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chapter-12

 12


「確実に罠でしょうね」

 折り目正しくメイド服を身に付けた女性が、そう言った。

 テーブルを挟んで向かい合っていた少年――弧山智仁が唸りをあげる。

 その頬には大きな絆創膏が貼られていた。

「だとしても、奴とケリをつけなきゃならない」

「あなたに伝えるべきではありませんでした」

「焚き付けたのは、キャスだろ」

「謝罪します。その上で言わせてもらうなら、我々は掌の上です」

 さっぱりと整えられたリビングに、重苦しい空気が漂う。

 テーブルの上には一枚の封筒があり、そこには血の染みが付着していた。

「懇意に使っている情報屋が死に、懐にはこれ。向こうは情報を渡してもよいと考えているようですから」

「廃工場を強襲した時もそうだった。今回も連中の慢心を突けるかもしれない」

「あの時は我が儘を聞きました。今回はひとりで行かせませんよ」

 メイド服の女性――キャスの表情は変わらない。無表情のままだ。

 智仁は眼をそらす。

「重武装するし、計画も立てる。もうルーキーじゃない」

「敵の戦力を正確に分析できないようでは、ルーキー以下です」

「もう少しなんだ!」

 智仁が声を荒げる。

「確かに……最初は怯えてた。俺にはできない、と思ってた」

 拳を握りしめる。キャスの冷たい美貌がふっと揺れる。

「だが、今は違う。大切なものができた。覚悟を決められたんだ」

「では尚更、無事に帰ることを考えるべきでは?」

「キャス。タイクーンは俺が殺さないといけないんだよ。じゃないと、いつまでたっても俺は――」

 最後で言葉を濁す。無謀なことはよく理解していた。

 冷静にならなくてはいけないことも。

 だが、日常の象徴ともいえる学校生活が汚され、智仁はなにを考えてよいか分からなかった。

 愛を獲得し、将人の狂気に触れ、混沌の渦に巻き込まれる。

 タイクーンさえ倒せば、一区切りがつく筈だった。

 将人との関係だって、修復することができるかもしれない。

「……あなたの決意はよく理解できました」

 眼前の女性がため息を付く。

「しかし、チームで動くことだけは譲れません。これが想定であり、成功する唯一の道筋です」

「ああ、そうだろうさ。分かってる、分かってるんだ……」

「精神が不安定になっているようですね。何か有りましたか?」

 キャスがこちらに視線をやる。まるで胸中まで見透かされているようだった。

 智仁は口をもごもごとさせると、言葉を呑み込む。

「いや、なんでもないよ」

「あなたは自分の内に溜め込む癖がありますからね」

 ゆっくりとかぶりを振り、まるで出来の悪い息子を見るかのように眉を下げた。

「俺は大丈夫だ。誓ってもいい。いけるよ、ほんとに」

「なにを言っても無駄でしょうが、いいですか。迷いがあってもビズに持ち込まないことです」

「耳にタコができるくらい、聞かされてるさ」

 正論を受け止める元気がなく、聞き流すふりをする。

 キャスはもう一度、なにか言おうとして諦めたらしく、眼を閉じた。

「都市外郭部にある閉鎖されたショッピングモールです。決行時間は深夜。仲間を集めておきます」

「報酬は山分け?」

「どうあってもひとりでは行かせませんよ。シェンクにも頼んでおきますから」

 彼女が続ける。

「……発信器を持っていきなさい。念のためです」

 智仁は眼をぱちくりとさせ、肩を竦める。

「じゃあ準備しておくよ」

 キャスが椅子から立ち上がり、こちらを心配げに見つめたあと、玄関へと赴く。

 彼女を見送ると、智仁はまたテーブルへ座り、十分ほど考えた。

「意固地になりすぎてるよな」

 自分を省みようとした矢先、懐に入れていたスマートフォンが振動する。

「だれだ?」

 画面に視線をやった。登録名は月倉礼佳となっている。

 頬が緩むのを感じて、慌てて元に戻した。これから仕事なのだ。

 通話ボタンをタッチする。

『……智仁?』

『ん、俺だよ。今日はどうしたの?』

『よかった……! ライサちゃんから聞いて、本当に心配したんだから』

『あー、ライサから? いったい何のこと――』

『喧嘩したんでしょ。だれかと』

 スッと息を吸い込む。答えづらい話だった。

 なぜライサがこの話を知っているのか智仁には分からないが、今は重要ではない。

『……ああ、うん。一応』

『一応? 怪我とかだいじょうぶ? 電話越しじゃ色が見えないから』

『あはは。大したもんじゃないって。おふざけだよ、おふざけ』

『で、でもライサちゃんは』

『ライサがなにを言ったかは知らないけど、本当に怪我はしてないよ』

 ともかくは誤魔化す。重い傷ではないし、下手な心配もかけたくなかった、

『……嘘はつかないでね。本当に心配してるんだよ』

『安心して。大丈夫だから。ライサが近くにいるの?』

『ええっと、うん。今、私の家に来てもらってるの。楽しいよ』

『そっか。ライサと――』

 変わってもらおうとして、智仁はかぶりを振る。

 ここで追求したところで時間の無駄だ。仕事の準備もあるし、余計な邪念は背負い込むべきではない。

『いや、また明日学校で』

『あ、うん。あまり無理はしないでね。安静にね』

『ありがとう』

 幾つか言葉を交わし、通話を切る。

 本当はもっと長く話をしていたかったが、止めておいた。

 集中しなくてはいけないことが多すぎる。

「やるしかない」

 チームだろうが、なんだろうが、相手の陣地に踏み込むことだけは間違いない。

 たとえ罠だとしても、敵がいるならやることはひとつだ。

 攻撃して、倒す。ただそれだけのこと。

「やっと決着をつけられる」

 脳裏に黒衣を身にまとった女の姿が浮かぶ。

 父親を殺されて以来、ずっとあのダスクが遺したものに人生を左右されてきた。

 最初は怯えていた。勝てるわけがないと思った。

 だが、いろんな言葉に助けられた今は、戦わなくてはならないとすら思う。

「俺は勝つ。勝って……全てを正常に戻す」

 それが唯一の願いだった。


 * *


 時刻は深夜。しんと静まり返った駐車場に、数台の乗用車が停まっている。

 やがて車のドアが開いて、数人の男女が降りてきた。

 その中には智仁の姿もある。

「ユザワ。MINIMIは持ってきたか?」

 大柄な黒人――シェンクが眼鏡をかけた男に声をかける。

 眼鏡の男は微笑すると、後部座席から軽機関銃を引っ張り出した。

「乗せてきた。もとはアフガンで使われたやつで、状態は悪くない」

「よし。 ユーチェン、調子はどうだ?」

 アサルトベストを身に付けた中国人の女性が、気怠げに答えを返す。

 スライド式の散弾銃を掴んでいた。

「……いけるわ」

「トモヒトは――」

「準備は整ってるよ、シェンク」

 智仁はアサルトライフルのボルトを掴むと、チャンバー内を確かめる。

 駐車場から少し離れた位置にモールはあった。

 かつては人で賑わったであろうこの場所も、今は暗闇に包まれている。

 その巨体のどこかにタイクーンが潜んでいるのだと考えると、まるで観察されているかのような錯覚を覚える。

「ユーチェンは先頭に。俺は二番目。ユザワは俺の後ろだ。殿は……トモヒト、頼めるか」

「任せてくれ」

 それぞれが首肯する。

 シェンクはそれを確認すると、あたりを一度見渡す。

「いいか。おそらく連中はこちらを待ち受けてる。激しい戦いになるぞ」

「……タイクーンがいるんでしょ」

「ははあ、そりゃ腕が鳴るね。懸賞金も相当だ」

 眼鏡の男性、ユザワが朗らかに言う。

「なあに、いつも通りやればいい。落ち着いて、連携し合い、ダスクに銃弾を叩き込む。それだけだ」

 シェンクが笑うと、智仁のほうに視線をやる。

「メイドも参加してくれればよかったんだがな」

「市の反対側で新人チームが手こずってるらしい。そっちの援護に行った」

「意外だな。お前を優先すると思ってたが」

「……キャスリン・ペインも遂に子離れしたのかしらね」

 チームの言葉に苦笑しながら、智仁は口を開く。

「有能な人間を付けてくれたから、心配いらないって答えたんだ」

「それは嬉しいね。書面にしなくてよかったのかい?」

 ユザワが微笑み、シェンクが肩を竦める。

「そーら、若造。これが大人の世界だ。怖くなってきたか」

「もう行こう。ユーチェンがイライラしてる」

「……茶番も悪くないけど、現ナマのほうが好きでしょ」

「違いねえ」

 シェンクが豪快な笑みを見せる。

 かれは大口径アサルトライフルを構えると、チームに指示を下した。

「作戦開始だ。入り口まで縦隊で向かうぞ」


 * *


 幾つものマズルフラッシュが瞬く。

 銃声が廃墟となったモール内に反響し、薄汚れた内装を銃火が照らす。

 四人を天井から襲おうとした虫型のダスクが、その胴体を穴だらけにされる。

 ぼとりと地面へ落ちれば、それはすぐに灰の山となった。

「これで十六匹」

 大口径ライフルを肩付けしながら、シェンクが言う。

「まだ来るぞ。二時方向!」

 ユザワの声が鋭く発せられる。

 ライオンのような身体をしたダスクが隊形へと飛び込んできた。

 ユーチェンが横に跳び、すれ違いざまにショットガンを撃つ。

 ダスクがよろめいたところを、ユザワのSAWが怒濤の勢いをもって消滅させていく。

「六時」

 背後から二匹のダスクが忍び寄る。

 それを察知した智仁が、すぐにアサルトライフルの銃口を向け、引き金をひいた。

 高速飛来したライフル弾がダスクの顔面を射貫き、無数の穴を作る。

 崩れ落ちた相方を気にするさえなく、もう一匹のダスクが灰の山を越えて向かってきた。

「肩、借りるぞ」

 突然、肩に重い感触がかかり、同時に耳元で轟音が発生した。

 射撃用に開発された耳栓を詰め込んでおいても、その音は凄まじい。

 大口径ライフルが数射される。噛み付こうとしてきたダスクが後ろへ吹き飛び、動かなくなった。

 智仁の鼻は、濃い硝煙の匂いを感じ取る。

「クリア!」

「こっちもクリアだ。残敵はいない」

 戦闘態勢が解かれる。ナイトビジョン越しに見る景色は、お世辞にも良いとは言えない。

 非常口を見つけて、ユザワが言った。

「数が多い。誰かが残って、退路を確保したほうがいいと思う」

「……分散するのは愚策だと思うけど」

「逃げるときは、だれかに準備しておいてもらいたいけどねえ」

 ユザワが苦笑する。

「ユーチェンはポイントマンだ。ユザワのSAWを捨てるって判断はないな」

「俺に待て、と?」

 理屈は分かっていた。だがここだけは譲れない。

 声に険悪なものが混じる。シェンクがため息をついて言う。

「いいか。お前がやつを片付けたい気持ちは分かる。だが、俺たちはチームだ」

 肩に手を置き、語りかける。

「ひとりの欲よりも、チーム全体のことを優先させなきゃならん」

「このビズに参加したのは、別に報酬をもらうためじゃない。やつを殺すためなんだ」

「一時的な話だ。つぎのポイントを見つければ、そこで合流すればいい」

「その間にタイクーンを見つけようって腹だろ?」

「いい加減にしろ!」

 シェンクの声が荒立つ。ナイトビジョンをあげると、かれは眉をひそめた。

「どうしたんだ? お前はプロだろうが。素人のような真似はするんじゃない!」

「好きでこうしてるわけじゃないさ」

 自然と歯軋りしてしまう。もし、この三人がタイクーンを先に仕留めてしまったら?

 そのとき、自身がどういう行動に出るかは分からなかった。

「約束する。お前なしで襲撃をかけたりはしない。なあ、信じろ。若造」

 埒が明かないとみて、なだめるような口調に変わる。早めに終わらせたいようだった。

 仲違いの最中に逆襲を受けたくないのは、智仁にもよく理解できる。

 自身の衝動を必死に抑え付けて、渋々と答えを返す。

「分かった。退路を確保する」

「よし。俺たちはチームだ。余計なゴタゴタはこれっきりにしよう」

 シェンクがそう言い切り、智仁の耳に口を寄せる。

「――大丈夫だ。お前なしで始めたりせんさ」

 身体が離れ、シェンクが親指を立てる。智仁は皮肉っぽい笑みを浮かべた。

 向こうから襲ってきたら、抵抗しないつもりなのか、と言いたかった。

 だが、だれかが退路を確保しなくてはならないのも確かだ。

 口惜しくてたまらないが、智仁がこの役目を果たさなくてはならない。

 シェンクがナイトビジョンを下ろした。

「隊形を維持しろ! 前進する」

 三人は油断なく銃を構えたまま、崩れた内装の中を進んでいく。

 今や永遠の空き店舗となった空間が両脇に立ち並び、やがて三人は通路の闇に消えていった。

 周囲が静まりかえる。沈黙だけが訪れた。

 智仁は非常口付近へと陣取ると、携帯無線機の音に耳を澄ませる。

 ひとりでいるのは不安だった。特に、こんな闇の中では恐怖すら感じることがある。

 だが、一番の心配事はタイクーンのことだ。

 敗北する予想などはしていない。あるのは勝つ予想だけだ。

 戦場では悲観的な人間が死を呼び込む。

 だからあの三人がタイクーンを殺し、自分のもとへ帰ってくることがなによりも怖いのだ。

「約束は守れよ、シェンク」


 * *


 闇に一切の変化が訪れることなく、ただ時間だけが経過する。

 時折、遠くから遠雷のような銃声が聞こえてきた。

 うまく進んでいるのだろう。無線機で交信を行いたかったが、急かしているようで躊躇われる。

 ライフルの照準だけは、周囲に向けていた。いつなにが起きてもいいように。

『こちらシェンク……聞こえるか?』

 無線機から声が届く。智仁はハッと気が付いて、すぐに交信した。

『ああ、聞こえる。そっちは順調か?』

『散発的に襲ってきてるが、全て撃退してる。もう少しで辺りを確保できそうだ』

『このままだと、俺は置物になりそうなんだけどな』

『オーケイ、オーケイ。こっちで非常口を見つけた。一階の中央ホールだ。そこで合流――』

 一瞬、無線機の交信が途絶える。智仁は顔をしかめた。

『どうした?』

 返信の代わりに、銃声と罵声が飛び込んでくる。

『クソッ! こいつ突然現れやがった。儀礼弾が効いてない――』

『おい、シェンク!』

 怖気をふるうような男の断末魔が聞こえる。あれはユザワの声だ、と智仁は理解できた。

 顔から血の気が引いていく。

『逃げろ、ユーチェン! ……』

 女性の助けを求める声。それが唐突に途切れ、シェンクの怒声に取って代わる。

 智仁は状況を理解できず、ただ無線機のスイッチを押し続けるのみ。

『トモヒト! 急いで退却しろ! こいつはヤバい――』

 それからなにも聞こえなくなる。

 声ひとつ出せず、ただ呆然と智仁は佇んでいた。

 十数秒経過してから、やっと無線機のスイッチから指を離す。

「落ち着け……」

 心臓が跳ね上がっている。智仁は考える。

 シェンクは疑いなくダスクと遭遇したとみてよい筈だ。

 それも今まで倒してきたようなものではなくて、天然物のダスクだろう。

 だが、あの三人はそういったダスクの処理もよく心得ている。

 かれらはベテランで、優れたスイーパーだった。

 その三人が一気にやられてしまったとすれば、それは相応の力をもった――。

「タイクーン」

 言葉が漏れる。自身の手足が震えていた。

 それが興奮のせいなのか、恐怖のせいなのか、智仁にはよく分からない。

 大切なのは、そこにタイクーンがいるのかもしれないという事実だ。

 シェンクは撤退しろ、と言っていた。賢明な判断だ。

 智仁もそれなりの経験は積んできたと思っているが、あの三人がやられたならば、自分が勝てる道理はない。

 すぐ近くに非常口もある。舌を噛んだ。

「逃げる?」

 かぶりを振る。智仁は苦笑していた。そんなことができたなら、このビズに参加していない。

 まだ生きている仲間がいるかもしれず、自分が行けば助けられる可能性もある。

 たとえ死んでいようが、その遺体だけは渡したくなかった。

 そしてなによりも。

「俺が、あいつを殺したい」

 その一念が、恐怖と怯えを押さえつけている。

 記憶の迷宮に閉じ込められた過去が疼きまわって、復讐しろと囁きかけた。

 父親を目の前で壊された恨みを今ここで果たすのだ、と。

 ライフルを強く握る。ナイトビジョン越しの視界に、ホールまで続く通路が見えた。

 三人はあそこから帰ってこなかった。もしかしたら自分もそうなるやもしれない。

「それがなんだってんだ」

 泡立つマグマのような怒りが身を焦がす。

 やっと対峙できるのだ。自分にくさびを打ち込んだ相手はそこにいる。

 智仁はライフルのストックを肩につけると、銃口を下に降ろした体勢で前進する。


 * *


 緑色の視界に時折灰の山が見えるほかは、道中に異常はなかった。

 身体が僅かに痺れている。ただ、それは不快というよりも、自身の興奮から来ているもののようだった。

 頭が妙に冴える。タイクーンに段々と近付いていくイメージが浮かび上がる。

 やがて開けた空間へと出た。三方にガラス扉がある。どうやら、ここからホールへと接続できるらしい。

 ナイトビジョンが映し出す風景に、白色が混じった。

「光?」

 ビジョンを片手であげる。周囲が暗闇だというのに、正面のガラス扉から光が抜けてきている。

 そちらを観察した。ガラスの奥には、吹き抜けとなっている一階のホールがある。

 その中心にスポットライトのような照明が当たり、そこだけ照らし出されていた。

 智仁は慎重に足音を忍ばせ、ガラス扉の端にある柱へと身を寄せる。

 そこからホールを覗き見る。ガラス扉は開けられた痕跡があった。

 照明は微動だにしていない。中央のギリシャ彫刻を模したオブジェにも特筆するところは――。

 息を呑んだ。

 オブジェは片腕をあげて上空へと拳を突き出している。

 その拳の先に……臓物が覆い被させられていた。

 まだ血液が滴り落ちており、それはひとつの線となってオブジェの顔、胸、腹……そして爪先へと流れている。

 心臓の鼓動が激しくなる。誰かが殺されたのは明らかだ。

 ナイトビジョンを下げて、必死でホールを覗き見る。しかしこの位置からでは、内部をうまく見通せない。

 智仁は心中で悪態を吐いた。

 三人はこの扉から侵入した可能性が高い。相手はこの扉を見張っているだろう。

 扉を開ける瞬間に遠距離攻撃でもされれば、こちらは避ける手段がない。

 扉に罠がないかを確認する。それらしき痕跡はなかった。

 智仁は気息を整えて、頭を冷静にする。

 ガラスを銃弾で脆くした後に蹴りで壊し、そのまま遮蔽物に飛び込むのがひとつ。

 ガラスを壊した後に煙幕手榴弾を投げ込むのがひとつ。

 別のルートから回り道をして、敵の意表を突くのがひとつ。

 確実に勝負を決めるなら、迂回するのが安全な手段だろう。

 だが逸る気持ちがその決断に泥をかける。

 本当にいいのか、と。お前は無意識に過去と対決するのを避けているのではないか、と。

「違う。これは戦術的な判断だ」

 奥歯を噛みしめる。感情に負けていては、冷静な判断をとれなくなると理解していた。

 しかしこればかりは強力で、智仁の内面をじりじりと焼く。

 ふとキャスの言葉を思い出した。

 ――敵の戦力を正確に分析できないようでは、ルーキー以下です。

 ほっと息をつく。今でさえ危険な賭けをしているのに、この上で博打などしてはならない。

 気持ちが落ち着いてきた。ここは迂回して、別の道を探そうと決意する。

 そのとき。

「なっ!?」

 首にざらりとした気持ち悪い感触の何かが纏わりつく。

 咄嗟に状況を確認する。理解した。紅い色のデカいベロが、かれの首に巻き付いている。

 片手をマチェットの柄へやりながら、ベロの出所を探る。

 通り過ぎた店の内部に、カエルを模したようなダスクがいた。

 銃口を向けようとして――カエルが笑みのようなものを浮かべる。

 舌が収縮し、急速に巻き取られる。

 その力で体勢を崩し、床面に引きずられながらカエルのもとへ移動させられる。

 首が絞まった。息が詰まるのを感じながら、あのダスクが自分を呑み込もうとしているのだと推測する。

 だが。

「おまえ――」

 ダスクは近付いた智仁を睥睨すると、ベロを一気に加速させる。

 まるでジェットコースターのような勢いで、智仁はガラス扉を突き破った。

 全身に走る痛みを感じる間もなく、智仁の身体が投げ出される。

 うまく着地しようとして、失敗した。身を打ち付け、痛みからくる呻き声が漏れる。

「うう、くそっ……」

 よろめく腕に喝を入れて、智仁はなんとか立ちあがる。

 目前には照明が当たったオブジェがある。どうやらホールの中に放り投げられたようだ。

 ナイトビジョンは吹き飛ばされた時に外れたらしい。

 ふらふらとする頭を叩いて、意識をはっきりとさせる。

 すぐに近くの遮蔽物へと飛び込み、身体を隠した。

 十秒ほど待ったが、迎撃される兆候はない。照準をガラス扉の向こうに向けてみた。

 もうカエルみたいなダスクは姿を消している。

「どういうことだ?」

 怪訝そうにつぶやく。考えすぎだったのか、と思った時、手が湿ったものに触れた。

 眉をひそめ、視線をやる。眼が見開かれた。

 それは男の死体だった。眼鏡のフレームが壊れ、かろうじて耳にかかっている。

 もはやその瞳は生気を宿していない。

 思わず声が出そうになって……腹部に大きな穴が空いているのを見つける。

 そこからソーセージが連なったような形の腸が引きずり出されていた。

 吐き気がこみあげる。咄嗟に口を押さえた。

「気に入ったか?」

 奇妙に張り詰めた感じの声が場に響き渡る。

 はっと気付き、智仁は遮蔽物の上から身を乗り出して、ライフルを構える。

 照明が当たらない場所に、誰かがいた。

 ――ダスク。

 引き金をひく。闇に瞬くマズルフラッシュが辺りを照射し、銃声が轟く。

 五.五六ミリ儀礼弾が連射され、そいつを瞬く間に蜂の巣にする筈だった。

「いきなり乱暴だなあ、智仁」

 ダスクがくつくつと笑う。何のダメージも喰らっていないように見えた。

 だがそれよりも不快なのは、このダスクがなぜか親しげに名前を呼ぶことだ。

「呼び捨てにされる謂われはない」

「ああ、分からないよな」

 ダスクが、そっとオブジェの側へと歩み寄る。

 まばゆい光がダスクの全身を照らし出し、その姿を露わにした。

「あ……え……?」

 ふたつの顔があるように見えた。

 片面の顔は蒼色の肌に包まれ、眼は銀色に発光し、紅い輝線のようなものが頬を縦横無尽に結び回っている。

 もう片面は穏やかに微笑む少年の顔である。何の変哲もない――ハンサムな――。

「将……人」

「よう」

 かれは片面で微笑み、もう片面で虚ろに睨み付けた。

 ダスク――楠木将人は肩に乗せていた何かを、これみよがしにオブジェへ叩きつける。

「こいつが女で」

 彼女は上半身しかなかった。腕の骨が折れているようで、変な方向に曲がっている。

 中国系のスイーパー……ユーチェンだ。

「こいつが男だ」

 智仁のいるところへ、将人がなにかを投げる。

 それはころころと転がる球体のような何かで、智仁は最初それをフルーツかと思う。

 だが、違った。

 胃液が逆流するのを必死で堪えようとする。

「しぇ、シェンク」

 苦痛に見開かれた眼は智仁を見つめている。

 ハーヴィー・シェンクの首が、そこにあったのだ。

「いやあ、銃相手だからけっこうビビってたんだ。でも実際はそう強いもんでもないな。すぐに殺せたし」

「お、お前はなんで、そっちに……」

「おいおい。落ち着けって、な? 俺はダスク。お前はスイーパー。そういう関係なんだろ?」

 片面がくすくすと笑い、もう片面は邪悪な笑みを浮かべる。

「こんな世界にいたんだな、お前は。あんなに喧嘩が強かったのも分かる」

「ま、将人」

「俺は“養殖もの”らしいんだが、普通のとは違うぜ。適性があるらしいし、特別に力を貰ったんだ」

「ッ! お前、なにをしてるのか分かってんのか!!」

「そう怒るなよ。ストレス溜まるぞ」

 将人は肩を竦め、片面が苦笑する。

「自分のことぐらい、よく理解してるよ。分かってないのはそっちじゃないか」

「お前は邪悪な化け物になったんだぞ!? お前は……そういうことを求めるやつじゃないだろ!」

「いちいちうるさい奴だなあ」

 両面が同じ表情を見せる。それは険悪な笑みだった。

「俺たちは勝手に理解して、勝手に期待して、勝手に反応し合うだけ。クソつまらん生物だ」

 将人が指を鳴らす。

「壊れた機械が必死で真似する必要なんかなかったんだ。正直になればよかった」

 腕を振り上げた。

「俺が求めるのは――」

 オブジェに拳が叩きつけられる。本来ならば人間の腕力では傷ひとつ付けられないそれ。

 だが将人の拳はオブジェを容易に叩き折り、その勢いで断片が空中へ大きく浮かび上がる。

 智仁の眼前に、断片が落ちた。

「――力だ」

 弧をえがく口元。どうすればいいのか分からず、ただ震える両手で銃を構える。

 驚き、怒り、悲しみ、嘆き。あらゆる感情が智仁の中をぐるぐると包囲する。

「へえ? 撃つのか」

「……お前は、敵だ」

「敵? 本当にそうなのか? 俺とお前は親友だよな」

「ッ! 俺が信じた男はもういない!」

「ひでえ言いぐさだ。まあ、当たらずとも遠からずってところだな」

 シェンクの生首を指差して、言う。

「確かに俺は変わった。お前の戦友を三人殺した。気持ちよかったぜ?」

「黙れ……!」

 智仁の指先が引き金にふれる。あとはそのまま屈伸させるだけだ。

 眼前のダスクを敵と認めて、銃弾を放つ。

 ただそれだけのこと。だというのに、智仁の指は震えている。

 変わり果てた友人を殺すことができなくて。

「くっくっく。ほら、撃てないじゃないか。なあ、ライサ。言った通りだろ?」

 将人が嘲笑するように言い放ち、視線をホールの奥へとやる。

 智仁の眼もそちらに釘付けになった。今、なんと言った?

「ら、ライサだと」

「んー、もうちょっと非情かと思ってたんだけどね」

 ひょっこりと闇の中から現れたのは、小柄な体格の美少女だった。

 学校の制服の上に、ひとまわりサイズが大きいカーディガンを着ている。

 彼女は苦笑した。

「まあ、それもカワイイと思うけどさ~」

「なんで、だよ」

「え? なに」

「なんで……なんでお前らなんだよ……」

 いきなりのことに対処ができず、ただ棒立ちとなる。

 将人のことで精一杯な智仁の胸中に、新たな劇薬が差し込まれたのだ。

 歯は噛み合わず、顔面は蒼白となり、かすれた声しか出せなくなる。

「なんでって言われてもな」

 将人は片面に皮肉そうな笑みを浮かべ、もう片面に困ったような表情を浮かべる。

「俺をダスクにしたのは、こいつだぞ?」

「はーい、ボクで~す♪」

 無邪気に笑って、智仁に手を振ってくる。

「お前と殴り合ったあと、公園でライサが話しかけてきてさ。そのとき、いろいろと考えたんだけどな」

「まあ、人間辞めるわけだから勇気いるよねー」

「俺は決断したわけだ。ダスクになって、好きなことしようってな」

「めでたしめでたし☆」

 ふたりが微笑み合う。そこに一切の悔悟も不満も見られない。

 智仁は叫んだ。

「うわああああああ!」

 アサルトライフルが大量の銃火を放出する。

 場に響き渡る無数の銃声と共に、直線を走る鉛弾が全てを破壊しようとする。

 薬莢が跳ね回る。圧倒している筈の智仁は恐怖の表情を張り付けていた。

 狙われたふたりは、ただ笑っている。

 銃弾は将人に命中し、その肌を抉ろうとするが、まるで鋼鉄の壁にぶち当たったかのように先端が潰れた。

 火花が胴体から下腹部、足までを覆い、くすぐったそうに将人はそれを見つめている。

 ライサのほうは弾が当たっていなかった。

 直線を往く筈の弾丸が、なぜか意思を持つようにして彼女へ衝突する軌道から離れていく。

 彼女の瞳は恐慌状態にある智仁に向けられている。

 口元には微笑みがあった。

 残弾がゼロになる。引き金がかちりと音を立て、もはや弾がないことを智仁に教えた。

「満足した?」

 ライサが首を傾げる。

 智仁は震える手で、必死にマガジンポーチから弾倉を取り出そうとした。

「……ねえ? “ボウヤ”」

 ぴたりと、智仁の身体が制止する。ゆっくりと首が回り、ライサを見る。

 脳裏に過去の光景がフラッシュバックした。

 口に押し込まれる父親の指。

 無理矢理に咀嚼させられ、黒衣の女が愉しそうに笑う。

 拘束された父親の耳を、女が引きちぎり、またこちらへと持ってきた。

 智仁は狂乱の様子を呈して泣く。千切れるかと思うぐらいにかぶりを振って、耳を遠ざけようとする。

 女が凄まじい腕力で首を固定する。呑み込むように告げる。智仁が泣いて許しを乞う。

 黒衣の女が微笑ましげにそれを見て、囁いた。

『お父さんが死んじゃうよ? “ボウヤ”?』

 ――呼吸が浅くなり、全身をアドレナリンが駆け巡る。

「お前、か」

 ぽつりと言葉が漏れる。

 ライサはなにも答えず、智仁に薄い微笑みを向ける。

「親父を……壊したのは……あの時、あそこにいたのは……」

 最後の一滴を絞り出すような、渾身の苦痛が吐き出された。

「お前かァ……!」

「あはははは。だいせいか~い♪」

 ライサは微笑みを一挙に崩し、その端整な容貌に邪悪な嗤いを浮かべる。

「ボクは、私は、俺は――タイクーン。数年前に君の父親を壊した張本人だよ」

 智仁の口端から血が垂れる。それほど強く舌を噛んでいた。

 もし何かを噛んでいなかったら、このまま叫び出しそうだったのだ。

「といっても色んな名前で呼ばれてたんだけどね。ラスプーチン、サンジェルマン、バフォメット」

 嬉々として語る彼女を、智仁はただ睨め付けた。

「今は与熊ライサ。君と将人のお友達」

「将人を誘惑したんだな! お前が最初から――」

「そう怒らないでよ。ボクは力を与えただけ。受け取ったのはかれ自身の決断だよ? ね」

 将人が肩を竦める。ライサは頬をぷくりと膨らませると、軽く智仁を叩いた。

「まあ、これで分かったでしょ。なんで君に対してあんなにフレンドリーだったのか」

 ――あの時、君はボクのことをとても楽しませてくれたんだよ。

 かつて彼女に言われた言葉が、脳裏に浮かび上がる。

 確かに会っていたのだ。楽しませていたのだ。

 父親の崩壊を見せられ、泣き喚き、許しを乞うたという形で。

「俺は、俺は!」

「それに君のことが気に入っちゃってさ♪ 様子見がてら、学校に潜入してみたんだけど」

 ライサがニタリと三日月状の笑みを見せる。

「どうだった? 楽しかった?」

 胸が苦しくて、うまく息が吐けない。精神的なプレッシャーがかかり、手足が震える。

 智仁はアサルトライフルを地面に落とし、喉をぎゅっと掴んだ。

 かれらに銃弾は効かない。ならばここは一端逃げるしか――。

「さて、本日のメインディッシュで~す♪」

 不意にライサが指を鳴らした。

 背後の闇から四本足のダスクが姿を現す。

 それだけなら驚くことはない。だが、その背に乗せられていたのは。

「礼佳!!」

「ご名答。あなたの恋人であるアヤカちゃんだよー」

 猿轡を噛ませられ、後ろ手に縛られた華奢な体格の美少女が、ダスクの背に乗せられていた。

 冷静さも忘れてその場から飛び出そうとする。そんな智仁の前に、将人が立ち塞がった。

「どけよ!」

「いいや、どかない。俺とお前は今から対決するんだ。彼女をかけてな」

「知ったことか!」

 鞘からマチェットを走らせ、眼前に現れたかつての友人に刃を振り下ろす。

 将人はサイドステップで斬撃を避けると、右手を大鎌のように振り回した。

 凄まじい腕力の余波が、智仁の身体を衝撃として打つ。

 背後へ吹き飛ばされる中、智仁はなんとか受け身をとった。

「ルール違反はなしだ。分かったか?」

 人差し指を立て、口でチッチッチと鳴らしながら、ゆっくりと左右に振る。

「――なんでだ。どうしてお前は」

「変わったんだよ、智仁。お前も俺もな」

 化け物のような形相をした片面が、憎悪を込めて睨み付けてくる。

「もう元には戻れない。無事に帰りたきゃ、俺を殺して勝ち取れ」

「くっ!?」

 今度は将人が突進した。対応しようと構えをとった刹那、もう眼前にいる。

「みえな――」

「お前がトロすぎるんだよ!」

 放たれた正拳突きが、ダスク用の対衝撃プレートに命中する。

 プレートが内部でひしゃげ、ベストは折れ曲がる。

 眼を白黒させ、智仁は崩れ落ちた。将人が嗤う。

「ほら、早く立てよ。俺に奪われるぞ?」

「ごふっ……ひゅっ……ひゅっ」

 ふいごのような音を鳴らしながら、よろめきながらも立ち上がる。

 追いつかれると理解していても、智仁はあまりの恐怖から距離を離そうとする。

「近所の婆さんじゃないんだから、もっと急げ。じゃないと――」

 背後から襟を掴まれ、軽々と持ち上げられる。

 腕を曲げて、投げた。

 智仁は一瞬の空中を味わい、つぎの瞬間、ホールに設置された柱へと叩きつけられる。

 そのまま滑り落ちる。もはや息ができず、ただ苦痛と恐怖だけが智仁の脳裏をよぎっていた。

「あの時の威勢はどうしたんだ? これじゃ興ざめだろ」

「早く勝ってよ~。アヤカはどうでもいいけどさ。その子、ボクが可愛がりたいし」

「はいはい」

 将人が片面で苦笑する。

 智仁はぼやけた視界の中で、こちらへと近付いてくる将人を見つけると、喘鳴を溢す。

 ――彼女が待っている。礼佳を助け出さなくては。

 その意思だけがはっきりと形を成した。ホルスターから四五口径拳銃を抜く。

「ま……さ……と……!」

 ぶれる照準に構わず、引き金をひく。重い反動と共に銃弾が発射される。

 将人の表面に衝突した弾丸は、例外なく全て無効化され、傷ひとつ付けることもできない。

 ただ、かれの身体に花火が舞い踊るのみである。

「今の俺とお前じゃ、力量に差がありすぎる。諦めろ」

 将人が呆れたように言った。

 智仁はさらに引き金をひこうとする。スライドを掴まれ、捻り上げられた。

 鋼鉄のフレームが歪み、ねじれ、崩壊する。

 もはや武器はない。

 遠くに、礼佳の姿が見えた。怯えきった表情だ。

 彼女はただこちらに視線を向けている。苦痛が顔に張り付き、その美貌を苦しげに歪めた。

 ごめん。一言だけそうつぶやいたが、届く筈もなかった。

「こっちを見ろ」

 頬を掴まれ、将人と視線が合う。ふたつの顔が、ひとつの頭部に同居していた。

 人間の顔は微笑みを、悪魔の顔は嘲笑を浮かべている。

 不思議と嫌悪感は覚えなかった。ただ、深い悲しみと絶望が胸中を覆っていた。

「お前の負けだ」

「お、俺は……」

 愛銃の破片が目の前でぶらりぶらりと揺れている。

 将人がつまんでいるそれが、グシャリと潰された。

 かれが首を傾げる。智仁はなにも言えず、ただ絶望の中にいるほかなかった。

「折れたな。それじゃ、礼佳は俺が貰っていく」

「逃げろ、礼佳。頼む……」

「縛られてるのにどうやって逃げるんだよ」

 智仁の呟きを嘲笑うと、将人がふと、かれの懐からこぼれ落ちたものに目を向ける。

 それは一羽の鶴――白い折り紙で折られた美しい鶴だった。

 智仁が気付き、なにかを懇願するような眼を向ける。

 一瞬、将人の顔に困惑がよぎった。だがそれはつぎの瞬間に怒りと化す。

「こんなもの持ってくるから恋人も奪われるんだよ!」

 智仁の首根っこを掴み、放り投げる。

 もはや受け身もとれないまま、智仁はホールの中央へと落ちて、うめき声をあげた。

 ちょうどユーチェンの上半身がすぐ近くにあり、彼女と視線が合う。

 死者の白濁色がこちらを見据えている。

 コツコツと靴音がして、髪の毛を掴まれた。痛みと共に柔らかい感触が唇を占領する。

「!?」

「……ぷはっ」

 腔内を舌で蹂躙すると、歩み寄ってきた与熊ライサは、智仁の血が付いた唇をぺろりと舐めあげる。

「約束通り、この子はもらうからね♪ 将人」

「好きにしろよ」

 将人が側を通り過ぎていく。礼佳が悲鳴をあげて、身をよじる。将人は優しく彼女を抱き締めた。

「やめてよっ! 触らないで!」

「意外と元気はあるんだな? 裏切られて、意気消沈してるかと思った」

「智仁を苛めるんだったら、絶対あなた達の言うことなんか聞かない!」

「んー」

「ねえ、アヤカ。ボク、君の彼氏さんを捕まえてるんだけどね。もし君が言うこと聞かないなら」

 ライサが、智仁の指を反対側に捻る。さあっと血の気が引いたあと、凄まじい痛みが襲ってきた。

「うわあああああ!」

「こうだよ♪」

「や、やめて!  お願いです、お願い。智仁に痛いことしないで……!」

「素直でよろしい~。じゃ、将人。アヤカ連れてっちゃって」

 将人は黙って首肯すると、糸の切れた人形のようになった礼佳をお姫様風に抱き上げた。

 そして穏やかな表情で艶やかな髪を撫でると、額にキスをする。

 その間ずっと、礼佳は涙ぐんだ瞳を智仁に向けていた。

 ふたりが去っていく。靴音が遠ざかっていく。智仁はなにも出来ずに、それを見送った。

「あ、涙が出てるよ~。もしかして気付いてない?」

 どうでもよかった。全てが遠ざかり、永遠に喪われる。

 このまま彼女と再開することなく、自分は父親のように嬲られ、死んでいく。

 自殺も許されず、尊厳を破壊され、このダスクを楽しませる道具となるのだ。

「父さん……」

 情けなかった。復讐すらできずに同じ路を辿るのだ。

 彼女は喜んでいる。念願のおもちゃが手に入った無邪気な子供のようだ。

「はー♪」

 恍惚とした様子で、彼女は深呼吸する。

「ずっっっと、君のことを待ってたんだよ? いつかな、いつかな。いつ収穫できるかなって」

 繊細な指先がタクティカルベストをなぞる。ベストに割れ目ができた。

 彼女はベストをするりと引っ張ると、遠くへと投げる。

「でも、今日がそのときなんだね♪」

 髪の毛を、手櫛で梳かれる。気分がひどく悪い。

「お父さん――レイジみたくしてあげる。ううん、もっと酷く壊すよ。本当に気に入ったから」

 彼女が優しく微笑んだ。まるで慈母のようだ。

「だから今は、安心してお眠り。ボクの智仁」

 視界が閉ざされる。四肢の感覚が無くなり、闇が周囲を満たす。

 やがて意識さえも融け合って、なにも分からなくなった。


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