ep.04 ローファー
そんなわけで、簡単な着替え一式と勉強道具を担いで一路義父の故郷へと向かうことになった。
新宿から山梨方面に向けて、慣れない特急列車に乗る。
平日午前11時の新宿駅は、スーツ姿のサラリーマンと、学生なんかでごった返していた。
しかし、俺のいる九番線ホームは在来線が乗り入れることはなく、ここだけ世界から切り離されたように静まり返っていた。
ホームに、白い躯体が光る特急列車の「かいじ」が到着した。
高一の時、Vリーグの試合観戦のために一度だけ乗ったことのある特急だった。
発車してしばらくすると、車窓からの眺めが徐々に変化していった。
中野、三鷹、八王子、列車が進むにつれて都心からは離れて、風景も明媚なものへと変わっていく。
その光景は、腐り果ててしまった俺が東京という町から強制送還されていくようで、少し可笑しくも思えた。
高尾を越えたあたりからわかりやすく建物が減り、山ばかりの景色に変わった。
そして大月を越えて、長いトンネルを抜けた先に見えた風景は——
「なんだぁこれ」
列車はちょうど山の斜面を走っていて、眼下に広がる麓の街を一望できた。
視界の遥か先には——青空の中にくっきりと稜線を浮き立たせた、深緑の山々が連なっていた。
東京では、こんな景色は一度も見たことがない。
世界が変わった……そんな気がした。
目的地である「勝沼ぶどう郷駅」で下車すると、けたたましいほどの蝉の声が俺を包んで、むわっと熱気を感じた。
全身に、これでもかと日光が降り注ぐような感覚。
でもそれは東京とは違って嫌な熱気ではなく、どこか溌剌とした、爽やかな暑さだった。
吹き抜ける生温い風が、草と土の匂いと、独特な焦げたような匂いを運んできた。
人気のない小さな駅舎の改札を抜けると、目の前には信じられないほどひらけた景色が広がっていた。
少しだけ標高が高く、視界を遮るものが何もないから、遠くの山がよく見える。
空気が澄み切っている。
山と青空の境目がくっきりと浮き立っていて、遠くには麓の市街地が見えた。
さっき車窓から見た景色が、より鮮明になって、そこにあった。
山側を振り返ると、畑のようなものが斜面にいくつも広がっていて、
これが教科書で見た「扇状地」ってやつなのかも、って思った。
視界一帯を鬱蒼とした緑や畑が埋め尽くしていて、「ああ、これは田舎だな」とすぐに思った。
一体なんの畑なのか、無数の木棒が打ち付けられた畑がそこかしこに並んでいる。
よく見れば房のようなものがぶら下がっていて、ぶどう畑か何かなのかな、と思った。
駅に面した道路はそれなりの大きさだが、ぐらぐらと陽炎で揺れていて、滅多に車が通る様子もない。
道沿いには軽トラが止められていて、近所のおばさんたちが世間話をしている。
なんてのんきな所なのか。
生まれてからずっと東京で過ごしてきた俺は、「本当にこんなところもあるんだな」と太陽の熱射線に朦朧としながら思った。
義父からもらった地図を頼りに、駅前の道を右に進んで、線路沿いの坂道をずっと登って行く。
坂道の両側にはサクラの木が植えられていて、木漏れ日のトンネルができていた。
風で木々の葉が揺れると、そのたびに木漏れ日もちらちらと瞬き、まるで川を流れる水の煌きを見ているようだった。
その中を歩いていると、自分の体を木漏れ日がさらさらと通りぬけていくようで、不思議な気分になった。
次第に暑さで頭がぼーっとしてきて、歩いている自分の足が自分のものでないような気がしてきた。
四方から聞こえる、止むことのない蝉しぐれも蒸し暑さに拍車をかけた。
暑くて暑くて、もうダメだ、なんて思っていると突き当りにタバコ屋があって、そこを右に曲がって線路を越えると、義父の実家が見えた。
「ここだ」
その家は、シンプルな三階建ての一軒屋で、家の横に数台分の車庫があった。
庭は広く、一面芝生で手入れが行き届いている。
立派な家だ——そう思うと、マリーゴールドの植えられた庭先に「中里書道教室」と書かれた看板が立っており、玄関が二つあった。
玄関まで続く道には色とりどりの花が植えられていた。
「書道教室ってことはここだな……」と思いつつも、なかなか踏ん切りがつかずにその場で立ち尽くしていた。
家の隣にはまた木の棒の打たれた畑があって、「ここにもあるよ」と思ってまじまじと眺めた。
やっぱり実っているのはぶどうのような果実で、この家でもぶどうを作ってるのかな、なんて余計な事を考えていた。
そんな風にして、汗だくで数分家の前に立っていると、ガシャン、と自転車を降りる音が聞こえた。
振り返ると、大きなエナメルのバッグを背負った制服の女の子が立っていて、そわそわした様子で俺を見ていた。
俺は焦って、すぐさま「こんにちは」と言うと、女の子も「どうも……」と小さく会釈をした。
炎天下の中自転車をずっと漕いできたのか、顔は真っ赤だった。
そのまま玄関横の水道の近くに自転車を置くと、慌てて家の中に入って行き、「お母さん、来てるよー!」と声を上げた。
俺は瞬時に、「行かなきゃ」と思って、続けざまで家に入った。
家の中にはおばさんがいて、「はじめまして。#NULL!君来てたんだね」と俺に挨拶してくれた。
「聞いてはいたけど、やっぱり背が大きいね」
そう言うと、下から上へという感じで、まじまじと俺を眺めた。
ちなみにおばさんは義父の弟の嫁さんに当たる。俺も初対面で緊張していたが、ここに来るまでに何度か電話で話した事はあった。
「お世話になります」
俺がそう頭を下げると、優しく笑って「#NULL!君の部屋は2階の空いてるとこだから。荷物、入れちゃってね」と言ってくれた。
そのあとすぐに、おばさんが二階に向かって声をあげた。
「奈央! ローファーのかかと踏んじゃダメだっていつも言ってるでしょ!」
するとすぐに二階から、「うるさいなぁ! 分かったよ!」という女の子の声が返ってきた。
そこには確かに、かかとを踏み潰されたローファーが転がっていた。
俺はなんだかそのやりとりが微笑ましくて、思わず笑ってしまった。