chapter-13
13
眠りから起こされた時、切に感じたのはこのまま漂っていたいという願いだった。
頭は働かず、微かな痛みが痺れのように全身を覆う。
自分が両手首を縛られ、まるで冷凍肉のように吊されていることに気付いたのは、数分後だった。
両手を動かそうとするが、どうにもならない。
視線を周囲に向けてみた。柱が数m程度の間隔でぽつぽつと建っている。
内装は全てコンクリートで、調度品などはほとんどない。
眼前には古びたパイプ椅子が置かれていた。
「気が付いた?」
ブーツの音がして、目の前に黒衣の少女が現れる。
与熊ライサ。彼女は楽しそうに微笑んでいる。
「……最悪の、気分だ」
「ごめんねえ。もっと楽な体勢にしてあげたかったんだけど」
ライサが近寄ってきて、智仁の頬を撫でる。
「今から君のことを壊すからさ。あまりリラックスされても困るんだよね~」
「もうどうでもいい。早く殺せ」
「あはは。楽になろうとしてるの? ダメだよ。もっと苦しまないとさ」
彼女はくすくす笑うと、智仁の腹に手をやる。
そのとき、上半身になにも着ていないことに気付いた。
「ずーっと君のこと待ってたんだから。愉しませてよね」
口角が吊り上がる。智仁は眼を瞑った。もうなにも見たくはなかった。
ライサが智仁の背後に回り、かちゃかちゃと音を立てる。
「ん~、どれにしよっかなあ♪」
道具を揃えているのだ、と理解できた時には、背筋がぞっとした。
だが彼女から逃れる術はない。それに気力も削がれている。
あるのは痛みへの恐怖だけ。
彼女が戻ってきた。手にはメスと、小さな薬瓶が握られている。
「じゃじゃーん。これ、なんでしょう?」
答えるつもりはないと、ライサを睨み付ける。
彼女は残念そうに肩を竦めると、メスの刃をそうっと近付けながら説明を始めた。
「手術用のメスは分かるよね。よく切れるんだよ、これ」
横腹にちくりとした感触を覚える。
「この薬瓶だけど、ボクが調合したやつでね~」
鋭い痛みが走った。首を曲げて確かめる。ライサが横腹に刃を走らせていた。
細長い傷口から血が膨れあがって、流れ落ちていく。
「要するに毒なんだけど、一度傷口から入ると大変だよ」
薬瓶の蓋を開けて、智仁の肩口から中身をだらりと垂らす。
黄色い液体が肩部から滑り落ちていき、脇の下を通って重力に導かれる。
「幻覚が見えてきて、偏執的な妄想が頭を占め、だれとも知らない声が聞こえてくる」
耳元に唇を寄せる。
「君を壊すためのお薬だよ♪」
傷口が染みるのが分かった。あの液体が脇腹まで達したのだ。
大丈夫だ、と自分を叱咤する。眼を瞑り、精神を落ち着け、なにも構わなければよい。
最初から全てが妄想だと知っていれば対処のしようもある。
不意に、動悸が激しくなった。心臓の鼓動が耳元で聞こえ、脳裏で光がスパークする。
あまりの眩しさに眼を開きたくなったが、ぐっと堪えた。
「頑張るね♪」
ライサの声が聞こえた。まだおかしなところはない。
「最初の内はみんな誇りを保っているんだけど、すぐにおかしくなるんだ」
靴音がする。彼女は智仁の周囲を回っているようだった。
「助けてーってね。みっともなく懇願するんだけど、それは叶えられない」
彼女の声が奇妙に間延びしている。始まったか、と智仁は思った。
「ある意味、地獄なのかもしれないね。でも君なら耐えられるでしょ?」
「お前のちっぽけな薬なんか、屁でもない」
眼を瞑ったまま、このままなにも起きるなと願う。
でも、もしかしたら全てが陰謀なのでは。
自分は騙されていただけで、礼佳もダスクなのではないか。
そう思えば、あの不可思議な言動にも説明が――。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
おかしな考えが頭に忍び寄ってくる。
なにも思考するべきではないと思って、頭を空っぽにしようとした。
「智仁」
「え?」
父親の声がする。思わず眼を開いた。眼前のパイプ椅子に、男が腰を下ろしている。
くたびれたグレイのスーツを着ていて、厳格な表情が顔に張り付いている。
「なぜここにいる」
「え、あ……と、父さん」
「お前はなぜここにいるんだ。どうしてだ?」
「お、俺は」
――落ち着け。これはただの幻覚だ。
理性がそう囁きかける。それでも数年前に喪った筈の父親が、目の前にいるのだ。
会話してはいけないと思いながら、口を開いてしまう。
「あんたの仇を討ちたかったんだ。悔しくてしょうがなくて……」
「仇、だと?」
父親――弧山礼史は片眉をあげて、椅子から立ち上がる。
「お前はそんなことを考えてなどいない筈だ。私には理解できている」
「ど、どうしてそんなことを言うんだ! 確かにあんたが憎かったけど、俺は」
「誤魔化すな。自分のためだろう。お前は過去に怯え、恐怖し、私を体良く利用したんだ」
「違う!!」
怒声が部屋に響き渡る。将人は、顔を苦しみで歪めた。
「違うんだよ……。俺は、ただ」
「いくら取り繕ったところで事実は変わらない」
その表情に一切の変化はない。まるで機械と会話しているようだった。
智仁はかつての面影を思い出す。母親が死んでから、笑いかけてくれた記憶がない。
「お前は心を閉ざし、戦いから逃げ、もはや手遅れとなった時に戻ってきた」
父親が近付いてくる。一歩、二歩、三歩。
「もしかしたら、まだやり直せるのかもしれない、とな」
「ッ!? でも俺は戦った! 戦ったんだ!」
「結果で語ってみろ」
口を噤む。なにも言えなかった。戦った結果がこれだ。
大事なものは奪われ、親友には裏切られる。全てライサの掌の中で踊っていたのだ。
黙り込んだのを見て、礼史が言葉を継ぐ。
「情けないやつめ。お前は逃げていればよかったんだ。一生穴の中で暮らしていればよかった」
「怖かったんだ。終わりにしたかったんだよ……父さん」
「ならば首を吊れ。死が全てを解決してくれる。だが、お前は畏れたな」
「あんただってそうじゃないか!」
知らず知らずの内に涙が滲む。つもりに積もった言葉を吐き出す。
「あの時! あんたは戦わなかった! 息子の前で恥を晒した! 助けて、と俺に言った!」
「だからどうした? なにが言いたい」
「情けないのも、女々しいのもあんただろ! 俺は戦った! あんたは――」
ずきりと、頭が痛みを発する。智仁が呻いた。
今まで能面のような顔をしていた礼史は、ここで口角を吊りあげる。
「気付いてすらいないお前が哀れだよ。我が息子の弧山智仁」
「気付いてない、だと?」
「本当にお前は見ているだけ、だったのか?」
智仁が怪訝そうな表情を浮かべる。
「私ははっきりと覚えている。お前があのダスクに媚びへつらい、私のナイフを手に持たされたことを」
「おい、ちょっと待てよ。あんた、なにを言って」
「私はお前に言った。やめろ、と。やめてくれ、と。耐えられなかった。お前の、あんな姿を見るのは」
「意味が――」
「助けてくれと神に祈った。自分だけが助かるために、引き攣った笑みを浮かべ、私の腹にナイフを刺すお前を、助けてやってくれと」
「そ、そんなの知らないッ! 知らないんだ!」
「お前は何度も刺した。あのダスクに唆され、促され、頭を撫でられ。お前は媚びた笑みを浮かべて、ナイフを捻った」
「嘘を言うのは止めろ……止めろよ!」
「私は悲鳴を発した。お前は笑った。父が苦しむ姿を見て、嗤った。自分が助かる確信を得て、笑った」
智仁の中でがらがらと崩れていくものがあった。
脳裏に数年前の光景がフラッシュバックする。
恐怖に屈し、敵であるダスクにみっともなく懇願するサマが映し出される。
彼女が靴を差し出した。それを舐めた。助かりたかった。怖かった。
だれも守ってくれなかったから、自分で自分を守ろうと思った。
ナイフを持たされた。刺すように言われた。躊躇したが、彼女の一言で震え上がった。
――つぎは君にしようかな?
必死で機嫌をとった。実の父親を貶め、罵声を投げかけた。腹にナイフを突っ込む。
彼女が笑ってくれた。嬉しかった。ライサが、笑ってくれた。
だからもっと刺した。捻ったら、父親が叫び声をあげた。ライサが褒めてくれた。
何度もやっている内に、動かなくなった。
そうだ。
父さんの仇は。
ダスクじゃない。
父さんを殺したのは。
「……俺?」
かくんと首が垂れる。
寒さも暑さも痛みも苦しみも、なにも感じない。
あるのは渦巻くような暗闇だけ。
思考は形を成さず、吊られた死体のように身体が揺れる。
俺じゃない、という否定の言葉が滑り落ちて、代わりに沈黙がやってくる。
腹に衝撃。喉元まで内容物がせり上がってくる。
「おあっ!」
「思い出したのか」
礼史が薄い嘲笑を浮かべて、こちらの顔を覗き込む。
腹部にはかれの拳がめり込んでいた。
「実の息子にあんな真似をされるとは思っていなかった」
「ごめん……ごめん……父さん」
「口先だけの謝罪など幾らでも言える」
父親は構えをとる。感覚を確かめたあと、同じ場所に一撃が入った。
「がっ……おえっ!」
直前まで来ていたものが、口から嘔吐物となって流れ落ちる。
地面にびしゃりと落ちた。
智仁が顔をあげると、頬を思い切り殴られる。
「それに、お前を赦す気などない」
今度は脇腹に拳が突き刺さる。
「うっ」
悲鳴をあげようとして、くぐもった呻き声になった。
「無様に死ね。私が辿ったように」
リンチが続く。下腹部を蹴り上げられ、眼を白黒させる。
髪の毛を掴まれ、固めた右手で顔面を打たれた。
執拗にみぞおちを狙われ、それを防御する術もなく、苦痛だけを甘受する。
顔面に強力な肘打ちが来た時、智仁は自分が死んだものと思った。
「う……あー……」
声にならない声が自然と漏れる。
額から血液が滴り落ち、片目を通って鼻筋を滑る。
焦点が合わない瞳で、父親を見やった。
その姿が揺れ動いた。万華鏡のように移ろっていく。
やがて父親はひとりの少女となった。
「ラ……イ……サ」
「んー、あれ。もう少し続くと思ってたんだけどな」
首を傾げ、自身の身体をぺたぺたと触る。
「まあ、いっか♪ 事実は変わらないしね。お父さん殺害おめでとー! ナイスキル!」
彼女は心底嬉しそうに拍手する。智仁の瞳から透明なものが伝った。
それを目敏く見つけると、ライサは顔を近付けて、舌を伸ばして涙をすくう。
「んふふ。けっこう堪えたかな? でも自業自得だよね」
智仁の頬を柔らかな指でなぞる。
「ボクは別に無残に殺せ、なんて言ってないのにさ。君のお父さん、裏切られた眼をしてたね」
穏やかな視線を向けながら、智仁の背後に回る。
「あの時、君のこと殺そうと思ってたんだよ? 用済みだし。でも気に入っちゃって」
器具を持ちあげる音がした。
「自分が生き残るために、家族を喜々として殺すなんて、可愛いよね♪」
ライサが智仁の視界に戻ってくる。
その手に何か握られているのを見て、智仁は絶望しきった顔を向けた。
球体を摘出する道具のようだった。先は鋭利で、持ち手はペンチのような仕組みになっている。
彼女が神秘的な微笑を浮かべて言った。
「ねえ。ボクって君が好きみたい」
パイプ椅子に腰を落ち着け、足をぷらぷらと動かす。
「だから、眷属にならない?」
一瞬、なにを言われているのか理解できなかった。
ライサの表情を伺う。無邪気なようでいて、どことなく真剣な雰囲気が漂っていた。
「将人みたいな出来損ないに与えたのとは違う、本物のパワーをあげる」
膝の上で頬杖を付く。
「君のやりたいことはなんでもできるよ。どんな奴も君のことは止められないし、屈辱だって二度と味わうことはない」
彼女は一呼吸を置いて、言った。
「一緒に楽しいこと、しよう?」
後に続く言葉はなかった。智仁も、ライサも、なにも言わなかった。
ライサが微笑む。智仁は光のない眼で彼女を見やる。
この苦しみから逃れられるなら、なんでもしたかった。
自分は以前に屈しているのだ。
卑劣な殺人者で、自分が助かるためならなんでもする男。
それが自分の真の姿なのだろうと思うし、それを否定するつもりもない。
なぜなら、それが事実だからだ。
父親を殺し、戦友を殺し、都合良い記憶に組み替え、今をのうのうと生きてきた。
こんな男には相応の姿がお似合いだ。ダスクとなって正直に生きればいい。
気にくわないものは壊し、殺し、犯し。過去を肯定して、俺は卑怯者だと嗤えばいい。
簡単なことだ。そういう人間なのだから、そういう風になればよいのだ。
智仁は虚無的な笑みを浮かべる。それは将人のものとよく似ていた。
頷こうとする。世界を自分の思いのままに動かして、人の悲しみを糧にしようと。
だが。
――白い馬はないし、鎧も着ていない。顔だってハンサムじゃないし、大して強くもないよ?
小さな声が、届く。
――それでも、あなたは。
ああ、そうかと。自分が生きる理由があったなと。
――私の恋人だもん。
「断る」
「へえ」
興味深そうに、ライサが眉をあげた。
少し苛立っているようにも、あるいは喜んでいるようにも見える。
「理由、聞かせてもらえる?」
「俺には礼佳がいる。あの子だけは裏切れない」
「愛の力ってわけか。でも空気読んで欲しかったな~」
わざとらしいため息を付く。ライサは珍しくその顔に苦笑を浮かべた。
「考え直そうよ。別にこのままでも面白いけど、君が堕ちたほうが盛り上がるし」
「悪いな。俺はもう、決めた」
智仁に迷いはなかった。あるとすれば、彼女と二度と会えないかもしれないということだった。
ライサが肩を竦めて言う。
「んー、コケにされた気分」
不意に、彼女の手が智仁の顔を押さえつけた。
突然のことに驚き、顔を動かそうとするが、ライサの力はその細い腕から出ているとは思えないほど強力だった。
もう片方の手には例の摘出器具が握られている。
「ちょっと不機嫌かも~。覚悟してね♪」
「な、なにをするつもりだよ」
「眼」
彼女が微笑む。
「君の眼をもらう」
智仁の顔面から血の気が引く。
それを見て、ライサは嬉しそうに口端を吊り上げた。
「いいね。その顔。余裕の君より、そっちの情けない君のほうが好き」
「やめろ……頼む!」
「いまさら懇願したって無駄だってば。あそこで頷いておけばよかったのに」
冷淡に切り返すと、彼女は顔を押さえつけている手で、まぶたをしっかりと開かせる。
左目が剥き出しとなって外気に晒された。
必死で抵抗しようとするが、力で負けている上、両手は縛られている。
左目がぎょろぎょろと動くさまを愛おしそうに見つめながら、ライサが言った。
「じゃ、摘出しま~す♪」
「ふっ……ふっ……ふっ」
歯が噛み合わなくなり、口から小刻みに息が漏れる。
恐怖が速効毒のように全身を回り、これから来る苦痛を待ち受けた。
「ライサ……お願いだから……頼む」
「情に訴えるの? ボクはダスクなのに? それじゃ駄目だよ。男の子なんだから、がんばれ」
彼女は激励するかのような笑みを作ると、器具を近付けた。
二〇センチ。
「怖い?」
一五センチ。
「すごく痛いよ、これ」
一〇センチ。
「欧州でね。試してみたことがあるんだけど、みんな発狂したみたいになるんだ」
五センチ。
「君もそうなるよ♪」
器具が――。
「やめろおおおおお!」
嵌まった。
眼から痛みが走る。閉じようとしているのに、閉じられない。
心臓がばくばくと音を立て、身体が悲鳴をあげる。
ライサが持ち手に力を入れると、徐々に先端が眼孔内へと滑り込んでいく。
じんわりとした痛みが続くと、不意に激痛が突き刺さった。
「あがっ!?」
身体を左右によじる。ライサの口から笑声が漏れた。
先端が固定されたようだ。
「ひぐっ、ぎぎ」
「だから言ったでしょ。眷属になりなよって♪」
彼女はひどく愉しげにそう言った。
「まあ、もう遅いけどねー。じゃ、引っ張るよ」
ぐぐっと眼が引きずり出される。七転八倒してもまだ足りない苦しみが、智仁の脳細胞を焼く。
脳裏に無数の光点が走り、神経の束に硫酸をかけられたかのような衝撃が起こる。
声にならない叫び声をあげて、身体をよじる智仁。
「よし、もうちょっと……」
さらに引き出される。黒い丸が付いたその球体は、今や眼孔の半分まで来ていた。
球形には無数の血色の束が埋め込まれていて、それらはひとつの太い線となり、眼孔の奥と繋がっている。
ライサは力を込めて、一気に引っ張った。ぴんと太線が張る。
智仁は打ち上げられた魚のように激しく身体を動かし、口からはこの世のものとは思えない悲鳴が発せられる。
ライサが太線を見やり、言った。
「これでお目々にさようなら、だね♪」
器具を強く握り締め、息を吸って思い切り引く。
智仁の脳内でぶちりという音がして、つぎの瞬間、それがやってきた。
「――」
断末魔。そうとしか形容できない声。
口から泡が漏れ、胃液が吐き出される。
智仁は失禁した。カーゴパンツの一部分に濃色が滲み出る。
狂乱する智仁を尻目に、ライサは引き千切られた眼を静かに観察していた。
「これが君の眼かぁ。ほかの奴らと大して変わらないね」
彼女はそう言いつつも、その球体を指で摘まむ。
しげしげと眺めたあと、くすくすと笑いを溢す。
「まあ、でも。きれいだと思うよ」
場に充満する狂気の臭いを嗅ぎながら、ライサは智仁に視線をやった。
いつの間にか、かれは心を砕かれて失神している。
頬を叩いても起きなかったので、彼女は肩を竦めるとパイプ椅子に座った。
* *
眼が覚めると同時に、智仁は確かな違和感を覚えた。
左目が開かない。
その部分は何か帯のようなもので覆われていて、頭部に巻き付いているようだ。
それに、じくじくとした痛みも感じる。
いったい何が起こったんだ、と思って、記憶を引っ張り出す。
途端に智仁の口から悲鳴が漏れた。
「おかえり~」
「お、俺の眼を……!」
「あはは、貰っちゃった。でも別にいいでしょ。戻るものでもないしさ」
ぐんにゃりと視界が歪む。左眼がないので、右眼だけで見るほかない。
このイカれたダスクに暴言を吐き出したかった。口に開こうとした。
「あ」
喉から声が出てこない。手が自然と震え始め、頭が真っ白になる。
――逆らっては駄目だ。
そんな考えが頭を満たす。必死で振り払おうとするのに、消える気配はなかった。
動揺する。どうしてよいか分からなくなる。
恐怖で満たされたことはあっても、銃の引き金をひいたり、マチェットで相手を一撃することはできた。
だがこれは、そう行動することさえも許さない。
まるで見えない首輪を付けられたかのように、身体が命令を拒否する。
ライサがこちらをニヤニヤと見つめていた。彼女が言った。
「人間……ううん。動物として当然のことだよ。過剰な痛みと衝撃を与えられたら、その原因を探り、対処する」
ぷらぷらと足を揺らして、頬杖を付く。
「この場合、ボクに逆らうことが原因でしょ? となれば当然だよね。ボクに攻撃したり、何か反抗したりできなくなる」
彼女の口が弧をえがいた。
「おめでと~。君のトラウマ第二号は、またしてもボクです♪」
「う、うあ……」
反論できなかった。無意識が彼女に対して敵対することを拒否していた。
左眼の痛みが激しくなる。器具をもったライサの姿がまぶたの裏側に張り付いて、離れない。
呼吸が荒くなり、額に冷や汗が滲む。
「んふふ。一応、眼の治療はボクがしてあげたから感謝してね? それ包帯なんだよ。無様でいい感じ♪」
ライサは椅子から立ち上がり、智仁のそばへと近寄る。
智仁の恐怖がさらに悪化する。ひゅ、ひゅとふいごのような音を立て始める。
彼女は笑みを浮かべたまま、片眼に巻かれた真新しい包帯を撫でた。
「口、開けてみて?」
拒否しようとするが、先に身体が反応する。
その様子を満足げに眺めると、彼女は懐からガラス製の筒のようなものを取り出した。
智仁が顔を歪める。液体漬けにされた智仁の左眼だった。
「そう。これは君の眼だよ。普通に人生送ってたら、こんなもの一生見る機会はないよね」
蓋を開ける。独特の薬臭が辺りに蔓延した。
彼女は液体の中に手を突っ込むと、ふよふよと漂っていた眼を取り出す。
智仁の背筋に、ぞくりと来るものがあった。
「まさか」
「そのまさか。これを食べてもらいます。大丈夫でしょ? お父さんの指も食べたじゃない」
なんともないように言って、彼女は無造作に眼を口に突っ込む。
顔を激しく揺らして、自らの眼が体内へと入るのを必死で防ごうとする智仁に、ライサが言った。
「止まれ」
その瞬間、顔がぴたりと静止した。ライサが満足げに微笑む。
薬液まみれのそれを、腔内へと入れた。
胃から何かが逆流してくるのを感じる。臭いが鼻を通って、外まで抜けていく。
「呑め」
無情な命令が下された。舌が眼の表面に触れる。おぞましい感触がした。
そのまま呑み込もうとするが、大きさがありすぎて、喉をうまく通らない。
噛むしかなかった。自分の眼を咀嚼し、小さくしてから送り込むしかない。
ひどい絶望を感じる。部屋の明かりが眩しく見えた。
本当におかしくなった時は、闇など感じないのだと理解する。
そこにあるのは、虚無と輝きだけだった。
光が明滅し、顎に力が入る。
ごりゅという音と共に目玉が潰れ、いやな味がじわりと拡散する。
何度も何度も噛み、そして呑んだ。
食道を下る。胃の中に、落ちていく。
「えらいえらい♪」
呑み込んだのを確認すると、ライサは女性らしい仕草で両手を重ね合わせた。
「きちんと呑めたね。できなかったら、もっと酷いことするつもりだったけど」
彼女が微笑む。
「逆らわなかったから免除してあげる。喜んでいいよ?」
「うっ……おえ……」
「んん、だいじょうぶかなあ。まだいけそうだといいな。君はメインディッシュだから」
メインディッシュという言葉に不吉な予感を覚える。
顔をあげた智仁を、可愛らしい笑みが迎えた。
「将人は前菜だよ。それなりには頑張ってるけど、どうせ先はないしね」
「どう……いう……」
「だけど君は違う。まだボクを愉しませてくれる。まだボクを興奮させてくれる」
彼女が、智仁の耳に唇を寄せる。
「――君を解放してあげる」
全身がぴくりと蠢く。
「苦しいのは嫌でしょ? 痛いのも嫌だよね。だからボクが手放してあげよう」
なにを企んでいるのか。智仁の脳裏ではそれだけが過ぎっていた。
「臆病者らしく逃げるかい? それとも、改めてボクのところへ来て、眷属にしてほしいと懇願する?」
ふうと耳穴に息を吹きかけられる。背筋が震えた。
「あるいは……名誉を取り戻すため、戦うかい?」
彼女がくすくすと嗤った。まるでその望みは薄いと告げているかのように。
「いずれにせよ、ボクのもとへと帰ってくるなら」
ライサが囁く。
「外郭地区の相承ビルで待つよ」
そうっと気配が離れる。同時に手首を拘束していたロープが千切れ、智仁は全身を地面へと叩きつけられた。
自身の呻き声がその場に反響する。手の感覚がない。
ライサがこちらを見下していた。なにか言おうとして、智仁は口をもごもごと動かす。
彼女が嗤った。智仁は眼を開くのが辛くなり、数分ほどまぶたを閉じる。
やっと眼を開け直した時、そこに彼女はいなかった。
* *
全身を掌握するのには時間がかかった。
身体を動かすのもやっとの状態で、智仁はなんとか起き上がると、部屋の出口を見つけて、外へと歩いていく。
どうやらここは地下室のようだった。よろめきながら、階段をあがった。
暗闇があたりを支配している。ただ、内装からこの場所がショッピングモールだと理解できた。
少し通路を歩くと、一階のホールへと出た。まだ血生臭く、仲間たちの死体は片付けられずにいる。
頭がぼうっとしていた。智仁は近くに落ちていたユザワの九ミリ拳銃を拾うと、出口へ進んだ。
ホールから野外へ出ると、ぬるい風が頬に当たる。
夜は深みを増していて、周囲はしんと静まりかえっていた。
駐車場まで歩く。途中で体勢を崩して、こけた。
シェンクのバンとユザワのセダンがある。フロントドアを開けようとした。
セダンは駄目だったが、バンは開いた。
運転席へと座る。灰皿に燃え滓が残り、缶コーヒーが傍らに置かれていた。
すっかり冷たい。かぶりを振って、エンジンを点けようとする。
キーがない。当たり前といえば当たり前のことに、なんだか苦笑する。
ハンドルを握り、そのまま数十分もいた。
缶コーヒーに口をつけた。苦い。涙が滲み、頬を濡らす。
シェンクの顔が、浮かんだ。
智仁はバンから降りて、道路に出る。そのままあてどなく歩き続ける。
人が恋しかった。だれかに抱き締めてもらいたかった。子守歌を歌い、大丈夫だよと寝かしつけてほしかった。
三〇分も歩くと、人気がある寂れた住宅地へと迷い込める。
明かりがついている家は大してなかった。それでも心には頼もしく、助けを求めようかと思う。
そして、自分たちが本当の意味で孤独なのに気付いた。
ダスクの話なんて、だれも信じない。スイーパーなんて、ただの狂人だ。
インターホンを押そうとして、あまりにも当然のことに気が付く。
智仁は、かれらにとって夜更けに訪ねてきた変人でしかないのだ。
叫びたくなるのを我慢した。涙をなんとか堪えた。また歩いて、見覚えのある教会を見つけた。
だれもいないのは理解していたが、どこかに受け容れてもらいたかった。
正面扉の近くにある植木鉢の下から、銀色に輝く鍵を取り出す。
ドアの取っ手には南京錠がかけられていた。
鍵を差し込み、南京錠を落とす。落下音にも構わず、取っ手を押した。
ぎいという音がして両の扉が開く。
中は全体的に暗かったが、ステンドグラスや天窓から月光が射し込むおかげで、灯りがなくても物は見えた。
正面奥の祭壇には、磔にされているイエス・キリストの像がある。
身廊を進んでいく。ほかの光景など視界に入らず、ただ救いを求めるように近付いていく。
祭壇の前まで来る。不意に、智仁の膝が崩れ落ちた。
「どうして」
だれもいない空間の中、その言葉だけが霧散した。
拷問の末に喪われた眼を、智仁は包帯越しに触った。
そこにあるのは空洞だけだ。
「俺が悪かったのか? 全部俺が……」
自分の命欲しさに実の父親を裏切り、かれを殺した。
唯一の親友をおかしくさせ、ダスクへと導く要因を作った。
穢れた身を知ろうともせず、何の罪もない礼佳を巻き込んだ。
「クズが! このクズ野郎! 貴様のせいだ! みんなみんなてめえのせいだッ!」
腹の底から絶望の気炎を吐く。
自分を憎悪した。これほどまでに愚かな自分を、殺してやりたくてたまらない。
卑小な自己を守ろうとして、全て壊してしまったのだ。
「なあ、イエス様。俺はここにいるべきじゃない。仲間は死んだ。友人は持っていかれた」
智仁は笑顔を浮かべていた。それは卑小な笑みだった。
片目から、涙の筋が流れている。
「本当なら俺が死ぬべきだったのに。俺より余程人類のためになる人たちだった」
三人の死体が思い出される。かれらが一様に智仁を見て、こう言っていた気がした。
――なぜお前が生きているんだ。
「どう弁護しようが、俺は有罪なんだ。分かるだろ。あんたが本当にいるなら、俺を見てるよな?」
智仁はキリスト教徒でもなんでもない。
だからイエス・キリストの来歴など知らないし、興味もない。
存在をなんども罵り、挑発したこともある。ただ、心の底ではその神性に敬意を払っていた。
「なんで、こんなやつが、生きてるんだよ……!」
木材で出来た床面に拳を叩きつける。何度も何度も叩きつける。
次第に手の皮が破れてきて、血が滲む。
智仁はキリスト像を見上げた。暗闇の中でかれは俯き、ただ沈黙している。
語りかけてくれる筈もなく、気休めになることもありはしない。
これは所詮銅像だと、智仁は理解していた。
だが。
「俺は……ひとりじゃ駄目なんだ……そんなに強くないんだ……」
罪の意識に押しつぶされそうになる。ひどく薄汚い存在だと罵られているようで、もうたまらない。
それでも、見苦しくだれかに助けを求めている自分は、なんと矮小なのだと思う。
しょうがなかった、と声をかけてもらいたかった。
お前のせいじゃない、と言ってもらいたかった。
今からやり直せばいい、と励ましてもらいたかった。
「臆病なんだよ……俺は……」
雀の鳴くような声だけが漏れる。
いつだってそうだった。ちぐはぐな存在なのに、自分を大きく見せようとしてきた。
「もう、戦えない」
脳がさっそく思考し、逃げることを考え始める。
この街から出て、もっと都市部へと行き、人混みの中に身を隠せば――。
「はは。こんな時まで逃げることの算段か」
涙をぬぐって、自嘲の表情を浮かべる。
意気地なしが、と自らのスイーパーである部分が囁いた。
だが、どう見積もっても勝てるとは思えないのだ。いや、もしかしたら数パーセントの勝機はあるのかもしれない。
しかし恐怖が全身を縛っている。戦うなと言い続け、お前にその資格などないと怒鳴りつけている。
ふと、レッグホルスターに拾い上げた九ミリが収まっているのを思い出した。
「そうだ。この方法があったじゃないか」
表情が明るくなる。その瞳は虚無に彩られていた。
ホルスターから拳銃を抜く。弾倉が入っているのを確認して、スライドを引いた。
弾薬が押し出され、機関部に到着する。あとは引き金をひけば、弾丸が破壊をもたらすだろう。
将人の言葉が脳裏を過ぎる。
――どうせ挑まなくても終わりだ。そうだろ?
左手でポケットを探った。あの時から、常に持ち歩いている折り鶴がある。
二つの指で掴み、右眼の前へと持ってくる。
相変わらずよく出来ていた。大したものだった。
「悪いな。もう駄目だ」
諦めたようにふっと笑って、銃身を口に突っ込む。
親指を重ね合わせて、引き金の上に置いた。
ぐっと力を入れる。遊びが絞られ、限界まで来た。
情けない男だな、と智仁は最期に思った。




