Op.51「持つ者と持たざる者」
コツ、コツ、コツ……。
静寂を踏み割るように、足音が近づいてくる。
夕焼けに照らされた青年の影は、木製の甲板の上でより大きく、より黒く伸びていく。
その足取りには、焦りも緊張もない。
ただ悠然と、何事もなかったかのように闊歩してくる。
途方もなく長く感じる数秒。
その末に、ミリアの目の前で足音が止まった。
(私は……どうすれば……)
息が詰まり、喉がひくりと震える。
膝から力が抜け、ミリアはその場に力なく座り込んだ。
ここで戦うという選択肢を選べば、次の瞬間には甲板に沈められる。
かといって、交渉や謝罪が通用する相手にも思えない。
今になってようやく、自分たちは決して怒らせてはいけない怪物を刺激したのだと悟った。
「俺がなんでアンタを最後に残したか分かるか?」
「……えっ?」
見上げた先で、黒髪の青年が首を傾げていた。
血に濡れた展望デッキの上に立ちながら、まるで道端で世間話でも始めるみたいな軽い顔をしている。
右手では、刀身が青く発光するブレードが、くるくると弄ばれていた。
「アンタはさ、一応だけどシアちゃんを守ってくれたし、話が通じるといいんだけどさぁ。なんで俺はあんな理不尽な扱い受けてたわけ?」
その声色だけなら、穏やかですらあった。
だが、その青い瞳の奥にあるものは、あまりにも冷えきっていた。
一つ返答を間違えれば、自分の命はここで終わる。
ミリアにはそれが、はっきりと分かった。
(なんて、答えるべきなの……)
彼には魔人の疑いがあった。
だから拘束は必要だった。
でも、やり方は性急で強引すぎた。
令状もなく、失礼な態度で囲んだ。
暴走気味のアレクやホルシュを止められなかったのも、自分だ。
ミリアはそれを素直に伝えるべきか、こちらの正当性を主張すべきかを迷う。
しかし、悠長に悩むことなど許されなかった。
目の前に立つ青年の身体から解き放たれる魔力が、大きく波打ちながら絶え間なくミリアへ叩きつけられる。
「あ、ぅ……っ、うぅ……」
声が出ない。
膨大な魔力の海に溺れたように、呼吸さえままならなかった。
座り込んでいるはずなのに、自分の足元さえ分からなくなっていく。
骨の芯から身体が震え、急速に凍りついていくような感覚。
怖い。
そんな言葉では追いつかない。
ミリアは置物みたいに硬直し、言葉の一つも発することができなかった。
黒髪の青年は、彼女の様子を見てわずかに眉を寄せる。
「あー、これってあれか? 俺みたいな奴とは話す価値もないみたいな? こっちは丁寧に聞いてるのに失礼な奴だな」
軽く笑っているのに、その言葉が落ちた瞬間、周囲の魔力が一段膨れあがった。
ミリアは目を大きく見開く。
彼女の顔色は真っ青を通り越して、真っ白に近い。
寒気が止まらないのに、身体は壊れたみたいに汗を噴き出していた。
――死ぬ。
はっきりと、そう思った。
しかし、次の瞬間だった――
「よくもオレの仲間を……!」
怒気に焼けた声とともに、背後から荒々しい魔力が立ち昇った。
ミリアがはっと振り向く。
黒髪の青年は、ひゅう、と面白がるみたいに口笛を鳴らした。
倒れていたはずのアレクが、折れた右腕をぶら下げたまま、立ち上がろうとしていた。
口の端から血を流し、膝は震え、呼吸も荒い。
満身創痍。
立っていること自体が異常に見えるほどの有様だった。
それでも、その目だけは死んでいない。
「アレク……!」
ミリアの声に、アレクは答えない。
その瞳に映っているのは、ただ一人。
仲間を傷つけ、笑いながら正義を踏みにじった、あの黒髪の青年だけだった。
今も、彼が吐き捨てた言葉が脳裏の奥で焼きついたまま離れない。
――自分のくだらない正義感を恨んで、悔い改めろ。
「……ふざっ……けるな……!」
自分にとって正義とは、誇りであり、自分自身そのものだ。
常に正しくあるための誓いであり、譲れぬ価値観であり、人生そのもの。
それを面白半分で踏みにじり、嘲笑うことなど決して許さない。
「うっ……あぁぁああああああ!」
アレクは歯を食いしばる。
折れた右腕の痛みが、脈打つたびに全身を突き抜けた。
視界は揺れ、膝は今にも砕けそうだった。
それでも、左手で剣を力強く握りしめる。
倒れるものかと、血に濡れた甲板へ足を叩きつける。
もう二度と仲間を残して倒れはしない。
その誓いごと、剣を甲板へ突き立てる。
そして、アレクは自身の胸の前で祈るようにして掌印を結んだ。
「契約顕現……正義の曲技-第一番-天心奮迅!!」
宣言と同時に、アレクの全身から白光が迸った。
全身から噴き上がる魔力が一気に膨れ上がり、踏み締めた足元の甲板がミシリと悲鳴を上げる。
空気がびりびりと震え、周囲に散っていた木片がかすかに跳ねた。
それは、ただの身体強化ではない。
己の正義そのものを力へ変え、悪を打ち倒すための魔法。
アレクは、正義の名を冠する原譜の能力者と契約を結んだ契約魔法師。
祈りを捧げることで、創作された正義の魔法を一部行使することができる。
「オレの正義を執行する!」
怒声とともに、アレクが甲板を蹴り砕く勢いで踏み込んだ。
一歩ごとに空間を押し潰し、そのまま一直線に剣を振り抜く。
魔導戦艦の展望デッキに、金色の閃光が走った。
思わず、黒髪の青年は身を逸らす。
だが、完全には避け切れず、鋭い刃先が頬を掠めた。
刹那、彼の頬に赤い線が走る。
遅れて、赤い雫が一粒だけポトリと甲板へ落ちた。
「あ……?」
青年の声に、ほんのわずかに驚きが混じる。
アレクは剣を構え直し、血の混じる息を吐いた。
「オレの仲間を傷つけるやつは許さない!」
黒髪の青年は自分の頬に触れ、指先についた血を見つめる。
その口元が、ゆっくりと吊り上がっていく。
「ははっ、傷つけられてるのは俺なんですけどぉー!」
次の瞬間、空気が爆ぜた。
鋼の刀身と、魔力で形成された青白い刃が真正面からぶつかり合う。
火花が散り、甲高い金属音が展望デッキに弾けた。
踏み込みのたびに木製の甲板が悲鳴を上げ、周囲の瓦礫が跳ねる。
今まで一方的だった戦場が、ここで初めて拮抗した。
アレクの剣筋は重く、鋭い。
正義という誇りと信念を乗せた剣。
「オレの正義に誓って、必ずお前を倒す!」
一方で、黒髪の青年の剣技は対照的だった。
信念など欠片もない。
ただ心の底から楽しんでいるように、嗤いながらブレードを振るう。
「あっはは! いいねぇ。とっておきの奥の手ってやつ? 他にもあるなら、またぶっ倒れる前に見せてくれよ」
膨大な魔力が、荒れ狂う波のように真正面からぶつかり合う。
互いに相手の刀身を受け流し、弾き、間髪入れずに斬り返す。
黒髪の青年は心底楽しそうに。
アレクは歯を食いしばり、必死の形相で。
両者とも、一歩も譲らない。
一進一退の攻防。
ミリアとシアは息をすることも忘れ、その斬り合いを見つめていた。
その最中、不意にアレクが口を開く。
「お前は……何者だ……!?」
噛み合った刃の向こうで、黒髪の青年が笑った。
「人に名前を聞く時は、まずは自分からじゃない?」
「オレは世界調律騎士団……第三楽隊四席アレク・セオドールだ」
「ホントに名乗っちゃうのかよ」
青年は、面白がるように笑みを漏らした。
しかし、その無邪気な表情とは裏腹に、目にも止まらぬ速度でブレードを振り下ろす。
「まー、名乗ってくれたとこ悪いんだけど、残念ながら俺には名前がありませーん。ほーんと困っちゃうよなぁあ?」
「ふざけやがって……」
「ふざけてねぇよ。こっちは大マジだよ」
薄く笑う黒髪の青年の口調は、相変わらず軽薄なものだった。
だが、刃越しに覗く彼の青い瞳の奥には、嘲りとも虚勢とも違う、妙にぽっかりとした空白。
本当に、自分が何者なのか分からない。
そんな得体の知れない重みだけが、その一言には滲んでいた。
ドンッ――。
次の瞬間、互いの刃が弾けるようにぶつかり合った。
火花が散り、甲高い金属音が展望デッキに響く。
その反動で、二人の身体が同時に後方へ跳んだ。
着地と同時に、ギリギリと靴裏が木製の甲板を削り、木片が跳ねる。
そうして、両者の間にわずかな距離が生まれた。
荒い呼吸が、張り詰めた夕暮れの空気をかすかに掻き乱す。
「ハァ、ハァ……」
アレクの肩が大きく上下していた。
正義の魔法が肉体に与える負荷は、すでに限界を超えている。
折れた右腕はぶら下がったまま、脈打つたびに激痛が全身を駆け巡る。
握っている左手さえ、痺れるように震えていた。
視界が揺れ、肺が焼ける。
膝も、いつ砕けてもおかしくない。
それでもアレクは剣を下ろさなかった。
左手の剣を強く握り直し、その切っ先を黒髪の青年へ真っ直ぐ向ける。
「ハァ……ハァ……これで決める……!」
一方で、黒髪の青年もまた、先ほどまでの余裕一辺倒ではなかった。
頬を掠めた傷からはなお細く血が伝い、肩もわずかに上下している。
握るブレードの切っ先はぶれない。
だが、その青い瞳の奥には、先ほどまでの戯れとは違う熱がわずかに灯っていた。
楽しげな笑みはそのままに。
魔力の出力を高めていくアレクに好奇心旺盛な視線を向ける。
「いいねぇ。面白くなってきた! まだ奥の手があるんだろ? 出し惜しみすんなよ!」
軽口を叩きながら、黒髪の青年もまた魔力の出力を跳ね上げていく。
二人の全身から解き放たれる力の奔流が、激しく周囲に渦を巻き起こす。
もはや近づくことすら叶わず、ミリアとシアは固唾を飲んで見守ることしかできない。
正義を背負う者と、名前すら持たない悪童。
夕暮れに照らされた相容れぬ二人が、最後の衝突へ向けて魔力を高めていく。
戦いは、まさに最終局面へ達していた。
そして――
刹那の静寂の末、先に動いたのはアレクだった。
彼の足元で光が走り、魔力が剣へ収束し、鋭く尖り、決着の一撃として形を結んでいく。
「裁け、正義の断剣――!」
叫びと同時に、アレクが甲板を蹴り砕く勢いで踏み込んだ。
その真正面で、黒髪の青年の口元が楽しげに吊り上がる。
次の瞬間には迎え撃つようにブレードを構え、彼もまた強く地面を蹴った。
「ははっ! そうこなくっちゃ! ほら、最後まで俺を楽しませろ!」
夕焼けに染まる展望デッキの上で、二つの影が一直線に駆ける。
正義を貫こうとする刃と、嗤いながらすべてを薙ぎ払おうとする刃。
両者の魔力が衝突寸前にまで膨れ上がり、空間そのものが悲鳴を上げた。
互いの刃が、あとわずかで届こうとした――その瞬間だった。
「そこまでだ!」
凛とした男の声が、展望デッキを切り裂いた。
続けざまに、二つの影が戦場の中央へ割って入る。
一つは、隊服の白いマントをなびかせた赤茶髪の男。
もう一つは、肩口までの金髪を揺らす、茜色の瞳の少女。
夕焼けを背に現れた二人の姿に、展望デッキの空気が一変する。
決着は、寸前で断ち切られた。
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