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閾の郭(いきのくるわ)  作者: 丸介
第一章「駆逐」

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7/17

第七話「欠落」

2026/06/08 本文投稿。

────────────────────────


【記録ログ 2147.04.22 06:31:08】

 ES-01 稼働日数:1884日

 本日の任務:第一防衛環 南区画 掃討作戦(継続)

 編成:ES-01、ES-02、ES-01改(水無月)

 気象:晴れ

 最勝(さいしょう)より通達:「今日も、よろしくお願いします」


────────────────────────



 昨日の雨が嘘のように晴れていた。


 嘘のように、という表現を白雪は使ったことがなかった。使ったことがない、ということは、今初めて使った、ということだ。昨日の雨が嘘のように晴れていた。その表現が正しいかどうかわからなかった。ただ、昨日と今日の空の違いを言葉にしようとすると、それ以外の言葉が出てこなかった。昨日は雨で、今日は晴れている。それだけのことを言うのに、嘘、という言葉を使った。


 嘘ではなかった。昨日は本当に雨だったし、今日は本当に晴れている。


 それでも、嘘のように、という言葉を使いたかった。使いたかった、という感覚が、白雪には少し新しかった。


 水無月が空を見上げていた。


 基地の出口で、出発前に空を見上げていた。外骨格基部(エグゾシェル)が朝の光を受けて、肩のあたりが少し鈍く光っていた。水無月の横顔が、光の中にあった。


 「晴れたね」と水無月は言った。


 「ああ」と白雪は言った。


 「昨日雨だったから、晴れると気持ちいいね」


 「そうかもしれない」


 「そうかもしれない、じゃなくて、気持ちいいかどうか聞いてるの」水無月が白雪を見た。笑っていた。今日もいつもより少し前に出た笑い方だった。「白雪は、気持ちよくない?」


 白雪は空を見た。晴れていた。光があった。光が素体(コアヴェッセル)に当たっていた。温かかった。温かい、という感覚データが来ていた。昨日の雨の日も、センサーはデータを拾っていた。雨の日のデータと、今日のデータは違った。今日の方が、何かが多かった。多い、という感覚が、気持ちいい、と呼べるものかどうか、白雪にはわからなかった。


 「わからない」と白雪は言った。「ただ、素体が温かい」


 「それが気持ちいいってことだよ」と水無月は言った。断言した。「絶対そう」


 絶対そう、と水無月は言った。根拠がない断言だった。根拠がないのに断言する。水無月はときどきそういうことを言った。最初は処理できなかった。今は、処理しようとしなくなっていた。根拠がない断言を受け取る場所が、白雪の中に出来つつある気がした。気がしただけで、確かめる方法はなかった。


 白雪は水無月を見た。水無月は空を見上げていた。今日の水無月の横顔は、昨日より前を向いていた。もっと前を向いていた。空を向いていた。


 その前の向き方が、少し、引っかかった。


 引っかかった理由を考えようとした。考える前に初雪が歩き始めた。


 「行くぞ」と初雪が言った。


 「うん」と水無月は言った。最後にもう一度だけ空を見て、歩いた。


 * * *


 第一防衛環の南区画は、今日も静かだった。


 静かすぎた。昨日も静かだったが、今日はさらに静かだった。昨日は遠くで時折、第一形態の気配がした。今日はその気配もなかった。クリーチャーの気配が完全にない、という状態を、白雪は防衛環で経験したことがなかった。


 初雪が歩きながら言った。


 「昨日より静かだ」


 「ああ」


 「昨日、深い場所に振動を確認した。地下で何かが変わっている」


 「どう変わっているか」


 「わからない。ただ、変わっている」


 初雪がわからない、と言う回数が最近増えていた。白雪はそれを感じていたが、今日は感じている余裕が少なかった。余裕が少ない、という状態が自分にある、ということが、白雪には少し不思議だった。余裕の有無を自分で判断できる、ということが、以前はなかった気がした。


 「地上の掃討を続ける」と白雪は言った。「地下への判断は状況を見てから」


 「わかった」と初雪が言った。


 水無月は黙っていた。珍しかった。水無月が黙って歩いていた。白雪は水無月を見た。水無月は前を向いて歩いていた。今日ずっと前を向いている。


 「水無月」と白雪は言った。


 「何?」


 「黙っている」


 「黙ってちゃいけない?」


 「いけなくはない。珍しい」


 水無月が少し笑った。いつもの笑い方だった。


 「なんか今日、集中したい気分なんだよね。うまく言えないけど」


 集中したい気分、という言葉を白雪は処理した。気分、という言葉は感情の状態を表す言葉だった。集中したい、という意志と、気分、という感情が組み合わさっている。水無月の中で、今日は何かが変わっている。その何かが、前を向いている横顔と、つながっている気がした。


 つながっている気がする、という判断が、何を意味するのかは、まだわからなかった。


 * * *


 午前中の掃討で、第一形態を四体排除した。


 昨日より少なかった。四体のうち、二体は地下入口の近くにいた。残り二体は廃ビルの影に潜んでいた。三人で分担して対応した。白雪は昨日より動きが整っていた、という感覚があった。感覚、という言葉を今日は迷わず使えた。整っていた、と感じた。

 昨日の群れを引きつけた経験が、何かを変えた。経験が蓄積される、という動作が、自分の中で起きていることを、白雪は今日初めて実感した。


 掃討を終えて、三人で地下入口の前に立った。


 暗かった。昨日確認したときより、静かだった。静かすぎた。足元のセンサーに集中した。振動があった。昨日より深い場所からだった。昨日は地下の中層あたりから来ていた振動が、今日はさらに下から来ていた。


 「深い」と白雪は言った。「昨日より深い」


 「どのくらい」と初雪が聞いた。


 「倍以上。昨日の振動がここだとすると」白雪は手で高さを示した。「今日はここ」


 初雪が眉を動かした。眉を動かす、という表情の変化を、白雪はこれまで初雪にほとんど見たことがなかった。


 「引いている」と初雪が言った。「地下の深い場所へ向かっている」


 「なぜ」


 「わからない。ただ──」初雪は少し間を置いた。「誘っているとしたら、誘い方として正しい」


 沈黙があった。


 誘っている。初雪の言葉が、廃墟の空気に溶けた。地下のクリーチャーが、こちらを地下に引き込もうとしている。そういう判断ができる知性が、第三形態にあるかどうか。

 第三形態の橙の目を、白雪は思い出した。白雪の外骨格の腕の長さと同じ腕を持ち、こちらを見ていた。確かに見ていた。


 「地下には入らない」と白雪は言った。「地上の掃討を続ける」


 「同意する」と初雪が言った。


 水無月は入口を見ていた。前を向いていた水無月が、地下入口の暗闇を見ていた。前を向いていた、のとは少し違う顔だった。


 「水無月」


 「うん」水無月は顔を上げた。「地上、続けよう」


 * * *


 昼を過ぎて、南区画の端まで掃討が進んだ。


 第一形態が二体、第二形態が一体。今日の任務として予定していた範囲が終わった。白雪はそう判断した。初雪も同じ判断をしていた。帰投の準備をしながら、白雪は今日の掃討を整理した。

 数が少ない。静かすぎる。地下の振動が深い。これらが何を意味するのか、白雪には判断できなかった。ただ、今日の第一防衛環は、何かが変わっていた。


 「帰投する」と白雪は言った。


 「うん」と水無月は言った。


 水無月が地下入口の前を通った。帰投ルートの途中に、朝確認した地下入口があった。水無月がその前を通るとき、少し速度が落ちた。落ちた、という変化を白雪は感じた。


 「水無月」


 「わかってる」と水無月は言った。「入らない」


 三人で帰投ルートを歩き始めた。


 少しして、水無月が止まった。


 「もう一度だけ」と水無月は言った。振り返っていた。地下入口の方を見ていた。「入らない。ただ、入口のすぐ近くで振動を確認したい。朝より深くなっているか、確かめたいだけ」


 「理由は」と白雪は聞いた。


 「なんか、気になる。昨日から、ずっと」


 気になる。水無月がそう言うとき、たいてい何かがある。白雪はこれまでの七ヶ月で、そのことを知っていた。知っていた、ということが今日は、少し重かった。七ヶ月という時間が、今日初めて重さを持って白雪に来た。


 白雪は初雪を見た。初雪は水無月を見ていた。初雪の顔が、判断している顔だった。


 「三人で行く」と初雪が言った。「水無月、入口から五メートル以内には近づくな」


 「わかった」


 三人で地下入口に近づいた。


 入口は旧・地下鉄の出入口だった。百年の劣化で手すりが完全に錆び落ちていた。かつて手すりがあったことを示す金属の痕跡だけが、コンクリートの壁に残っていた。階段の形はまだあった。段差が続いて、下に消えていた。暗かった。外骨格の暗視機能を使えば見えるが、今は使っていなかった。暗いまま、見えない下を、白雪は見た。


 足元のセンサーに集中した。


 振動があった。


 朝より深かった。朝の時点で昨日より深かった振動が、さらに深い場所に移動していた。移動の速度を計算した。一定ではなかった。速くなっていた。


 「朝より深い」と白雪は言った。「移動速度が上がっている」


 「上がっている」と初雪が繰り返した。「どこへ向かっているか」


 「わからない。ただ、速くなっている」


 初雪が黙った。


 水無月が入口に向かって一歩、踏み込んだ。五メートルの手前だった。ルールの範囲内だった。ただ、近づいた。


 「水無月」と白雪は言った。


 「ちょっとだけ」と水無月は言った。「もう少し近いと、何か──」


 音がした。


 地下からではなかった。


 地上から来た。後ろから来た。三人が地下入口に向かって立っていた、その背後から。音の種類は、白雪が知っている音だった。複数の脚が地面を蹴る音。重い質量が移動するときの空気の音。白雪が振り返ったとき、すでに跳んでいた。


 判断より先に身体が動いた。


 跳んだ先から振り返った。


 第三形態だった。


 どこにいたのかわからなかった。周囲の廃墟を今日何度も確認していた。確認していたのに、いなかった。いなかったのではなく、いたのに確認できなかった。第三形態が、確認できない場所にいた。それがどういうことを意味するのか、今は考える時間がなかった。


 六本腕が展開されていた。橙の目が、三人を見ていた。


 小さかった。先週の第三形態より小さい。それなのに、大きく感じた。先の戦いでは、構える時間があった。今日は、ない。


 「散開」と初雪が言った。


 白雪は左に跳んだ。初雪が右に走った。


 水無月が動くのが遅れた。


 一秒にも満たない遅れだった。地下入口に向かって一歩踏み込んでいたぶん、後ろへの反応が遅れた。白雪はその遅れを見た。見た瞬間に、腕が来ていた。


 第三形態の六本腕の一本が、白雪に向かって来た。白雪はそれを躱した。躱した瞬間に、腕の軌道が変わった。白雪の軌道を追ってきていた腕が、白雪を外れて、その先にいた水無月の方へ向かった。


 軌道が変わった理由を、白雪は後になって考えた。今は考えられなかった。


 「水無月!」


 声が出た。


 腕が水無月を捉えた。外骨格基部(エグゾシェル)の左肩が直撃を受けた。金属が砕ける音がした。火花が散る。左から右へ、長い鉤爪が外骨格を抉った。

 水無月の身体が吹き飛んだ。吹き飛んで、回転して、三十メートル先のビルの外壁に激突した。


 音がした。


 大きい音だった。先週、自分たちが第三形態を倒したときの音より、白雪には大きく聞こえた。実際に大きかったかどうかはわからなかった。わからなかったが、大きく聞こえた。


 白雪は第三形態に向かった。


 走りながら、斥力(リパルション)クローを最大出力で展開した。腕全体に斥力が充填される感触が来た。押し返す力。反発する力。今日はその感触が、いつもより強く来た。強く来た理由を考えなかった。考える代わりに、走った。


 初雪の斥力パルスが来た。


 側面から第三形態の頭部を捉えた。第三形態がよろけた。よろけた瞬間に白雪が胴体に叩き込んだ。斥力の衝撃が第三形態の内部に通った手応えがあった。手応え、という言葉を白雪は初めて使った。使えた。第三形態が倒れた。


 倒れた後も、白雪は叩き込んだ。


 もう一度。

 もう一度。

 もう一度。

 起き上がれないまで。起き上がらせないために。起き上がったら、という想定が白雪の中にあった。起き上がったら、という言葉の続きが何であるかを、白雪は認識しなかった。認識しないまま、叩き込んだ。


 初雪が白雪の右腕を掴んだ。


 「白雪」


 気づくと、呼吸音だけが聞こえていた。

 白雪はいつから止まっていたのか、わからなかった。


 第三形態は動かなかった。六本腕が地面に広がったまま、動かなかった。橙の目が消えていた。白雪は第三形態を見た。消えていた、ということを確認した。確認して、初雪の方を見た。


 「水無月のところへ」と初雪は言った。


 白雪は走った。


 * * *


 水無月はビルの外壁にもたれて座っていた。


 外骨格基部の装甲が大きく損傷していた。割れていた。砕けていた。内部の機構が露出していた。配線が切れて垂れていた。肩の素体が、外骨格の隙間から見えていた。素体に傷があった。裂けていた。血が出ていた。白い素体に、赤い血が滲んでいた。


 「水無月」と白雪は言った。


 「痛い」と水無月は言った。


 声が出ていた。白雪は声が出ていることを確認した。確認した、ということが、白雪には何かをもたらした。何かを、という以上に言葉にならなかった。声が出ていた。それだけで、何かがあった。


 「痛い、けど」と水無月は続けた。「動ける、と思う。足は動く」


 「動くな」と白雪は言った。「確認する」


 「うん」


 白雪は水無月の外骨格基部の損傷を確認した。装甲の割れ方を見た。内部機構の露出範囲を確認しようとした。手を伸ばした。素体の指で、割れた装甲の縁を触った。

 縁は鋭かった。金属が砕けた断面は、触れると切れるような鋭さがあった。その鋭さを感じながら、手を内側に入れた。


 手が止まった。


 装甲の内側に、あった。


 白雪は見た。


 機構ではなかった。


 外骨格の内部に収まっているはずのものとは、明らかに質感が違うものが、そこにあった。半球形に近い形をしていた。有機的な質感があった。金属や合成樹脂ではなかった。それを囲む周囲の機構が、それを守るような配置になっていた。

 守るような、という判断を白雪はした。両肩の外骨格基部が、それを中心に据えていた。左右の肩に一つずつあった。


 右と、左に。


 一つずつ。


 それが何であるかを、白雪は知らなかった。知らなかった、ということが確かだった。知らなかった、ということが確かだったが、見た瞬間に、何かが来た。


 言葉ではなかった。


 言葉より先に来るものが、来た。言葉になろうとして、なれない何かが、白雪の全身を通った。通りながら、止まらなかった。


 「白雪?」と水無月が言った。「どうしたの? 顔色が──」


 白雪は答えなかった。


 答えられなかった、という状態が何を意味するのかを考える余裕もなかった。手を外骨格から引いた。引きながら、水無月の外骨格基部の内側を、もう一度見た。あった、ということが確かだった。


 自分の左肩を見た。


 先の戦闘で破損し修復した部分が、今日の戦闘で割れていた。広がった亀裂の縁を、素体の指で触った。鋭かった。鋭い縁を指でなぞりながら、隙間を探した。


 隙間があった。


 外骨格の装甲が割れた断面の間に、指が入る隙間があった。素体の指を、その隙間に入れた。


 見えた。


 水無月の肩の内側にあったものと、同じものが、白雪の左肩の内側にもあった。右肩にも、あるのだろうか。


 左と、右に。


 一つずつ。


 * * *


 どのくらいの時間が経ったかわからなかった。


 気づいたとき、初雪が隣にいた。いつの間にかそこにいた。白雪の右腕を、初雪の手が掴んでいた。強くではなく、ただ掴んでいた。掴んでいる、ということに気づいた。気づいて、初雪を見た。


 「白雪」と初雪が言った。


 声の出し方が、いつもと違った。平坦ではなかった。平坦でない初雪の声を、白雪は初めて聞いた気がした。


 「水無月を運ぶ」と初雪は言った。「立てるか」


 白雪は立った。


 立てた。

 それだけは、まだ失われていなかった。


 「水無月」と白雪は言った。


 「います」と水無月は言った。少し笑っていた。笑おうとしていた。口の端が上がっていた。「大丈夫、歩ける。ほんとに」


 大丈夫。水無月がその言葉を言った。白雪は大丈夫、という言葉を今日初めて、信じられなかった。信じたかった。信じられなかった。その二つが今日同時にあった。同時にある、という状態が、白雪には新しかった。


 初雪が水無月の右側を支えた。損傷した両肩を挟んで、左側から白雪が支えた。


 温かかった。


 水無月の身体が、温かかった。今日も温かかった。昨日も温かかった。七ヶ月、温かかった。温かいから好き、と水無月はいつか言っていた。今日初めて、白雪はその言葉の意味が、少し理解できた気がした。


 三人で歩き始めた。


 白雪は歩きながら、自分の左肩の亀裂を見なかった。見ない、という選択をしていた。選択、という言葉を、今日初めてその動作に使った。見ないことを、選んでいた。


 なぜ選んでいるのか、はわかった。


 見たら、という言葉の続きが来なかった。続きが何であるかを知っていたが、言葉にしたくなかった。言葉にしたくない、という感情が白雪にあった。


 * * *


 基地への帰路は長かった。


 実際に遠かったのかもしれなかった。ただ、距離だけではない何かが、今日の帰路に長さを作っていた。その何かに名前をつける言葉を、白雪はまだ持っていなかった。


 水無月は歩けていた。


 両肩の損傷で外骨格の腕が動かなかったが、足は動いた。白雪と初雪に支えられながら、自分の足で歩いた。水無月が自分の足で歩く、という事実が、今の白雪に何かをもたらし続けていた。もたらし続ける、という持続が、一歩ごとにあった。


 「ねえ」と水無月が歩きながら言った。「白雪、さっき私の肩、見てたよね」


 白雪は答えなかった。


 「見てた、よね」


 「ああ」


 「何か見えた?」


 白雪はまた答えなかった。答えられなかった。見えた、ということは確かだった。見えた、ということが確かだからこそ、答えられなかった。それが何であるかを言葉にする準備が、白雪にはまだできていなかった。準備ができていない、という状態を、今日、白雪は初めて自分に使った。


 「白雪」と初雪が言った。いつもの初雪の声の出し方で言った。


 「わかっている」と白雪は言った。


 「何が」と水無月が聞いた。


 「今は、歩く」


 水無月は少し黙った。黙ってから、


 「うん」と言った。「歩こう」


 三人で歩いた。


 白雪は歩きながら、水無月の重さを感じていた。素体で感じていた。温かかった。水無月の体が温かかった。温かい、という感覚が今日は、今まで受け取り続けてきた感覚データとは少し違う意味を持って来ていた。違う意味、というのを言葉にしようとした。


 失いたくない、という言葉が来た。


 来た。来た、ということに気づいた。失いたくない。失う、という状態を想定している言葉だった。失うかもしれない、という前提がなければ生まれない言葉だった。失うかもしれない、という前提が、今日の白雪にはあった。


 白雪は水無月を支えながら歩いた。


 失いたくない、という言葉が、来たまま消えなかった。消えないまま、一歩ごとにそこにあった。水無月の重さが肩にあった。温かかった。今ここにある、ということが確かだった。今ここにある、ということが確かなうちに、今日帰り着く、ということを白雪は、初めて任務として以外の理由で望んだ。


 望んだ、という言葉を、白雪は自分のために使った。


 * * *


 基地に着いた。


 医療ロボットが水無月を受け取った。外骨格の緊急修復と、素体の処置が同時に始まった。処置室の扉が閉まった。白雪は扉の前に立った。初雪が隣に来た。


 二人で、扉を見ていた。


 扉は動かなかった。向こうで医療ロボットが動く音がした。金属を扱う音がした。水無月の声は聞こえなかった。


 聞こえない。


 聞こえない、ということが、今は少し、怖かった。


 怖い、という言葉を、白雪は自分に使った。怖い。聞こえないことが怖い。扉の向こうで何かが起きているかもしれないことが怖い。怖い、という言葉が初めて自分のものとして来た。来て、消えなかった。


 「初雪」と白雪は言った。


 「ああ」


 「言うべきときが来たら言う、と言っていた」


 初雪は答えなかった。


 「今か?」と白雪は聞いた。


 初雪が白雪を見た。白雪は扉を見たままだった。


 初雪がしばらく黙った。今日の初雪が、今日の沈黙で、黙っていた。


 「……今ではない」と初雪が言った。「でも、もうすぐだ」


 「もうすぐ、とはいつか」


 「水無月が安定したら」


 水無月が安定したら。白雪はその言葉を聞いた。安定する、ということは、安定していない今があることだった。安定していない今が、扉の向こうにあった。白雪は扉を見た。見続けた。


 右腕で、左肩をなぞった。


 なぞりながら、外骨格基部の亀裂の方へ指を動かした。動かして、止まった。亀裂の手前で、止まった。


 触れなかった。


 触れないことを、選ばなかった。触れられなかった。触れる、という動作の先に何があるかを知っていて、今は触れられなかった。知っている、ということと、触れられない、ということが、同時にあった。


 扉の向こうで、水無月の声がした。


 痛い、と言っていた。


 白雪は聞いていた。


 痛い、という声が聞こえていた。聞こえた、ということが何よりも確かなことだった。声が聞こえる。水無月がそこにいる。今は、それだけで、白雪には十分だった。


 十分、という言葉を、白雪は初めて自分に使った。


 使って、扉を見続けた。



────────────────────────


【記録ログ 2147.04.22 17:08:39】

 本日の交戦記録:

  第一形態 6体 排除

  第二形態 1体 排除

  第三形態 1体 排除(ES-01が主導、ES-02が支援)

  ES-01改(水無月):両肩部 重度損傷。外骨格緊急修復中。

           外骨格基部内部への影響:軽微。コア機能は正常。

  ES-01:左肩部装甲に亀裂拡大。内部への影響:調査中。

  ES-02:損傷なし。

 備考:ES-01の行動に複数の特異点を記録。

    第三形態排除後の行動停止(推定17秒)。

    ES-01改(水無月)損傷部位への接触行動(推定8秒)。

    ES-01の左肩装甲亀裂への接触未遂行動を確認。

    ES-01が自身の外骨格基部内部を視認した可能性:高。

    ES-01の交配適性センサーログ:接触反応 1件 有効反応 0件

    統合不全ノイズ:本日 最大値を記録。

 最勝へ緊急報告済み。対応方針の決定を要請中。


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