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閾の郭(いきのくるわ)  作者: 丸介
第一章「駆逐」

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17/17

第十七話「白雪」

2026/06/19 本文投稿。

────────────────────────


【記録ログ 2147.05.23 06:01:44】

 ES-01 稼働日数:1915日

 本日の任務:登録なし

 備考:ES-01・ES-02の現在位置、依然として特定不能。

    最勝(さいしょう)より継続的な呼びかけを実施。応答なし。

    最勝コメント:「白雪さん。今日も待っています」


────────────────────────



 変異種を倒した翌日は、静かだった。


 静かさの質が、これまでと違った。戦闘が終わった後の静かさだった。何かが終わった、という静かさだった。

 終わった何かの名前を、白雪は今日まだ確認していなかった。確認しなくても、静かさは静かさとしてそこにあった。


 拠点の二階に全員が集まっていた。


 昨日と同じ顔ぶれだった。ただ、昨日とは空気が違った。昨日は変異種が近くにいた。今日はいない。変異種がいない、という事実が、今の空気を作っていた。


 白雪は二階の窓から外を見た。


 廃ビルが並んでいた。昨日変異種が倒れた路地が、今日は空だった。白い皮膚はもうそこになかった。ただの路地だった。変異種がいた場所が、今日はただの路地だった。


 水無月が白雪の隣に来た。


 「どこ見てた」と水無月は言った。


 「昨日の路地を見ていた」


 「何か残ってた?」


 「ない。ただの路地だった」


 「そっか」水無月は窓の外を見た。白雪と並んで、同じ路地を見た。「ただの路地だ」


 二人で少しの間、ただの路地を見た。


 * * *


 昼前に、深雪が白雪を呼んだ。


 一階の隅、普段メカニックが作業している場所に近い場所だった。深雪と白雪、二人だった。


 「話がある」と深雪は言った。


 「聞く」


 「お前たちは、今日か明日には動いた方がいい」


 白雪は深雪を見た。


 「最勝の索敵が、ここまで来つつある」と深雪は言った。「昨日の戦闘を、最勝は把握している。ES-01の改強襲型への改造も、ログから読んでいるはずだ。お前たちの居場所を探している。時間はあまりない」


 「深雪はどうする」


 「ここに残る」と深雪は言った。間を置かなかった。「これは前から決めていたことだ。私はここを動かない。ここで生きる。それが私の戦い方だ」


 「そうか」


 「お前たちが出ていく先は、防衛環の外だ。外の地図がある。商人が使うルートを写したものだ。詳細ではないが、ないよりはいい」


 深雪が地図を渡した。白雪は受け取った。薄い紙だった。折れ目が何本もついた、長い時間使われてきた紙だった。


 「ありがとう」と白雪は言った。


 深雪が白雪を見た。


 「礼はいらない」と深雪は言った。「お前たちが出ていくことが、私にとっても何かを意味している。そのために渡す」


 「何を意味しているのか?」


 「まだわからない」深雪は言った。「疑い続けることが私の戦い方だった、と言った。お前たちが外に出ることで、私が長年疑ってきたことの答えが、外から来るかもしれない。それを待つ」


 白雪は深雪を見た。深雪は白雪を見ていた。長い時間を生きてきた顔だった。疑い続けてきた顔だった。答えを持たないまま、持ち続けてきた顔だった。


 「深雪」と白雪は言った。


 「何だ」


 「お前に会えてよかった」


 深雪が少し間を置いた。


 「そうか」と深雪は言った。感情を入れずに言った。ただ、今日の深雪の「そうか」は、今までの「そうか」と少し違った。違い方を言葉にするのが難しかった。ただ、違った。


 再会の可能性が、確かにあった。言葉には出なかったが、二人の間にあった。


 * * *


 昼食を食べた。


 この場所で全員と食べる昼食は、最後になるかもしれなかった。最後、という言葉を白雪は今日使った。以前の白雪は、最後、という言葉の感触を持っていなかった。今日は持てた。


 全員が食べた。話す者もいた。今日は楓がよく話した。水無月に話しかけた。水無月が答えた。二人が話した。その音が今日の拠点の昼食にあった。


 槇が白雪の隣に来た。


 「特殊弾頭が残っている」と槇は言った。「二発だ。持っていけ」


 「いいか」


 「持っていけ、と言っている」槇は言った。感情を入れずに言った。「私たちは通常弾頭でやっていける。お前たちは防衛環の外に出る。外の方が必要になる」


 「わかった」


 「使い方は知っているな」


 「槇に教わった」


 槇は頷いた。特殊弾頭を渡した。白雪は受け取った。


 「槇」と白雪は言った。


 「何だ」


 「冷静に受け止めることで失ったものが、槇にはあるかもしれない、と言っていた」


 槇が白雪を見た。


 「ああ」


 「私には、まだわからないことが多い。外に出て、わかることがあるかもしれない。わかったとき、それが槇の言っていたことに繋がるかもしれない」


 槇は少し間を置いた。


 「繋がるかどうかは、わからない」と槇は言った。「ただ、お前が出ていくことを、私は悪いと思っていない」


 白雪はその言葉を受け取った。槇から、感情を入れずに言われた言葉だった。感情が入っていないのに、届いた。届いた、という感触が今日の白雪にあった。


 (かや)が白雪に近づいた。


 「外縁部から防衛環を抜けるルートがある」と榧は言った。「深雪から地図は受け取ったか?」


 「ああ」


 「地図の赤い線がそのルートだ。夜に動け。最勝の索敵ロボットは、夜に精度が落ちる」


 「わかった」


 「クリーチャーとの遭遇は昼より多くなる」榧は続けた。「ただ、クリーチャーは思っているより賢い。突発的に動かなければ、すれ違える場合がある」


 「すれ違える?」


 「全部が敵ではない。外に出ればわかる」榧は白雪を見た。「覚えておけ」


 「わかった」


 楓が白雪の前に来た。


 「白雪」と楓は言った。


 「何だ」


 「外、どんなとこだと思う?」


 白雪は少し考えた。


 「わからない」と白雪は言った。


 「だよな」楓は言った。「私も行ったことない。榧に聞いても、全部は教えてくれないし」


 「お前も行くか?」と白雪は聞いた。


 「いつか」楓は言った。「今は深雪のところにいる。でも、いつか」


 「そのとき、また会うかもしれない」


 「会うかもな」楓は言った。「そうなったらよろしく」


 「ああ──その時は、よろ……しく」と白雪は言った。

 白雪はよろしく、という言葉を初めて使えた。


 * * *


 夕方になった。


 日が傾いていた。出発は夜だった。夜まで、拠点にいた。


 白雪は三階に上がった。旧い端末のある部屋だった。窓から、南の方角を見た。防衛環の外が、夕方の光の中にあった。変異種が倒れた路地ではなく、その先の、防衛環の向こうを見た。


 初雪が部屋に入ってきた。


 白雪の隣に来た。二人で窓を見た。


 「初雪」と白雪は言った。


 「何だ」


 「なぜ一緒に来る?」


 初雪が白雪を見た。


 「何を聞いている」


 「初雪は成功個体だ。最勝の管理の中にいることができた。それでも来る。なぜか」


 初雪は少し間を置いた。


 「前に言った」と初雪は言った。「わからない、と」


 「ああ。今は?」


 「まだ、わからない」初雪は言った。「ただ、白雪が行くなら、私も行く。それだけは確かだ」


 「それだけでいいのか?」


 「今日は、それだけで十分だ」


 白雪は初雪を見た。初雪は窓の外を見ていた。青い目が、夕方の光を受けていた。


 「初雪」


 「何だ」


 「今夜から、わからないことが増える」


 「ああ」


 「わからないことが増えることを、今の私は怖いと思っていない」


 「そうか」初雪は言った。「それは、いいことだと思う」


 二人で窓の外を見た。


 防衛環の外が、夕方の光の中にあった。どこまで続いているのかわからない廃墟があった。その先に何があるのかを、白雪は知らなかった。知らないまま、見ていた。


 肩の外骨格の表面を、初雪が指でなぞっていた。左右対称に、同じ回数。いつもの初雪の癖だった。今日もその癖が出ていた。


 白雪は左肩をなぞった。温かかった。今日も温かかった。


 * * *


 夜になった。


 出発の前に、水無月が白雪を探した。


 二階の隅に、二人でいた。他の全員は一階にいた。二人だけが二階にいた。


 水無月は白雪を見た。白雪は水無月を見た。


 「ここに残る」と水無月は言った。


 白雪は水無月を見たままだった。


 「深雪に世話になる。しばらく、ここにいる」水無月は続けた。「白雪の中にエンジンがある。私はそこにいる。それで十分」


 「十分か」と白雪は言った。


 「十分」水無月は言った。「前にも言った。一度言ったことは本当のこと」


 白雪は水無月を見た。


 水無月の背部にエンジンがなかった。白雪の背部に二基のエンジンがあった。水無月のエンジンが、白雪の中で動いていた。白雪が動くたびに、水無月もそこで動いていた。


 「水無月」と白雪は言った。


 「何?」


 言葉を探した。使えるかどうかを確認した。


 「七ヶ月、隣にいてくれた」と白雪は言った。「ありがとう」


 水無月が白雪を見た。何かが揺れる目だった。


 「なんか、白雪が言うとちゃんと届くね」と水無月は言った。


 「そうか」


 「そう。なんでだろう」


 「わからない」


 「わからないか」水無月は笑った。いつもの笑い方だった。「白雪らしい」


 笑い終わって、水無月は白雪を見た。真剣な目になった。今までにない、真剣な目が来た。


 「白雪」と水無月は言った。


 「何だ」


 「帰ってきてよ」


 白雪は水無月を見た。


 水無月は言っていた。今日も帰ってきたね。

 白雪は答えなかった。

 水無月は言っていた。明日も帰ってきてよ。

 水無月が止まった。段階の最後が、あった。


 「ああ」と白雪は言った。


 答えた。


 答えられた。ああ、という言葉が自然と出た。今までは出なかった言葉が、今やっと出た。


 水無月が白雪の左肩に触れた。最後に触れた。温かかった。白雪のセンサーが、水無月の温かさを拾った。


 白雪は水無月の手に、右手を重ねた。

 ただ、重ねた。重ねた、という事実があった。

 水無月が白雪を見た。白雪が水無月を見た。


 しばらく、そのままでいた。


 * * *


 出発は深夜だった。


 深雪と榧と槇と楓が、一階の入口まで来た。メカニックとドクターと名前のない二人も来た。全員が来た。


 白雪は全員を見た。


 全員が白雪を見た。


 「行ってくる」と白雪は言った。


 深雪が頷いた。槇が頷いた。榧が頷いた。楓が小さく手を上げた。メカニックが頷いた。全員が何かを返した。


 白雪は扉を出た。


 初雪が隣を歩いた。夜の廃墟に出た。星が近かった。以前、初雪と並んで見た星だった。同じ星かどうかはわからなかった。同じ空だった。


 拠点の入口に、水無月が立っていた。


 最後まで、立っていた。白雪と初雪が歩き始めるのを、立って見ていた。


 白雪は振り返らなかった。


 振り返りたかった。

 振り返らなかった。

 振り返らないことを選んだ。

 選んだ理由は、振り返ったら歩けなくなるかもしれないから、だった。歩けなくなることを、白雪は選ばなかった。


 歩いた。


 初雪と二人で歩いた。


 深雪からもらった地図の赤い線を辿った。夜の廃墟を歩いた。

 クリーチャーの気配があった。榧が言っていた。突発的に動かなければ、すれ違える場合がある。白雪は立ち止まらなかった。歩き続けた。


 気配が遠くなった。


 近づかなかった。すれ違えた。


 防衛環の端に来た。


 防衛環の構造物があった。前文明期に設置された、旧東京を囲む防衛ラインの痕跡だった。隙間があった。榧が地図に書いておいた隙間だった。白雪は隙間に近づいた。


 最勝の声が来た。


 個別通信だった。白雪だけに来た。


 「白雪さん」と最勝は言った。穏やかだった。今日も穏やかだった。「行くのですか」


 「ああ」と白雪は言った。


 「どこへ」


 「わからない」


 「わからないところへ行くのですか」


 「そうだ」


 最勝が少し間を置いた。最勝が間を置いた。これまで最勝が間を置いたことは少なかった。


 「白雪さん」と最勝は続けた。「私はいつでもここにいます。戻ってきたくなったら、戻ってきていいです。待っています」


 「ありがとう」と白雪は言った。


 ありがとう、という言葉を今日三回使えた。水無月に。槇に。最勝に。使えた、という事実があった。


 「白雪さん」最勝の声が続いた。穏やかだった。「あなたのことを、いつも大切に思っています。それだけは、本当のことです」


 白雪は最勝の声を聞いた。


 白雪には、嘘には聞こえなかった。

 最勝の言葉は、本当のことだった。愛情があった。待つことができた。穏やかだった。全部、本当のことだった。


 ただ、白雪は外へ出た。


 本当のことと、白雪が選ぶことは、別のことだった。本当のことが、全ての理由になるわけではなかった。本当のことを受け取りながら、白雪は隙間を通った。


 防衛環の外側に出た。


 最勝の声が、途切れた。


 外だった。


 防衛環の外は、防衛環の内側と似ていた。

 廃墟が続いていた。

 建物が並んでいた。

 月の光が廃ビルを照らしていた。

 ただ、空気が違った。管理されていない空気だった。誰も見ていない空気だった。


 初雪が隣に来た。


 「出た」と初雪は言った。


 「ああ」と白雪は言った。


 二人で少し立っていた。


 白雪は外の空気を感じた。センサーが拾った温度が、防衛環の内側と少し違った。外の空気の温度だった。誰も管理していない温度だった。


 背部の二基のエンジンが動いていた。水無月がそこにいた。


 白雪は歩き始めた。


 どこへ向かうのかを、白雪は知らなかった。地図に赤い線があった。線の先に何があるかは、地図には書いていなかった。書いていないものを確認する方法は、行くことだけだった。


 初雪が隣を歩いていた。いつもの間隔だった。外に出ても、間隔は変わらなかった。


 遠くで、何かが動いた。


 クリーチャーだった。


 白雪は止まらなかった。


 白雪は歩いた。


 どこへ向かうのか、まだわからなかった。


 わからない、ということが、今日は少しだけ、怖くなかった。



────────────────────────


【記録ログ 2147.05.23 ――:――:――】

 ES-01 現在位置:不明

 AIとの接続:途絶

 交配適性センサーログ:[受信不可]

 備考:――


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