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夢の向こう側、ぶどう畑の夏  作者: 富澤南
第2話 ぶどう畑の夏
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ep.05 夏の入り口

 自分の荷物を二階の部屋に入れ、一階のリビング(と言っても、畳張りなのだが)へ降りると、台所から出てきたおばさんにすぐに声をかけられた。


「悪いじゃんね。奈央がうるさいと思うけど、許してあげて」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ」

 俺はすぐにあの子のことだな、と察して、笑顔で答えた。


「奈央ちゃんは、今何年生なんですか?」

「高三だよ。だから受験なの」

「え、そうなんですか」

 俺は自分と二つしか歳が変わらない事に驚いた。


「全然勉強する気がないから、困るじゃんね。#NULL!君勉強教えてあげてよ」

 そう言われて俺は、「それはさすがに」と苦笑してしまった。


「ここまで来るの、迷わなかった?」

「あ、それが。案外すんなり来れましたね」

 俺がそう言うと、おばさんは「それはすごい」と感心した様子だった。

 確かに小道が多かったので、義父の地図がなければ迷っていたかもしれない。



「そうそう、スイカがあるんだった。切ってあげるから、#NULL!君食べなよ」

「そんな、悪いですよ」

「いいのいいの。暑い中歩いてきて、喉も渇いたでしょう。今、冷たい麦茶とスイカ出すから。待っててね」

「ありがとうございます」

 ぱたぱたと支度を始めるおばさんを前に、俺も断ることができなかった。


 遠慮しつつも、炎天下の中を歩いてきてとても疲れていたから、冷たい麦茶にスイカ、考えただけでワクワクしてしまった。



「奈央ー! スイカ切ったげるから、#NULL!君と一緒に食べたらー!」

 おばさんが、階段下から二階に向かって呼びかける。

 しかし反応はなく、奈央が下に降りてくる様子はなかった。


「うーん。あの調子じゃ、来ないかも」

 おばさんは俺の方を見て、申し訳なさそうに苦笑いした。

「いえいえ、仕方ないですよ。こっちも突然押しかけて、申し訳ないです」

 いきなり女子高生が目の前に現れても会話に困るので、俺は正直ほっとした。


「ちがうの、あの子人見知りだから。慣れるまで、ちょっと時間がかかるかもね」

 おばさんはそう言い残して、いそいそと台所へと入っていった。



 しばらくすると、俺の期待通りのスイカと、氷がごろごろと入った麦茶のグラスが出てきて、思わず「うわ、すごい!」と感動が口をついて出てしまった。

「いただきます」と言ってスイカを頬張ると、まだ少し早い夏の入り口をかじったような気がして、受験勉強をしに来たというのに、心が躍った。



「ごめんね、こんなスイカしかなくてさ。夜は、もうちょっとちゃんとするからね」

「いや、とんでもないです」

 俺はおばさんの言葉にかぶりを振った。

「スイカ、久しぶりに食べましたよ。こんなに美味しかったんですね」

 感激してそう言うと、おばさんは少し笑って「それならよかった」と安堵の表情を浮かべた。



 そんな風にして——俺はスイカを食べながらテレビで昼過ぎのワイドショーなんかを流し見し、まだ始まったばかりのゆったりとした夏の時間を過ごしていた。


 すると、ぱたぱたぱた、と慌ただしい音が聞こえてきて、玄関の方から声がした。

「お母さーん! ちょっと、出かけてくるからね」

「あら、どこ行くの」

「ちょっと友達と勉強しに行ってくる」

「勉強なんて、家でもできるのに」

「家じゃ集中できないの!」

 どうやら、奈央とおばさんがやりとりをしているようだった。

 俺はもう食べきったスイカを眺めながら、ぽかーんとその会話に耳を傾けていた。



「じゃあね!」

「ちょっと奈央、夕飯はどうするの」

「多分夕方には帰ってくるから、食べる!」

「気をつけて行くのよ!」


 そして勢いよくドアを閉める音がしたかと思うと、窓の外からガシャ、と自転車を出す音が聞こえた。

 奈央は元気に出かけていったようだ。



 俺は一連のその様子を見て、このクソ暑いのに元気だなーなんて思った。

「ごちそうさまでした」と言いながらスイカの器を台所まで運んでいき、そのまま自室である二階の部屋に戻った。



 畳六畳ほどはあろうかという部屋に、整然とたたまれた布団が置いてあって、大きな窓が一つあった。窓からは山あいの緑の景色と青空が広がっていた。

 窓の横に小さな机がひとつ置かれていて、端っこには扇風機なんかもあった。


 扇風機のスイッチを入れて、心地良い風を浴びながら外の景色を眺めると、「夢みたいなところに来ちゃったなぁ」と思った。

 おまけに、窓際に吊るされたくすんだ風鈴の「チリン」という音が、その夢見心地になおさら拍車をかけるようだった。


 あんまりに気持ちいいものだから、俺はそのまま畳まれていた布団にもたれかかって目を閉じた。

 こんな状況になっても浮かんでくるのはやっぱりバレーのことだった。

 半分眠りに落ちていくフワフワとした頭のなかで——

 コートを駆け巡ったあの日の光景とか、美香に言われたあの一言とか、春高の決勝で羽ばたいていたあのエースのこととか、色んな記憶がないまぜになって頭を過った。


 そんな事を考えているうちに俺は眠ってしまって、目が覚めると辺りはすっかり夕方の光景に様変わりしていた。



 さっきまでの真っ白な陽の光ではなく、景色には若干オレンジのフィルタが掛かっていた。

 体中汗だくになっていたので、俺はリュックに入っていた生ぬるい水を飲んだ。

 寝ぼけてしばらくぼーっとしていると、窓から風が入ってきて風鈴が音を立てた。

 ああ、やっぱり夢じゃなかったのか、なんてぼんやりと考えていると、「バン、バン」とボールを弾くような音が外から聴こえた。


「なんだなんだ」と不思議に思って、窓から外を眺めてみても、その音の正体は掴めなかった。

 俺は仕方なく、起き抜けの怠い体で一階に降りていき、外へ出た。

 夕方とはいえ、外に出ると熱気が一気に押し寄せてきて、心が折れそうになった。

 とても近くで、ジワジワジワジワ…と蝉が鳴く声が聞こえた。


 書道教室となっているもう一つの玄関の前には、すでに沢山の自転車が止まっていた。

 どうやら今日は書道教室の日のようだ。

 おばあちゃん——義父の母にあたる人がここで書道教室をしている、というのは話に聞いていた。


「もしかしたら、さっきの音はこの教室からだったのか?」なんて思ったけど、家の裏の方から「バシ!」とボールを叩く音が聞こえたので、俺はすぐにそこへ回った。


「あ」

「……どうも」

 そこには、家の裏手の斜面に向かって壁打ちをしている奈央がいた。


 しかも、持っているのは紛れもなくバレーボールだった。


 瞬間、心臓がばくんと音を立てた。


「練習……かな? バレーするんだね」

「ええ…まあ」

 奈央はそう言うと、軽く頷いて再び壁打ちを始めた。

「三年生って聞いたけど、部活はまだ引退じゃないんだ」

「……はい。最後の試合がまだあるんで」

 練習の邪魔をされたくない、とでも言わんばかりに、奈央は俺の質問に淡々と答えた。


「バレーって、楽しいよね」

 俺のその一言にはっとしたように、奈央はこちらを振り返った。


「バレーやってたんですか?」

「うん。ずっとやってたよ。大好きだった」

「すごい。偶然ですね」奈央は驚き、わずかに笑顔を見せた。

「そういえば、東京って——どんな高校だったんですか?」

 先ほどまでの平板な顔色が一変し、奈央の瞳は輝いていた。


 俺はそれに気付いて少し嬉しくなりながら、会話を続けた。

「まあまあ強かったんだよ。東真学園っていう……」

「うそ。聞いたことあります!」

「そっか。それは嬉しいな」

 奈央の顔には笑顔が咲いていた。なんだか照れくさくて、しばらく俺は黙っていた。


 ジワジワジワ……という蝉の声が俺たちを包んで、少しだけ空間が間延びした。

 奈央は、一心に壁打ちを続けていた。


「じゃあ、けっこう本気でやってたんですか」

「本気?」

 奈央の質問を、俺は自然と聞き返してしまっていた。


「関東大会とか、全国とか……目指してたんですか」

 俺は言葉に詰まった。でも、答えないというのもおかしいだろう。

「……まあね。春高出場とか、もっと言えば優勝とか……考えてたな」

「やっぱり、そうなんですね。でも、もうバレーは?」


 奈央の質問で、一瞬フラッシュバックする記憶。

 俺はぐっとこらえ、会話を続けた。


「まあ、色々あってさ。やめちゃったんだよね」

「そう、なんですか……」

「ん。まあね」


 時たま吹き抜ける風が、木々のさざめきと共に少しだけ涼しさを運んでくれた。

 家の表の方から、書道の帰りなのか子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。

 もう辺りはすっかり、夕焼けに溶けていた。


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