に打ち勝ったタニラは祝福を受けるように、男の前に跪いた。魔術式の中にいた時のような、操り人形ではない。本人の意思で、自ら進んで跪いたのだ。
ローブで身を隠した男は、「期待以上だ」と呟いた。
しかし、男に身も心を任せたタニラには見えていなかった。黒いローブの男と、タニラを取り囲む先の折れた六本の柱。そして、まだ続く広間の端にある暗がりで、なにか大きなものを覆っていた黒い布から、数本の手足がでていたことに――。
久しぶりの土曜日更新!
土曜日にたいして意味はないのですが、なぜか清々しいのはなぜでしょう。
ところで、次回は七章。ペース遅いのか早いのか不明ですが。
今年最後の章になりそうなのは、たしかです。
更新、頑張ろう……
また、次回です!