十章
第十章 残された荷物
宿屋の主人は首を傾げた。ガーネが「どうしたの?」と言った。
「いやいや、どうもしないが」
「あのばあさんの姪っ子だったとはな。この世界に閉じ込められたにしちゃ、宿代も毎週きっちり支払って、几帳面なばあさんだと思っていた。大金を持ち歩くなんざ、魔術師いうものは金持ちなのかね。しかし、おかしいな。部屋に荷物を置いたままなのに、本人の署名が二つもある。本人に確かめるまでもない。こりゃ、うっかりしていたか、見落としていたようだな」
ルーネベリは眉を潜めた。
「見せてもらえますか?」
「あぁ、いいとも」
主人から白い本を受け取り、ルーネベリが読むと、これはなるほど、主人の言うとおりサインが二つもしてあった。
「なぁ、あるだろう?」
「えぇ、ありますね。部屋に荷物を置いたままだとご存知なのは、つい最近まで本人に会っていたからですか?」
「あぁ。話しの上手な、気のいいばあさんだ。世界の時が止まった後は、自分たちの世界に帰れないっていう連中と一緒に、毎朝朝食は俺のところでとっていたから、よく話をしたもんさ」
「最後に会ったのはつい三日前だったな。手ぶらでどこかへ行くと言っていた。あんな大荷物、ちょっとそこいらに行くのに持ってはいけないだろう。そもそも、世界の外に出られないんだ。宿代を払った後で、よその宿に移ったりはしないだろう。部屋に置いていったんだ」
「大荷物というのは?」ルーネベリは言った。
「トランク二つに、大きなリュック一つだ。一年かそこいら前に、小柄な身体に大荷物でやってきたんだ。重たそうだったから、俺が手を貸すと言ったんだがな、何度も断られたからよく覚えている」
「そうですか。ありがとうございます」
ルーネベリは本を返した。「いや、たいしたことじゃない」
「三日前から宿に戻っていないのですか?」
「あぁ、姿を見ていない」
「叔母様はどこへ行くと言っていたの?」
主人は腕を組んで、「どこだったか」と唸った。
「珍しい場所じゃなかった気がするんだが」
「もしかして、城に行くと言ったのではありませんか?」
ミースが言った。
「城?」
主人ははっとして手を打った。「……あぁ、そうだ。なんでも、誰かに会いに行くと言っていたな」
「その人物に心当たりは?」
ルーネベリが言ったが、主人は首を横に振った。
「さぁな。お偉いさんだった気がするが」
「桂林様ではありませんか?」
「どうだったか。あの時、少し立て込んでいたからな」と、天井を見上げた主人。それ以上のことは詳しく聞いてもわからないだろうと思ったルーネベリは、言った。
「そうですか。では、二人の叔母の部屋を見せてもらうことはできませんか?」
「それは構わないが、後で俺の責任にはしないでくれよ。たまにいるんだ。いちゃもんつけるやつが」
「叔母はそんなことはいたしません」
「それならいいんだがな」
受付台の奥にある葉のレーリーフの彫られた棚を開くと、主人はフックにかかった銅の鍵の束を取った。
「ついてきてくれ」
主人は受付台から六つの扉の並ぶ廊下を通って突き当りまで行くと、階段をのぼって二階にあがり、ちょうど三つ目の扉の前で立ち止まった。そして、鍵穴にたくさんある銅の鍵の一つを差し込んだ。鍵を一回転まわすと、扉が開いた。
「帰るときはかまわず声をかけてくれ。俺は外で仕事をしている」
ルーネベリが礼を言うと、主人は下の階へ降りていった。ルーネベリたちは、ミースとガーネの叔母が泊まっているという部屋に入った。きちんとシーツの整えられた質素なベッドと、部屋の脇に箪笥と机と椅子が置いてあった。荷物は窓際に置いてある。
「えらく綺麗な部屋だな。余計なもの一つ置いていない」
ルーネベリが言った。
「叔母は綺麗好きなんです」
「そうか。だが、それにしても妙に綺麗すぎないか?」
部屋を見回してルーネベリは言った。
「一年もここに泊まっているようには思えない」
部屋の様子を見たミースは相槌をうつように、ゆっくりと頷いた。「それもそうですね」
ルーネベリは箪笥の戸を開き、中を覗きながら言った。
「お前の叔母が城に行くことをなぜ知っていたんだ。しかも、桂林様に会うと?」
「何かを知っていたわけではありません。ただ、思ったんです」
「思った?」
ルーネベリがミースを振り返り、見た。
「叔母は何かを勘付いていたのではないでしょうか。何かを知って、この世界へやってきた。それが何なのかわかりませんが。叔母は普段、大金を持ち歩くような人ではありませんし。こんな大荷物だって……、鱗の採取には必要ありません」
ルーネベリは「確かにな」と頷いた。と、入り口で立っていたガーネが、ミースが指差したトランクへ走り、両手で無理やりこじ開けようとした。
「ガーネ!」
爪を立てたガーネは、鍵が閉まったまま開かないとわかったトランクをガタガタと激しく揺さぶりはじめた。目を見開き、狂ったように何かを早口で呟きながら、トランクを揺さぶった。
「おい」
正気の沙汰じゃないガーネの行動に、ルーネベリがガーネの腕を掴んだ。その反動で、ガーネの手からトランクが落ち、トランクは、バンッと破裂するような音とともに開いた。中から灰色の煙がもくもくと上がり、部屋は煙が充満しだした。あっという間に広がった煙で前も見えない。ルーネベリとミースは咳き込んだ。肺に煙は入ったのだ。息もできず、あまりの苦しさに目じりから涙が溢れ出た。
「窓を開けましょう」と、咳き込みながらどうにか窓へ走ろうとするミースのローブをルーネベリは掴んだ。
「駄目だ、窓は開けるな」
口元を抑え、ミースもろとも床に倒れると、ルーネベリの手にある魔道具ライターが一瞬まばゆい光を放った。すると、魔道具ライターの表面からから巨大な魔術式が飛び出した。魔術式は空中で分裂して十個の魔術式に別れ、トランクを取り囲んだ。部屋に充満した煙が時間を巻き戻したかのように、トランクの中へと戻っていった。
煙が部屋から消え去り、ようやく目をまともに開けられるようになると、トランクの傍でガーネが倒れているのに気がついた。ルーネベリは駆け寄り、魔道具ライターを床に置いて、ガーネを抱きあげた。
「おい、しっかりしろ!」頬を軽く叩きながら名前を呼ぶが、ガーネはうんともすんとも言わなかった。後ろでバタンとトランクが、十個の魔術式によって閉じられた。ミースがガーネに駆け寄ってきた。
「今のは?叔母が得体の知れない魔道具を持っているなんて考えられません」
ルーネベリはガーネの口元と首に手を当て、脈と呼吸を確かめると、安堵の溜息をついた。そして、ガーネを抱きかかえたままベッドまで運んだ。ミースがガーネを心配そうに覗き込んだ。
「気を失っているだけだ」
ルーネベリはベッドから離れ、静かになったトランクの方へ歩いた。まだ消えない魔術式がトランクの周りを回っていた。
「目を覚ましますよね?」
ミースが不安そうに言った。魔道具が原因で気を失ったのかすらわからないルーネベリには、何と答えていいものやら。悩んでいると、誰かが部屋の扉をノックした。
「誰だ?」
ルーネベリが思わず叫ぶと、背丈の高い青年が扉を開けておずおずと顔をだした。
「失礼。物音が聞こえたので、アルトさんが戻ったものだと」
「どちら様ですか」ミースが言った。ベッドに横たわるガーネを見て、青年はその茶色い瞳でルーネベリやミースをじろじろと見た。
「隣の部屋の者ですが。何かありましたか?」
「魔術師ですね」
「はい」とゆっくり頷いた青年に、ルーネベリは溜息をついた。
「あなた方は?」
ルーネベリは髪を掻き揚げ、青年に誤解されないように言った。
「ルイーネの知人だ。荷物を外へ運ぶよう頼まれたのだが、運ぶ途中に、荷物を落としてしてしまって。落とした拍子に魔道具が発動して娘が倒れてしまったんだ」
「それは大変だ」
青年はルーネベリが指した先にある、シュミレットの仕掛けた十個の魔術式が囲むトランクに目を向け。ベッドに横たわるガーネに近づいて手を握り、手首に触れた。ドクンドクンと脈打つ心音に混ざり、スーと水のように流れる魔力を指先で感じ取った。わずかにだが、魔力の流れが速かった。
「魔道具が閉じているのに、術式が消えないとは、よほど強い魔力が秘められているようですね。どんな用途に使う魔道具かわかりますか?」
「いや。時術式や奇術式を仕込むための魔道具ではなさそうだということぐらいしか」
「彼女、年はいくつですか?」
ルーネベリが返答に困ると、ミースが答えた。
「十六歳の私より五つ年下なので、ガーネは十一歳です」
青年はガーネの手をベッドにそっと置いた。「それなら、きっと体内の魔力が魔道具に強く反応して、一時的にショック状態を引き起こしたのでしょう。子供には稀にあることです」
「直、目を覚ましますよ」と、青年は言った。安心して、ミースは思わず「よかった」と呟いた。
「それにしても、こんなに魔力の強い魔道具を押さえ込めるなんて、どなたの術式ですか?」
ルーネベリは賢者シュミレットを思い出したが、あえて魔道具ライターを見せ、「俺も魔道具を持っていてね」と言った。
青年は興味深そうに魔道具ライターを眺めた。
「ライタータイプですか。これは面白い」
「これでも骨董品らしいが、もともと他にはない一点物らしい」
「買ったんですか?」
「いや、はるか昔に譲り受けたんだ」
青年は羨ましそうにライターを見つめながら、言った。
「それはいいですね。よく使い込まれていて使いやすそうです」
「あのトランクは店で買ったものだと思うか?」
「そうですね。僕が思うに、彼女が反応するぐらいですから、人工的に作られた魔力ではなく、きっとルイーネさんご本人から取り出した魔力を増幅して作られたものでしょう。簡単に言えば、自作したんだと思います」
「自作したものはどう違うんだ?」
「自作の魔道具は、物によってはほぼ魔力そのものですからね。その魔道具でつくる術式の威力は格段にあがります。が、その分、操作が並大抵ではありません。魔力の強い魔道具は他者の魔力を抑え込むには適していますけど、並みの魔術師が操作するなんて自殺行為に等しいでしょうね」
「そうか……。助かった。魔術の知識があまりなくて困っていたんだ」
青年は手を振った。「困った時はお互い様です。それに、僕は魔術師と名乗ってまだ一年しか満たない若輩者ですから。お気になさらないでください」
青年はミースに言った。
「十六歳と言ったね?君ももうすぐ卒業だね」
「はい、そうです」
「そうなのか?」と、ルーネベリ。ミースは「はい」と頷いた。
「魔術師の子は、十六歳と半までは魔術学校に通い。それからは、魔術師の下で見習いとして魔術の修行をするんです。優秀な人は、一年ほどで修行を終え、第五世界魔術大学に進学するんですが。それはほんの一握り。先輩方は手厳しい方が多いですから。
僕は三年半かかってやっとのことで修行を終えてから、大学に二年在籍して。去年卒業して魔術師になったところなんです」
「ほぅ、それはおめでとう」
「ありがとうございます」青年は嬉しそうに頭を下げた。
「魔術師になったのなら、忙しいでしょう。この世界へは何の用で?」
「卒業旅行ですよ。鱗の採取をかねて、友人と旅行に来たんです。
この宿は鱗取りをするには最高の位置に建っていますからね。でも、運悪く、世界の時が止まってしまって。せっかく決まった就職先の内定も、きっと帰ったら取り消しになっているでしょう」
しゅんと肩を落とした青年に、ルーネベリは言った。
「君のせいではないだろう。どうにかなればいいんだが」
「そうですね。僕もそう願っているんですが……」
遠くで誰かが「ハミル」と呼んだ。廊下かもしれない。
「ハミル?」とミース。青年は言った。
「ハミル・デラ・カートン。僕の名前です。友人のシャルベリーが僕を呼んでいるようです」
青年は「それでは」と微笑みかけ、扉を開けて部屋を出て行った。あの青年は、魔術師にしてはやけに好印象だった。ルーネベリは腰に手を当て、息を吸い込むと、ガーネを抱きかかえた。
「さて、ガーネを城に運ぶとするか。ちょうど、夜になった頃だろう。俺たちもついでに休むとしよう」
「荷物はどうしますか?」
「俺のライターを置いていく。術式が消えない以上、無理に発動を止めると、またトランクが開くかもしれないからな」
城に戻り、ガーネを部屋に寝かせると、ミースに休むように言い、ルーネベリは寝室に戻った。部屋に着くなりカーテンを閉め、疲れてはいなかったがベッドで横になったルーネベリは、鞄から煙草を一本取り出そうとして、魔道具ライターがなかったと思い出し、押し戻した。
「先生は戻らないか……」と、静まりかえり、退屈な部屋で独り言を呟いたルーネベリは頭の下で手を組み、ルイーネのトランクを思い浮かべた。ミースとハミル、そして宿屋の主人が言った言葉の数々を汲み取ると、ルイーネ・J・アルトは何かを知り、何者かに対抗すべくこの世界に来たことになる。もし、そうならば、時が止まった直後にこの世界に来たとするなら、ルイーネにはその人物の計画どころか、時が止まった後、この世界がどうなるかわかっていたのかもしれない。
ルーネベリはふと思う。ルイーネが犯人ならば、どうだろうかと――。しかし、その線は薄いように思えた。犯人はあらかじめ賢者の動きを察していたはずだ。賢者に対抗すべく、この世界に留まり、魔道具を持っていたのか?いや、それならば、あんな大きな物でも、常に魔道具を傍に置きたがるはずだ。魔道具を使う相手が賢者だと、すべての辻褄が合わなくなる。それに、宿泊名簿に記されていたあの二つのサイン。あれは、本当に宿屋の主人の手違いなのだろうか。ルーネベリは目を閉じた。「ルイーネは犯人ではない。それは間違いない。それなら、今、どこにいるのだろうか……」
ルーネベリの問い答えるように、部屋の扉が少し開いた。ルーネベリは驚いて起きあがった。ノックもせずに、誰が来たというのだろう。ベッドから降りて、ルーネベリは扉へ向かった。けれど、そこには誰もたっていなかった。廊下を覗き込んだが、そこにも誰もいなかった。悪戯だろうかと、扉の取っ手に手をかけようとした。と、ルーネベリは床に砂が落ちているのに気がついた。
しゃがんで手に取ってみると、それは塩の砂だった。よくよく見ると、その砂は廊下の上に、点々と落ち、廊下の角まで続いていた。誰かがルーネベリの部屋を覗いていたのか、それとも、何か伝えたいことでもあるのだろうか。ルーネベリは塩の砂を辿り廊下の角まで歩いた。そして、角を左に曲がろうとしたところ、誰かに腕を引っ張られた。それはもう強く引かれたものだから、ルーネベリの巨体はよろめきながら、近くの扉の中へと押し込められた。あっという間の出来事に、悲鳴一つあげられなかった。ルーネベリは暗闇の中、腕を掴む手を払おうとしたが、手が自ら離れていった。
「お許しください。誰にも姿を見られたくはなかったのです」
息の荒い女の声にルーネベリは言った。
「あなたは?」
カチッと点火し、皿の上に盛られた塩の砂に火を灯した。すると、薄明かりの中、フードを被ったローブ姿の人物がルーネベリの目の前に立っていた。その格好は、まさにルーネベリは瞳心の神殿で見たあの人物と同じものだった。「あなたは、神殿で見た……」
目の前の人物は首を横に振り、両手でフードを脱いだ。
「いいえ。あなた様とはすでにお会いしましたが、神殿ではございません。私は桂林様の侍女、明美でございます」
昨日は寒かった。毎日寒い!
冬だから……
また次回、よろしくおねがいします