ep.06 マリーゴールド
「あの」
奈央が少し不安げな表情で話しかけてくる。
「どうしたの?」
「もし良かったら…ちょっとだけ対人、付き合ってもらえませんか。壁打ちだけだと、物足りなくて」
「ああ……! いいよ。全然オッケー」
対人というのは、バレーの基礎練の一つだ。二人で向かい合って、ボールをパスしあう。
「いきます」
「よし、来い!」
奈央がボールを掲げ、俺の方に打ち込んでくる。
「お、なかなかイイ球打つね」
高々とレシーブを上げると、奈央からトスが返ってきた。
俺は「いくよ」と言ってそのままボールを打ち放つ。
バシン、と手のひらにミートして、気持ちよく奈央の元にボールが向かった。
久々にボールに触ったけれど、そこまで感覚は鈍っていないようだった。
奈央が、「はい!」と言ってレシーブをする。
ふわりと浮かんできたボールを、俺は両の手でキャッチし優しくトスを返す。
瞬間、少しだけ陰っていた空からにわかに光が溢れて、構える奈央を照らした。
俺は動揺して、打ち込まれたボールのレシーブを失敗した。
「あ! ごめんなさい……」
イージーボールを弾いた俺を見て、奈央が謝ってきた。
「いや、今のは完全に捕れるボールだった。こっちがごめん」
夏の夕暮れに、こうして対人をする——俺は、大事な事を思い出していた。
中学の頃、体育館が満足に使えず、こうして外で対人をすることがよくあった。
バレーを始めたばかりで、上手くなっていくのが本当に楽しい時期だった。
夕暮れから、真っ暗になってボールが見えなくなるまで、仲間と無心にボールを追いかけた。
あれは、なんだっけ。夏の総体の前で、みんな燃えていたんだっけ——。
「どうかしました?」
考え事に耽ってしまったせいで、奈央が心配そうにこちらを見ていた。
「ごめん。なんでもないよ」
俺がそう答えると、奈央はきまり悪そうに、ボールを抱えたまま訊ねてきた。
「ちょっと、質問してもいいですか」
「いいけど。どうしたの?」
奈央の表情が真剣だったので——肝が冷えた。
何を訊かれるんだろう。やっぱり俺がここに来たこと、よく思ってないのかな。
そんなことを思ってしまった。
「たまに、上手く打てないことがあるんです。しっかりミートさせる方法って、あるんですか?」
しばらく呆けて、奈央の顔を見つめたまま固まってしまった。
質問って、バレーのことだったのか。
いや、よく考えたら、そりゃそうか。
「それなら——強く打ち込もうとか、叩きつけるとか考えないほうがいいよ」
俺が話し始めると、奈央の表情はまた一段と真剣なものになった。
それがわかった俺は、ジェスチャーを交えつつ話を続けた。
「手のひらでボールをしっかり捉えれば、力む必要はないんだ。肝心なのは、手のひらとボールが、噛み合うこと」
「……なるほど。もう一回いいですか?」
「うん、全然いいよ」
俺は思わず笑ってしまいそうだった。この子、案外一生懸命なんだなぁ。
夕暮れのなか、俺の言ったことを忘れないように、何度も素振りをするその姿に、妙な懐かしさを覚えた。
ひとしきり素振りをしたあと、奈央は「いきます」とボールを構え、再び対人の時間が始まった。
「……あの」
奈央がボールを追いかけながら、俺に質問してくる。
「ん、何?」
「ポジションはどこだったんですか」
「俺は、レフト。一応エースだったんだ」
奈央は「すごいじゃないですか」と言いながらボールを追いかけ、高くトスを上げた。
「じゃあ、奈央……さんは?」
「私もレフトで、一応エースです……」
「お、すごいね!」
その言葉とともに、奈央に向けてボールを打った。
しかし、その打球は弾かれ、奈央の手から後方へと飛んでいった。
「全然、すごくなんかないですよ」
奈央は表情を曇らせていた。何か、まずいことでも言ってしまったんだろうか。
ただ、それ以上訊ねる気にもならず、確かめることはできなかった。
その後も、こんな調子でしばらく二人で対人を続けた。
「そろそろ休憩にしませんか」
奈央はそう言うと、家の表の方へと駆けて行った。
玄関の脇には水道があり、勢い良く蛇口をひねって水を飲み始めた。
水道の下にはバケツに入ったキュウリの束が置かれていた。
「おばあちゃんかな。こんなとこにおきっぱなしで……いいや、水入れちゃえ」
そう言って、バケツにじゃばじゃばと水を入れていく。
青々としたキュウリの群れが、気持ちよさそうに、ぷかぷかと水の中に浮かんでいく。
「どうせだから、水もあげちゃうか」
続けざまに、近くにあった煤けたジョウロに水を入れていく。
そして玄関まわりの花壇に、ばーっと、何というか大雑把に、水を蒔いていく。
「うん、これでいいかな」
そう言うと奈央は満足げに、歯を見せて笑った。
花を見つめる奈央の横顔が楽しそうだったので、訊ねてみた。
「このオレンジの花は、なんていうの?」
「それは確か……マリーゴールドだと思います」
「そうなんだ。綺麗だね、なんか夏っぽくて」
その燃えるような橙色に、俺は不思議と目を奪われた。
「マリーゴールド、素敵ですよね。夏の花なら、私はひまわりも好きですけど」
「それも定番だね」
俺たちのこんな他愛ない会話はよそに——
夏の明るい夕日を浴びて、花壇の花達は元気に揺られていた。
「もう少しで部活も終わっちゃうなぁ……」
奈央がため息を漏らすように、口にした。
「そういえば最後の大会があるって言ってたね。総体も終わったこの時期に、何の大会があるの?」
少し無粋かなと思いつつも、純粋に疑問だったので訊いてみた。
「地区の、夏季大会です。ちっちゃいですけど……どうしても勝ちたくて」
「そっか、地区大会か」
俺がそう言うと、奈央は大きく頷いてみせた。
「最後に、みんなで何かを成し遂げたいなって……」
抱えたボールを愛おしそうに眺める奈央を見て、俺ははっとさせられた。
そうか。この子は——本当にバレーボールを愛しているんだ。
「奈央さんは……バレーがすごく好きなんだね」
「はい、好きです! できることなら、ずっとみんなでバレーしていたいです。ずっと、このまま……」
照れ隠しなのか、奈央はちょっと苦笑いだった。
「#NULL!さんは、バレーやめちゃったって言ってましたけど……」
目の前のマリーゴールドが、風に揺れて夕焼けに溶ける。
「大学に行ったら、きっと続けるんですよね」
遠くで、クマゼミの声が幾重にもなって響いている。
「きっと、上手いだろうし」
奈央の双眸がこちらを向き、俺の目と重なった。
「あ……」
瞬間、思考が停止して、何も言えなくなる。
奈央の言葉が俺の胸に突き刺さって、じんじんと痛みを感じた。
何も答えが浮かばないのと同時に、俺は自然と口を開いていた。
「……なんの事情も知らないくせに」
「え……?」
「ごめん、先に家の中戻ってるね」
戸惑う奈央をよそに、俺は急いで家の中へ戻り、二階へと駆け上がった。
——俺は何をやってるんだ。
どうしてあんな態度をとってしまったんだ?
奈央は何も悪くないのに。
俺はただ、奈央が羨ましかった。羨ましくて、羨ましくて、仕方なかった。
屈託なく「バレーが好きです」と言い切れる奈央が、羨ましかった。
俺にとってバレーは「好きだった」ものに成り果てていたから、今、この瞬間に、バレーができる奈央が、羨ましくて……悔しかった。
そして相変わらず、腰からはあの鈍い痛みを感じた。
たった一瞬、奈央と対人をしただけだったのに……。
部屋に戻ってからも、奈央のバン、バン、という壁打ちの音はしばらく聞こえた。
俺はその後、夕飯の時間まで部屋に篭って勉強に没頭した。
奈央についてしまった悪態も、バレーのことも、これからの事も、何もかも忘れたかった。