十七章
第十七章 動きだした針
水の膜に隔たれた神殿の奥、水辺に赤茶色の髪の少女がぐったりと倒れていた。少年僧が閉じ込めたという少女、ガーネだった。ガーネの息は浅く、顔色も悪いように思えた。しかし、阿万僧侶は何事もないかのように、その横を通りすぎ、水面上を歩き出した。ピチャピチャと足音を立て、白い衣の裾が濡れていた。
青空を映す水鏡のちょうど真ん中まで行くと、僧侶は懐から壷を取りだした。紫水を眠らせた、あの壷だ。茶色い陶器の壷がわずかに艶めいていた。僧侶は衣の袖で口元を押さえると、壷の蓋をあけた。甘い煙がたちまち白い線となって、天にのぼってゆく、どこかで見たことのある光景。晴天の空を映していた神殿内部が少しずつ白い煙によってかき消されていった。空は消え、水も消えさり。そのかわりに、暗がりが地面からひろがっていった。
僧侶と水辺に倒れていたガーネは、いつのまにか小さな部屋に立っていた。すっかり真っ暗な部屋となった神殿で、鼓動のように揺れ動く青い炎が背の低い一本の柱の上で燃えていた。他にはなにもない。阿万僧侶は口元から裾をはなし、壷を床に置き。懐から今度は短刀を取りだした。鞘を地面に捨てて露になった刃は白く、石のようだった。僧侶は短刀を手に握ると、柱へと近づいた。
水滴の神殿にルーネベリは飛び込んだ。水の膜に翻弄されながらも、「水辺の方へ」と心の中で念じながら走りに走った。目がくらみそうなほど、神殿の中をぐるぐるとまわり。ルーネベリはどうにか、真っ暗闇と化した部屋へと行き着いた。部屋を間違えたのかと思った。だが、散々走りまわったが、神殿に他の部屋があるとは思えなかった。ルーネベリは目を凝らした。目が闇に慣れてくるほど、暗い部屋の床に誰かが倒れているのがわかる。その上、その更に奥の方で、阿万僧侶が今まさに青い炎に短刀を突き刺そうと腕をかかげていた。止めなければ!ルーネベリは全速力で走った。
「何をなさっているんですか!」
僧侶は振り返った。見開いた細長い瞳孔が、ルーネベリの姿を捉えた。「その瞳……」と、ルーネベリは走りながら目を左へと向けた。青にも緑にもみえる虹彩に、黒い瞳孔。人間のようにしか思えなかった僧侶の顔色が変わっていた。思い出されるのは、セロナエルと少年僧だった。少年僧から事情を聞き、無事だとわかっているガーネの脇を通り、ルーネベリは息をきらしながら、腕をおろした阿万僧侶に近づくと言った。
「今、何をなさろうとしていたのですか?」
僧侶は短刀をすっと袖の中に隠した。
「何をといいますと」
「短刀なんて持って、やけに物騒じゃないですか」
「どうして、ここにいらしゃるのですか。この神殿は、時が止まったこととなんの関係ないと思いますが」
「えぇ、そうでしょう。でも、時なら、今さっき戻りました。どうやら、先生は時を動かすのに成功なさったようです」
「それはなんと喜ばしい。時が戻ったのでしたら、桂林様と賢者様はじき、城に戻られます。祝いの宴をひらかねば」
僧侶は胸に手を置いた。勘ぐりすぎだろうか。言葉とは裏腹に、それほど喜んでいるよう見えなかった。ルーネベリは言った。
「それは、いいですね。ですが、その前に、あなたはこの神殿で何をなさろうとしていたのですか?」
「僧侶の務めでございます」
「お務めですか。それは、ごくろうさまです」ルーネベリは辺りを見て、「ところで、他の方の姿が見えないのですが、お一人で来られたのですか?」と言った。「さようにございます」
「そうですか。僧侶がたった一人で行うの務とは、なにやら興味がわきますね」
「たいしたことではございません」
「そうですか。でも、短剣を使うほどでしたら、たいしたことでしょう。その右手に持っているものを見せてもらえないでしょうか」
「お断りいたします」
「貴重なものなのですか。それなら、後で桂林様の許可を……」
「これは桂林様のものではございません。なので、短剣をあなた様にお見せするもお見せしないのも、私の勝手と申しましょうか」
「はぁ、そうですか」と、ルーネベリ。こうも拒否されては言いようがなかった。ルーネベリはため息をつき、言った。
「それにしても、ここはどの部屋なんですか?こないだ来たときは、こんな場所には……」
「あなた様に仰る理由がございません」
ルーネベリは僧侶を見て、目を指さした。「では、その瞳は?さっきから気になっていたのですよ。あなたの瞳が変わった。この世界ではじめにお会いしたときは、外の世界の人々とそうかわらない丸い瞳孔でした。あなただけではありません。皆さん竜族とはいえ、外見は人とそうかわりなかった。それが今となっては、あなたの瞳は竜の瞳のようかわってしまった。なぜです?」
「そのようなこと。我々は竜族ですとも、強い感情にかられれば、瞳も本来のものとなりましょう」
「では、感情にかられることがあるのですね」
僧侶は軽く笑ったが、目が一切笑っていなかった。
「あなた様は賢者様の助手様であられましたね。そもそも学者とか。どこで、この瞳をご覧になったか知るすべもありませんが。この世界の理に口出しするのはお控えください」
「理ですか?短刀でその炎を刺すことがですか」青い燃える炎を一見した僧侶は、「あなた様には関係のないことです」と言った。ルーネベリは僧侶の足元に目を落とした。
「その壷の中身は何ですか?それも答えられないと仰るんですか」
「もうよしましょう。これ以上お話をして、あなた様といざこざを起こしとうありません」
「お答えしてくだされば、今すぐにでもこの話はとりやめます」
「賢者様の助手殿には、私的なことまで話さなければならぬのですか」
「私的なこと……。やはり、そうですか。ここに来る途中に、俺は『時の影』だと名乗る少年僧に会いました。彼には実体がないそうですが、どうしても伝えたいことがあると、わざわざ少年僧の姿になって俺の目の前に現れたのです。彼はガーネが神殿にいることを俺に告げ、ガーネを止めて欲しいと言いました。ですが、俺には竜の道が見えないので、神殿にはいけない。だから、時が戻るまで、彼は彼の目を俺に貸してくれたのです。俺がこの神殿に来られたのは、彼のおかげなんです」
「そのようなこと……。何者かに欺かれたのでは」
「そう仰いますが。本当は、その少年僧が何者かをご存知ですね」
「何のお話でしょう」
「もし、あなたが知らないというなら、それは間違いなく嘘でしょう。あなたは彼を知っているはずです。知っているからこそ、あなたは城で待つのではなく、ここに来た。俺は間違っていますか?」
阿万僧侶の不自然な瞬きした。どうやら図星のようだった。動揺を悟られまいと、阿万僧侶は口を閉じた。「あの柱の上で燃えている青い炎は少年――いえ、奇力なのでしょう。一体どうして奇力というものが目に見えているのかわかりませんが。まるで心臓のように動いているようにも見えますし。生きているようにも」
僧侶がルーネベリを見た。阿万僧侶が隠そうとすればするほど、獣のような瞳に薄っすらと涙が浮かんでいた。
「時の影だと名乗った少年僧は、時の止まっていた間、人々を動かし。管理者を守っているといっていました。なのに、あなたは短剣で炎を突き刺そうとしていた。とても矛盾していますよね。守ろうとしている者に剣を突き刺して、どうしようというのですか。なにか訳があるなら、話してもらえないでしょうか」
ルーネベリは僧侶をじっくりと見つめた。僧侶は目を伏せ、壷を見ていた。ルーネベリの一言一言がどうも癪にさわったようで、平静を装っているが、かえって、怒りを抑えているようにも思えた。
阿万僧侶の袖が小さく揺れていた。
会話に没頭している阿万僧侶とルーネベリの背後で、倒れていたガーネが虚ろに目を開けた。視点の合わない目を、暗闇の中煌く青い炎の方にむけ、静かに閉じた。ガーネの上空とその小さな背中に時術式が浮かびあがった。赤黒く光る上空の時術式とガーネの背中の間に光の柱ができたのだ。柱の中にどこからともなく、人影が現れた。そして、その人影は「さすが、姉さんの読みどおりだよ」と言いながら、長い手足を光の柱から突き出し、ガーネの背を踏み台にして外にでてきた。
僧侶とルーネベリは振り返った。この場に似つかわしくない人物の登場に、身震いさえ覚えた。光の柱から黒いローブを身に纏った誰かがもう一人出てくると、ガーネの背中に出来た時術式が消え去った。
「あの小僧はガーネを神殿に閉じ込める。そうなれば、私らは安全な場所に空間移動できる。賢者にも見つからない安全な場所にね」
「だから言っただろう。あの時、殺さなくて正解だったと」
女の声が二つ。フードをかぶった顔の見えない黒のローブ姿の女と、エメラルド色のマントを肩から垂らしたすらりとした美女が、地面に横たわるガーネの脇に立っていた。美女はその美貌をさらに際立たせている竜の瞳を僧侶とルーネベリに目を向けた。
「そうだねぇ。でも、先客がいるとは思わなかったよ」
ルーネベリには一目見てわかった。名を聞くまでもない。この二人は、デルナ・コーベンとセロナエル・J・アルトだ。ガーネを使って、ここまで空間移動してきたというのか!
「竜族の僧侶と若い男。観光にでも来たのかい」
目を真っ赤に充血させた僧侶がセロナエルにむかって走りだした。袖に隠した短刀を胸までかかげ、「賊め。よくも、この地に舞い戻ったな!」と、怒りを爆発させた。
「これは竜の牙でつくった短刀。桂林様から奪ったその瞳以外では、到底太刀打ちできまい。この世界の管理者に対する数々の無礼、死をもってその罪を償うなわれよ」
「おや、僧侶が人を殺そうっていうのかい」
セロナエルの言葉を無視し、僧侶は勢いをつけて刃をセロナエルの心臓に突きたてようとふりかざした。けれど、セロナエルは屈することもなく、ただ隣にいるデルナ・コーベンが軽く首を横に振ったのを見て、肩をすくめた。「竜族に魔力は効かないんだったね。だったら、これはどうだい?」
デルナ・コーベンのローブの中から、カチッと音が鳴った。そうすると、突拍子もなく僧侶は転げ飛んだ。何が起こったのか、ルーネベリにもわからなかった。セロナエルはただ、ケラケラと笑っていた。しかし、飛ばされた僧侶の方は怪我もなく。すぐに立ち上がると短剣を探したが、剣は部屋の反対側にまで飛ばされていた。僧侶は急いで近くの陶器の壷に走り、壷を掴むと、中に手を入れて掴んだ粉をセロナエルにむかって投げた。青白い粉末が雪のように舞った。デルナ・コーベンは即座に口元を押さえたが、その粉を吸い込んだセロナエルは咽た。「なんだ、何を投げた!」
「竜の牙を粉末化したもの。これを多く吸い込めば、お前たちは身動きさえできなくなる」
セロナエルは舌打ちした。気味の悪いものを少し吸ってしまったと、腹を立てたのだ。セロナエルはマントを持ちあげてすっかり顔を隠し、魔術式を空中に描き、粉と空気もろとも小さな竜巻を起こした。竜巻は渦巻きながら進み威力を増したが、僧侶の目の前までくると、セロナエルは術式をといた。竜巻は消えた。だが、残った強風が僧侶に直撃し、その身体を吹き飛ばした。僧侶は青い炎の燃える柱を越え、部屋の隅まで飛び。壁にぶつかり、そのまま気絶してしまった。ルーネベリは僧侶に駆け寄った。倒れた僧侶を抱きあげ、様子を伺ったが、どうやら目立った怪我はなさそうだった。振り返り、ルーネベリは言った。
「なんてことをするんだ!」
「私らに盾突くとこうなるのさ」
「盾突くだって。お前たちには分別もつかないのか」
「なんだって!」
「新世界主義がなんだか知らないが、力でねじ伏せるしか脳がないのか?」
セロナエルは唇を強く噛み、ルーネベリの容姿に目を細めた。
「言うじゃないか。まだ、私らにそんな暴言を吐ける人間がいるとはね。でもね、力もない人間がでしゃばるのは気分が悪い。今すぐ、その減らず口、きけないようにしてやるよ」
ひどく哀れむような眼差しをルーネベリにむけ、セロナエルは魔語の異なる魔術式を三つ発動させた。術式はルーネベリめがけて飛んできた。術式を避けることなんてできないルーネベリは、気絶している僧侶の上に守るように覆いかぶさった。ルーネベリの胸ポケットの入った、魔道具ライターがわずかに光った。シュミレットが仕組んだ術式が発動したのか、胸ポケットから魔術式が飛び出し、壁のようにルーネベリと僧侶の前に立ち塞がり、襲ってきた四つの術式を跳ね除けた。
跳ね返ったセロナエルの魔術式は消え、魔力がセロナエルの身体にもどってきた。すると、セロナエルは回転しながら吹き飛ばされ、地面に身体を叩きつけられた。セロナエルは叫んだ。
「……どういうことだ。あの男は魔術を使えるのか。それも、この私より魔力が上だというのかい!」
「おやめ、セロナエル。あの男は魔術師じゃないよ」
デルナ・コーベンが言った。
「姉さん。それじゃあ、今の術式はなんだい?」
「守りの術式さ。どうやら、知り合いに強力な魔力を持った魔術師でもいるようだ。今は、無駄に手を出して敵にまわしたくない」
セロナエルは地面を叩いた。デルナ・コーベンの思惑など、ルーネベリにはわからなかったが、どうもセロナエルはデルナ・コーベンに付き従っているようだった。ルーネベリはデルナ・コーベンの素顔を覗こうと、巨体を屈めると。地面とガーネの真上に、時術式が現れた。光に包まれたガーネは、目で追いかける隙も与えずに、そのままどこかへと消えてしまった。
ルーネベリは額に手をあてた。間に合わなかった……。時が止まっていた間、ガーネは実際には空間移動などしていなかった。けれど、時が動きだした今、コーベンの仲間がこの世界のどこかにきていて、ガーネの空間移動の手助けしたのかもしれない。セロナエルの様子から見て、あきらかに時を止めたことが真の目的ではない。悪い予感がする。このまま野放しにしていれば、デルナ・コーベンたちの思うつぼだ。早くシュミレットと落ち合わなければ、この非常事態を早く賢者に伝えなければいけない。
デルナ・コーベンの黒い瞳が考え込むルーネベリに気づき、身をひらりと返した。「そろそろ時間だよ、セロナエル」
「やっと、この世界とおさらばだ」
「待て!」ルーネベリは時間を少しでも稼ぐため、言った。
「ガーネに何をしたんだ。あんたの娘なのだろう。どうして、こんなことに巻き込んだ」
案の定、セロナエルは嘲け笑った。
「今、なんて言ったんだい。あの娘があたしの娘だって?笑わせないでおくれよ」と、本心から言っているのか、セロナエは憎み嫌っているかのようにガーネを見下ろした。
「こんな怪物、あたしなら頼まれたって産まないね」
「セロナエル」
「私はルイーネのようにお人好しなんかじゃない」
セロナエルとデルナ・コーベンの姿が、言葉とともに、仕掛けられた地面と上空を結ぶ四つの時術式の中に消え去った。
シュミレットがマントについた埃を払い、立ちあがった。
「地上にあがりましょう。時間が止まっていた影響がもうじきでてくるはずですから、その前に第三世界に連絡して時術師を呼びよせておかないと」
衝撃波で一緒に飛んでいってしまったハトッタトーレイの小箱をシュミレットは拾い、マントに隠れた鞄にしまった。そして、時の石を見上げる桂林の背中に言った。「桂林様?」
「シュミレット。そなたをもってしも、これが何を意とするのかわからぬのだな」
「残念ながら。それは作ったものしか知りえないことでしょうね」
「悔しいの。わけもわからず、わらわの一族はこの時の石を守り、管理しているのか」
「いずれわかる時がくるでしょう」
「その時は、わらわは息絶えているだろう」
シュミレットは首元を不安げに撫でた。随分と長く生きているシュミレットにすら、言い返す言葉がなかった。
「じゃが、なんだろうか。この石をじっと見ていると、なにやらわらわには……」と、桂林はそう言いかけてぎゅっと締め付けられるように痛む胸を押さえた。身体がおかしかった。内側からじわじわと血が溢れだすように、熱がひろがっていく。桂林の肌が黒く一変した。そして、桂林の意志とは反対に、止めることができないほど身体が重くなっていった。まるで、水を含んだ布のように重い。桂林はせわしなく息を欲した。「桂林様」と叫んだシュミレットの声すら、耳には雑音にしか聞えてこない。柔らかだった肌が固く厚みを増し、薄い鱗に覆われた。何も見えない白く濁った目は丸くさらに大きくなり、細長い瞳が目の中央に君臨した。背を丸める桂林の身体がどんどん膨らみ、ほどなくして、背から二つの突起がでてきた。鱗に覆われた大空をはばたくに相応しい大きな羽。手足の爪は、長い鉤爪となった。竜だ。青い竜が現れたのだ。時の置き場にいっぱいに成長した竜は、鼓膜が破れそうなほどの鳴いた。部屋の隅に逃れたシュミレットは両耳を押さえた。
竜は羽をはばたかせ、窮屈な時の置き場の天井を突き破って、外へと飛び立った。天井から大量の土砂が崩れ落ちてきた。シュミレットの小さな身体が、みるみる土砂に埋もれていった。
げっ、もう月末……。
ここは踏ん張って、5日以内にあと一話だけぎりぎりで書けるか……。
7月よ、まだ来るな!