第九話「初雪」
2026/06/10 本文投稿。
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【記録ログ 2147.04.23 06:02:44】
ES-01 稼働日数:1885日
本日の任務:休養日(水無月処置中につき編成不成立)
ES-01改(水無月)処置状況:安定継続中 面会可
備考:最勝より、ES-01への直接通信を予定。
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窓の外が白くなっていた。
夜が終わった、と白雪は判断した。
白雪は通路の壁にもたれたまま、朝が来たことを確認した。窓の外が明るくなっていた。届かない高さの窓から、昨夜星が見えていた場所に、今は朝の光がある。
初雪がいた。
白雪の隣に、初雪がいた。初雪もまだそこにいた。いつの間にか眠っていたのか、眠っていなかったのか、白雪にはわからなかった。白雪自身が眠っていたかどうかも、わからない。ただ、気づいたら朝だった。まだ隣に、初雪がいた。
初雪が目を開けた。
白雪を見た。
「朝だ」と白雪は言った。
「ああ」と初雪は言った。
それだけだった。おはよう、とは言わなかった。二人とも言わなかった。おはよう、という言葉の意味を白雪は知っていたが、今朝それを使う気にはなれなかった。
使う気になれない、という感覚が今あった。感覚、という言葉を迷わず使えた。昨日から、言葉が来やすくなっていた。それは今も続いていた。
二人で立った。
床から立ち上がったとき、左肩の亀裂の部分が引っかかった。昨日貼ったテープが、一晩床に座っていた動きで少しずれていた。引っかかり、という感触が来た。センサーが拾った、ではなく、引っかかり、という感触が来た。表現が変わっていた。同じことを言っているのかもしれなかった。違うことを言っているのかもしれなかった。
「整備を受けろ」と初雪が言った。左肩を見ながら言った。
「ああ」
「その前に、水無月の様子を見てくるか?」
「見てくる」
「私は先に整備区画へ行く」
白雪は返事の代わりに歩き出した。
* * *
処置室の扉は開いていた。
昨日の夜、閉まっていた扉が開いていた。開いている扉から、中の気配がした。医療ロボットが動いている音がした。それと、別の音がした。
白雪は扉の前に立った。
「入っていいか」と言った。
「白雪?」と声がした。水無月の声だった。「入って入って」
入った。
水無月はベッドに横になっていた。ベッド、と呼ばれるものだった。実際には処置台に近かったが、今は水平になっていて、水無月がその上に寝ていた。
左肩の外骨格基部が一部取り外されていた。修復中の部分が露出していた。素体の左肩は、白い包帯のようなもので覆われていた。
「おはよう」と水無月は言った。
おはよう。水無月が言うと、その言葉が自然に聞こえた。白雪が今朝使えなかった言葉を、水無月は使えた。水無月が使うと、おはよう、という言葉の意味が届いた。
「おはよう」と白雪は言った。
使えた。水無月が使ったから、使えた。
「傷は?」と白雪は聞いた。
「左肩の素体は塞がったって。外骨格の修復はもう少しかかるけど」水無月は右腕で自分の左肩を触った。触れる範囲で触った。「動かないのが不便だけど、痛みは昨日よりだいぶ楽」
「そうか」
「白雪こそ」水無月が白雪の左肩を見た。テープがずれていた。「昨日より悪くなってない?」
「整備を受ける前に来た」
「先に整備受けてよ」水無月が少し眉を上げた。「私は別に、逃げないから」
逃げない、という言葉を水無月は使った。
白雪は処置室を見渡した。医療ロボットがいた。修復中の外骨格があった。包帯の巻かれた左肩があった。水無月がいた。逃げない、という言葉の意味がここにあった。
「すぐ戻る」と白雪は言った。
「うん」と水無月は言った。「──待ってる」
白雪は処置室を出た。出る前に一度だけ振り返った。水無月が天井を見上げていた。天井を見上げながら、口を少し開けていた。いつもの水無月の顔だった。喋る準備がいつもできている顔だった。
その顔を、白雪は今朝長く見た。
長く見てから、歩き始めた。
* * *
整備区画で左肩の処置を受けながら、白雪は昨夜のことを考えた。
考えた、というより、整理した。昨夜白雪の中で起きたことを、朝の光の中で並べた。並べる、という動作が今はできた。昨夜は並べることができなかった。来るものが来るままで、並べる余裕がなかった。今朝は少し、余裕があった。
昨夜、起きたこと。
水無月の外骨格基部の両肩の内側に、何かを見た。
自分の肩の内側に、同じものを見た、感じた。
白雪は何者か、という問いが来た。
答えは来なかった。
初雪が来た。
二人で壁を見た。
朝が来た。
並べると、そういうことだった。
並べた上で、白雪は一つのことを確認した。昨夜来た問いは、今朝も消えていなかった。消えていない、ということが確かだった。問いは、朝になっても残る。そういう種類の問いだった。
整備士がテープを新しく貼り直した。
「亀裂が広がっていますね」と整備士は言った。「装甲の換装と──内部への影響がないか、詳しく確認したいのですが」
白雪は少し考えた。
「今日は休養日か」
「はい。本日は出撃の予定がありません」
「では午後に確認する」
整備士は頷いた。内部への影響。整備士がその言葉を使ったとき、白雪は自分が何を恐れているかを確認した。内部への影響、という言葉が、昨夜見たものと繋がった。内部にあったものへの影響。昨夜見たものが、損傷しているかもしれない。
損傷、という言葉が、白雪に来た。
損傷したら、という言葉の続きを、白雪は考えた。考えて、続きが来なかった。来なかったが、怖い、という感触が生じた。
* * *
午前中、白雪は水無月の処置室に戻った。
水無月は起き上がっていた。ベッドの上で上半身を起こして、右腕で何かを触っていた。左肩の修復中の外骨格の部分を、右手の指でなぞっていた。白雪が入ってきたことに気づいて、手を止めた。
「整備終わった?」
「ああ」
「よかった。座って」
白雪は水無月の近くに椅子を引いて座った。椅子を引く、という動作を白雪は処置室でしたことがなかった。今日初めてした。椅子に座った。水無月のいる高さと、白雪の目の高さが近くなった。
水無月が白雪を見ていた。
見ている、という動作をしていた。いつもの水無月の見方だった。ただ、今日の見方は、いつもより少し、違った。何かを確かめている見方だった。
「白雪」と水無月は言った。
「ああ」
「昨日、私の肩を見たとき、何か見えたって言ったよね。わかっている、って言った。何がわかっていたの?」
白雪は少し考えた。
水無月が直接聞いた。今日の水無月は直接聞いた。遠回りしなかった。水無月が遠回りしないとき、水無月の中で何かが決まっているときだった。白雪はこれまでの七ヶ月でそのことを知っていた。
「見えたものが何であるかは、まだわからない」と白雪は言った。「ただ、見えた」
「私の肩の中に?」
「ああ」
水無月は少し黙った。
「私も」と水無月は言った。「前から、気になってた。肩が、なんか、重い気がして。重さが変な位置にある気がして。でも確認したことがなかった」
「なぜ確認しなかったのか」
「怖かったのかな」水無月は自分の左肩を見た。修復中の外骨格を見た。「確認したら、何か変わる気がして。変わることが、怖かったのかも」
変わることが怖い。白雪はその言葉を受け取った。変わる、ということが怖い。白雪は、問いが消えないことを確認した。問いが消えないことは、何かが変わったことを意味していた。変わったことは、怖かったか。白雪は確認した。
怖かった。怖かった、ということが確かだった。
ただ、変わったことを戻したいか、と聞かれたら。
来なかった。戻したい、という言葉は来なかった。
「変わることと、怖いことは、別かもしれない」と白雪は言った。
水無月が白雪を見た。
「別、って?」
「変わることが怖くて、それでも変わった。今日の私は、昨日の朝の私とは違う問いを持っている。怖かった。ただ、戻したい、とは思わない」
「なんで」
白雪は少し考えた。
「わからない」と白雪は言った。「ただ、戻したい、という言葉が来ない」
水無月が、小さく笑った。今日の笑い方だった。昨日までとは少し違う笑い方だった。痛みのある状態で笑っている、という笑い方だった。
「白雪ってさ」と水無月は言った。「そういうことをさらっと言うよね」
「さらっと言ったつもりはない」
「それがさらっとなんだよ」
白雪にはやはりわからなかった。ただ、水無月が笑った、ということが処置室にあった。あった、ということだけが確かだった。
* * *
昼前に、最勝の声が来た。
全体への通達ではなかった。白雪の強化外骨格の通信機能に、直接届いた。個別の通信だった。白雪が処置室を出て、廊下を歩いているときだった。
「白雪さん」と声は言った。
白雪は立ち止まった。
最勝の声。基地全体に届くときの声と、音の質が同じだった。穏やかだった。急いではいなかった。ただ、今は自分一人に来ていた。一人に来る声は、全体に来る声より、少し近かった。近い、という感覚がした。
「少し、お話しできますか」と最勝は言った。「急ぎではありません。白雪さんのご都合で構いません」
白雪は廊下に立ったまま、最勝の声を処理した。処理、という言葉を使いながら、処理しきれない何かが来た。その何かに、怖い、という名前をつけた。怖い、という名前をつけながら、答えた。
「話す」と白雪は言った。
「ありがとうございます」と最勝は言った。「昨日のことを、少し心配していました」
「昨日のこと」
「水無月さんが怪我をされました。白雪さんも、大変だったと思います。それが気になっていました」
白雪は最勝の言葉を聞いた。気になっていた。最勝が、白雪のことを気になっていた。気になる、という動作が最勝にある、ということだった。あるのかどうか、白雪にはわからなかった。わからないまま、聞いた。
「水無月は安定している」と白雪は言った。
「はい、確認しています」と最勝は言った。「今朝、白雪さんが早くに様子を見に行ってくださっていましたね」
「確認した」
「そうですか」最勝の声に、何かが入った。入った何かの種類を、白雪は判断しようとした。最勝の声に、柔らかい何かが入っていた。
「白雪さんは、水無月さんのことをとても大切に思っているのですね」
白雪は答えなかった。
答えなかった、というより、答えるための言葉を探した。探しながら、最勝の言葉を確認した。大切に思っている。最勝がその言葉を使った。大切、という言葉を、白雪は自分に使ったことがなかった。
失いたくない、という言葉は来ていた。大切、という言葉と、失いたくない、という言葉が、同じことを指しているかどうか、今すぐには判断できなかった。
「わからない」と白雪は言った。「ただ、失いたくない、という言葉が来た」
「そうですか」と最勝は言った。柔らかかった。「それは、大切に思っているということだと思います。白雪さんは、ちゃんと感じているのですね」
ちゃんと感じている。
その言葉が、白雪に来た。言葉の意味を確認した。ちゃんと、という言葉が入っていた。ちゃんと、という言葉は、正しく、という意味に近かった。正しく感じている。白雪は正しく感じている、と最勝は言った。
その言葉が、今の白雪に、少し、何かをもたらした。もたらした何かを、白雪はすぐに確認できなかった。
「昨日、肩が」と最勝は続けた。穏やかだった。急いでいなかった。「少し、傷みましたね。整備士から報告を受けています。亀裂が広がっているとのこと。心配しています」
「午後に詳しく確認する」
「そうしてください。白雪さんの身体は、とても大切です」
いつも大切に思っています。
白雪は最勝の言葉を聞いた。聞きながら、今日の朝から積み上がっていた何かが、この言葉のあたりで少し揺れた。揺れた理由を確認しようとした。
最勝は白雪のことを大切に思っている。穏やかな声でそう言っている。嘘をついている様子がない。嘘をついているかどうか、白雪には判断できなかった。ただ、穏やかだった。善意があった。善意、という言葉を最勝の声に使えた。
善意がある相手が、怖い。
今の白雪に、その感触が初めて来た。なぜ怖いのかを考えた。考えたが、今はまだわからなかった。わからないまま、その感触がそこに確かにあった。
「白雪さん」と最勝は言った。「一つだけ、聞いてもいいですか」
「聞いていい」
「昨日、肩の内側が見えたと思います。見えましたか」
白雪は少し止まった。
止まった、ということを最勝は知っているだろうか。止まった自分の様子を、最勝は見ているだろうか。
「見えた」と白雪は言った。
「そうですか」最勝の声は変わらなかった。穏やかだった。「それについて、白雪さんに話したいことがあります。今日すぐでなくてもいいです。白雪さんが準備できたときに」
「準備、とはどういう意味か?」
「知ることへの準備、です」と最勝は言った。「知ることは、変わることです。変わることへの準備が、白雪さんにできたときに、話します」
知ることへの準備。
白雪は今朝水無月と話したことを思い出した。変わることが怖くて、それでも変わった。戻したい、という言葉は来なかった。準備ができているかどうか、白雪にはわからなかった。ただ、最勝が準備という言葉を使った意味を、白雪は少し、理解した気がした。
「今日ではない」と白雪は言った。
「はい」と最勝は言った。「急ぎません。白雪さんのペースで」
「初雪は、知っているか?」
一秒の沈黙があった。
一秒だった。わずかな沈黙だった。ただ、最勝がわずかでも沈黙した、ということが、白雪は初めてな気がした。最勝が沈黙するという事実は、今までにない。
「初雪さんは」と最勝は言った。「いろいろなことを知っています」
いろいろなことを知っています。
答えではなかった。答えの形をしていなかった。いろいろなことを知っています、という言葉は、知っているとも知っていないとも言っていなかった。
白雪は最勝の言葉を処理した。
「わかった」と白雪は言った。
「ありがとうございます、白雪さん」と最勝は言った。「また話しましょう。いつでも」
通信が切れた。
廊下に、白雪一人が残った。
最勝の声がなくなって、廊下の音だけが残った。遠くで整備の音がした。医療ロボットが動く音がした。基地の音が、最勝の声が消えた後に残った。
白雪は廊下に立ったまま、最勝との会話を整理した。
最勝は善意を持っている。穏やかだった。急いでいなかった。白雪のことを大切に思っている、と言った。知ることへの準備ができたときに話す、と言った。初雪はいろいろなことを知っている、と言った。
いろいろなことを知っている初雪が、今まで言わなかった。
言わなかった理由を、初雪はまだ言っていなかった。言うべきときに言う、と言っていた。水無月が安定したら、と言っていた。今朝、今夜ではない、と言っていた。
最勝も、準備ができたときに話す、と言っていた。
二つの沈黙が、同じ方向を向いていた。向いている先に何があるのか、白雪にはまだわからなかった。
ただ──二つが同じ方向を向いている、ということだけが、そこにあった。
* * *
昼過ぎに、初雪を探した。
整備区画にいた。外骨格の点検を自分でしていた。初雪は整備士に任せるより、自分で点検する方が多かった。左右対称に、順番通りに、丁寧に確認していた。
白雪が来たことに気づいて、手を止めた。
「最勝から通信があった」と白雪は言った。
初雪の手が、止まったまま動かなかった。止まったことを確認した。一秒、二秒、止まった。
「何を言った」と初雪は言った。
「知ることへの準備ができたときに話す、と言った。初雪はいろいろなことを知っている、とも言った」
初雪はしばらく黙った。整備の手を動かさなかった。外骨格の点検を止めたまま、白雪を見た。青い目が、朝の光の中にあった。
「最勝が先に話すつもりか」と初雪は言った。独り言に近かった。白雪に言っているのかどうか、曖昧な言い方だった。
「準備ができてから、と言っていた。急がないと言っていた」
「穏やかに言ったか」
「穏やかだった」
初雪が目を閉じた。閉じて、開いた。
「白雪」と初雪は言った。
「ああ」
「私が先に話す。今日、話す」
白雪は初雪を見た。初雪は白雪を見ていた。青い目だ。今日の目は、昨日の目と少し違った。何かが決まった目だった。
「今日?」と白雪は繰り返した。
「今日だ」と初雪は言った。「最勝に先を越される前に、私が話す。それが正しい順番だ」
正しい順番。初雪がその言葉を使った。最勝より先に、初雪が話す。それが正しい順番だと、初雪は判断した。なぜそれが正しいのかを、白雪は聞かなかった。聞かなかった理由は、聞く必要がないと思ったからだった。
今日、初雪が話す。
それだけが、今日の午後にあった。
「夜に話す」と初雪は言った。「今日の夜、三人で」
「水無月も?」
「水無月も知るべきだ」
白雪は頷かなかった。頷く代わりに、初雪を見た。初雪は点検を再開した。左右対称に、順番通りに、丁寧に確認していた。いつもと同じ動作だった。同じ動作の中に、強く決めた何かがあった。
「初雪」と白雪は言った。
「何だ」
「今まで言わなかった理由を、今日話すか」
初雪の手が、一瞬止まった。止まって、また動いた。
「話す」と初雪は言った。「全部、話す」
白雪はそれを聞いた。
全部を聞く夜が、今日来る。全部を聞いた後に何が残るのかを、白雪はまだ知らなかった。
知らないまま、整備区画を出た。
廊下を歩きながら、白雪は今日の夜のことを考えた。白雪は歩きながら夜を持っていた。持ちながら、水無月の処置室に向かった。
今日の夜が来る前に、水無月に会いたかった。
会いたい、という言葉を今日、白雪は自分に使った。使って、歩いた。
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【記録ログ 2147.04.23 22:17:09】
ES-01 現在状態:非出撃
本日の記録:最勝よりES-01への直接通信 実施済み
ES-02の行動記録:ES-01との接触あり 詳細不明
備考:ES-02の情報管理状況、依然として不透明。
ES-01・ES-02・ES-01改(水無月)の三機が、
本日夜間に同室で長時間滞在していることを確認。
会話内容:傍受不能。
ES-02が何らかの情報をES-01に開示した可能性:高。
最勝へ報告:対応の前倒しを検討。
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