ep.05 夏の入り口
自分の荷物を二階の部屋に入れ、一階のリビング(と言っても、畳張りなのだが)へ降りると、台所から出てきたおばさんにすぐに声をかけられた。
「悪いじゃんね。奈央がうるさいと思うけど、許してあげて」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ」
俺はすぐにあの子のことだな、と察して、笑顔で答えた。
「奈央ちゃんは、今何年生なんですか?」
「高三だよ。だから受験なの」
「え、そうなんですか」
俺は自分と二つしか歳が変わらない事に驚いた。
「全然勉強する気がないから、困るじゃんね。#NULL!君勉強教えてあげてよ」
そう言われて俺は、「それはさすがに」と苦笑してしまった。
「ここまで来るの、迷わなかった?」
「あ、それが。案外すんなり来れましたね」
俺がそう言うと、おばさんは「それはすごい」と感心した様子だった。
確かに小道が多かったので、義父の地図がなければ迷っていたかもしれない。
「そうそう、スイカがあるんだった。切ってあげるから、#NULL!君食べなよ」
「そんな、悪いですよ」
「いいのいいの。暑い中歩いてきて、喉も渇いたでしょう。今、冷たい麦茶とスイカ出すから。待っててね」
「ありがとうございます」
ぱたぱたと支度を始めるおばさんを前に、俺も断ることができなかった。
遠慮しつつも、炎天下の中を歩いてきてとても疲れていたから、冷たい麦茶にスイカ、考えただけでワクワクしてしまった。
「奈央ー! スイカ切ったげるから、#NULL!君と一緒に食べたらー!」
おばさんが、階段下から二階に向かって呼びかける。
しかし反応はなく、奈央が下に降りてくる様子はなかった。
「うーん。あの調子じゃ、来ないかも」
おばさんは俺の方を見て、申し訳なさそうに苦笑いした。
「いえいえ、仕方ないですよ。こっちも突然押しかけて、申し訳ないです」
いきなり女子高生が目の前に現れても会話に困るので、俺は正直ほっとした。
「ちがうの、あの子人見知りだから。慣れるまで、ちょっと時間がかかるかもね」
おばさんはそう言い残して、いそいそと台所へと入っていった。
しばらくすると、俺の期待通りのスイカと、氷がごろごろと入った麦茶のグラスが出てきて、思わず「うわ、すごい!」と感動が口をついて出てしまった。
「いただきます」と言ってスイカを頬張ると、まだ少し早い夏の入り口をかじったような気がして、受験勉強をしに来たというのに、心が躍った。
「ごめんね、こんなスイカしかなくてさ。夜は、もうちょっとちゃんとするからね」
「いや、とんでもないです」
俺はおばさんの言葉にかぶりを振った。
「スイカ、久しぶりに食べましたよ。こんなに美味しかったんですね」
感激してそう言うと、おばさんは少し笑って「それならよかった」と安堵の表情を浮かべた。
そんな風にして——俺はスイカを食べながらテレビで昼過ぎのワイドショーなんかを流し見し、まだ始まったばかりのゆったりとした夏の時間を過ごしていた。
すると、ぱたぱたぱた、と慌ただしい音が聞こえてきて、玄関の方から声がした。
「お母さーん! ちょっと、出かけてくるからね」
「あら、どこ行くの」
「ちょっと友達と勉強しに行ってくる」
「勉強なんて、家でもできるのに」
「家じゃ集中できないの!」
どうやら、奈央とおばさんがやりとりをしているようだった。
俺はもう食べきったスイカを眺めながら、ぽかーんとその会話に耳を傾けていた。
「じゃあね!」
「ちょっと奈央、夕飯はどうするの」
「多分夕方には帰ってくるから、食べる!」
「気をつけて行くのよ!」
そして勢いよくドアを閉める音がしたかと思うと、窓の外からガシャ、と自転車を出す音が聞こえた。
奈央は元気に出かけていったようだ。
俺は一連のその様子を見て、このクソ暑いのに元気だなーなんて思った。
「ごちそうさまでした」と言いながらスイカの器を台所まで運んでいき、そのまま自室である二階の部屋に戻った。
畳六畳ほどはあろうかという部屋に、整然とたたまれた布団が置いてあって、大きな窓が一つあった。窓からは山あいの緑の景色と青空が広がっていた。
窓の横に小さな机がひとつ置かれていて、端っこには扇風機なんかもあった。
扇風機のスイッチを入れて、心地良い風を浴びながら外の景色を眺めると、「夢みたいなところに来ちゃったなぁ」と思った。
おまけに、窓際に吊るされたくすんだ風鈴の「チリン」という音が、その夢見心地になおさら拍車をかけるようだった。
あんまりに気持ちいいものだから、俺はそのまま畳まれていた布団にもたれかかって目を閉じた。
こんな状況になっても浮かんでくるのはやっぱりバレーのことだった。
半分眠りに落ちていくフワフワとした頭のなかで——
コートを駆け巡ったあの日の光景とか、美香に言われたあの一言とか、春高の決勝で羽ばたいていたあのエースのこととか、色んな記憶がないまぜになって頭を過った。
そんな事を考えているうちに俺は眠ってしまって、目が覚めると辺りはすっかり夕方の光景に様変わりしていた。
さっきまでの真っ白な陽の光ではなく、景色には若干オレンジのフィルタが掛かっていた。
体中汗だくになっていたので、俺はリュックに入っていた生ぬるい水を飲んだ。
寝ぼけてしばらくぼーっとしていると、窓から風が入ってきて風鈴が音を立てた。
ああ、やっぱり夢じゃなかったのか、なんてぼんやりと考えていると、「バン、バン」とボールを弾くような音が外から聴こえた。
「なんだなんだ」と不思議に思って、窓から外を眺めてみても、その音の正体は掴めなかった。
俺は仕方なく、起き抜けの怠い体で一階に降りていき、外へ出た。
夕方とはいえ、外に出ると熱気が一気に押し寄せてきて、心が折れそうになった。
とても近くで、ジワジワジワジワ…と蝉が鳴く声が聞こえた。
書道教室となっているもう一つの玄関の前には、すでに沢山の自転車が止まっていた。
どうやら今日は書道教室の日のようだ。
おばあちゃん——義父の母にあたる人がここで書道教室をしている、というのは話に聞いていた。
「もしかしたら、さっきの音はこの教室からだったのか?」なんて思ったけど、家の裏の方から「バシ!」とボールを叩く音が聞こえたので、俺はすぐにそこへ回った。
「あ」
「……どうも」
そこには、家の裏手の斜面に向かって壁打ちをしている奈央がいた。
しかも、持っているのは紛れもなくバレーボールだった。
瞬間、心臓がばくんと音を立てた。
「練習……かな? バレーするんだね」
「ええ…まあ」
奈央はそう言うと、軽く頷いて再び壁打ちを始めた。
「三年生って聞いたけど、部活はまだ引退じゃないんだ」
「……はい。最後の試合がまだあるんで」
練習の邪魔をされたくない、とでも言わんばかりに、奈央は俺の質問に淡々と答えた。
「バレーって、楽しいよね」
俺のその一言にはっとしたように、奈央はこちらを振り返った。
「バレーやってたんですか?」
「うん。ずっとやってたよ。大好きだった」
「すごい。偶然ですね」奈央は驚き、わずかに笑顔を見せた。
「そういえば、東京って——どんな高校だったんですか?」
先ほどまでの平板な顔色が一変し、奈央の瞳は輝いていた。
俺はそれに気付いて少し嬉しくなりながら、会話を続けた。
「まあまあ強かったんだよ。東真学園っていう……」
「うそ。聞いたことあります!」
「そっか。それは嬉しいな」
奈央の顔には笑顔が咲いていた。なんだか照れくさくて、しばらく俺は黙っていた。
ジワジワジワ……という蝉の声が俺たちを包んで、少しだけ空間が間延びした。
奈央は、一心に壁打ちを続けていた。
「じゃあ、けっこう本気でやってたんですか」
「本気?」
奈央の質問を、俺は自然と聞き返してしまっていた。
「関東大会とか、全国とか……目指してたんですか」
俺は言葉に詰まった。でも、答えないというのもおかしいだろう。
「……まあね。春高出場とか、もっと言えば優勝とか……考えてたな」
「やっぱり、そうなんですね。でも、もうバレーは?」
奈央の質問で、一瞬フラッシュバックする記憶。
俺はぐっとこらえ、会話を続けた。
「まあ、色々あってさ。やめちゃったんだよね」
「そう、なんですか……」
「ん。まあね」
時たま吹き抜ける風が、木々のさざめきと共に少しだけ涼しさを運んでくれた。
家の表の方から、書道の帰りなのか子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。
もう辺りはすっかり、夕焼けに溶けていた。




