第5章 時間と空間はこうして創られた 宇宙の起源
この世界には何も存在しなかった。
「無が存在する」ということは、
「この世界は完全無である」という概念と同一である。
これは「存在する無」という「個の概念」が
「完全無」という「世界の概念」と同じものだとする
世界原理である(個と全は同一のもの)。
このために「存在する無」として
「存在をもたないのに存在する実体」
点の概念(個・0次元世界)は、
線の世界(全・点の無限大の連鎖・1次元世界)と同じものとして
同時に発現する。
(こうして次元世界の異なる概念は同時に発現する。
「点の無限大の連鎖」は「線」と「同じもの」である。
しかし点と線は、それぞれが「異なる実体」なのだ。
「同じもの」なのに異なる存在を持つ実体、
そのそれぞれが連鎖することによって
異なる概念宇宙が同時に生まれている。
これが我々の宇宙が「多重次元構造」を伴う理由である。)
無や完全無、
点や線、
線と面、
面と空間、
これらは実体として「同じもの」なのだ。
同じものが
「どのベクトルの中に」存在するのか、
その概念が異なるだけである。
これも全ての概念が「存在する無」であるという
世界原理(次元共有の大原理)である。
無が生みだした無限大につづく線の概念世界、
それが「1次元線世界」である。
「線世界」もまたそれでのみで完結する世界であるが、
今度は1次元世界が2次元概念を生みだす
「次元共有の大原理」がはたらく。
次はその原理を追ってみよう。
線の世界は存在しない。
この線の概念世界も(1次元世界における)
無(点)の無限大の連鎖として完全無である。
すなわち線の世界自体も
「存在する無」として実体なのである。
「存在する無」は無限大に連鎖して
「完全無」の世界を創り出す。
これは「個(無)と全(完全無)が同一である」為に生まれた
最初の力学である。
無が無であり続ける力。
この力学において、
線世界の概念(存在する無)はさらなる実体として
無限大の連鎖を続ける。
これは点の概念が線の世界を創り出した(同じもの)のと同様に、
「存在する無」として
永遠に連鎖する線の概念の発現である。
それが「2次元平面世界(完全無)」の誕生である。
無限大に連鎖する線世界と「同じもの」である、
広さの概念世界。
それは無限大に連鎖する線と同じものでありながら
広さの概念として既に線(長さの概念)とは異なる概念宇宙である。
こうして平面世界は新たに面積の概念を持って発現する。
広さとは、線の概念の無限大の連鎖によって
「つながった線の世界」であり
それは既に「長さ」ではない。
これによって面積の世界には「線は存在しない」。
面の世界に存在するとは面の部分を持つことであり、
すなわち「面積を持つこと」である。
このとき無限大に連鎖を続け、
面の概念を創り出したはずの線世界に
面積(広さ)の概念はない。
広さの概念における長さは「存在する」ものではなく、
概念としての面積の構成要素であり、
既にそれは面積の一部分(同じもの)である。
このように長さの概念自体が「存在するもの」ではなく
「実在する概念(実体)」となる。
この時点で線の概念(長さ)は、
広さの部分と同じものであり
面の世界の部分を持たない(面積を持たない)モナドなのだ。
面世界における線は実体であり、
存在する無、点、と概念を同じくする
「存在する無」である。
「完全無(点)」が「1次元宇宙(線)」と同時に実在するように、
一方向のみにベクトルが存在するという1次元世界「長さの概念」も
やはり単独では存在することができない。
つまり他の方向にも「概念がある(存在する)」としてひろがる
「面の概念」と同時に出現しなければ、
線世界もまた実在することはできない概念なのだ。
このように「線世界」は
「面世界の概念の一部分」(同一のもの)である。
したがって「線世界」が存在するのであれば
「面世界」も同時に実在する(多重次元構造)。
これが「無が存在する」という「実体(全ての世界)があること」であり、
線の概念世界はこの「存在する無」の部分として、
かつ面の部分を持たない面積の構成要素として
同じ実体(存在する無)である。
これが1次元線世界における「次元共有の大原理」である。
「線の概念世界」の実在(現実にあること)は、
「面の概念世界」の存在を現実のものへと引きこみ、
ここに平面世界「2次元宇宙」は誕生する。
無が存在することは
点という実体が存在することであり、
これは同じ概念として
線が存在する、
面が存在する、という同じ現実である。
(そのそれぞれが次元世界である。)
前述のように「1次元線世界」は、
「存在する無(点)」の無限大の連鎖によってでき上がった
「完全無(直線世界)」である。
そして「2次元平面世界」は、
今度は「線の概念(存在する無)」が重なり構築された
「面積の世界(完全無)」なのだ。
「無」が「存在する」ためには1次元概念が必要であり(同じもの)、
そして「線の概念」が存在するためには
今度は「面の概念」が必要であるという、
いずれも概念世界としての次元世界の話である。
けれども「完全無」は
実在する世界の大前提であり「実体」である。
そのために1次元概念や2次元概念も共に実在する宇宙、
「1次元世界」あるいは「2次元世界」として同時に発現する。
そして「2次元面世界」においては、
1次元世界である「線の概念」が
「実在する無の概念(存在する無・無限大に連鎖する実体)」であり、
すなわち2次元世界のすべてを構築する世界の構成要素、
「平面世界の起点(実在する無の概念)」である。
従って2次元平面世界の構成要素は
「線と、その線を構築する点」の2つである。
この構成要素を2つだけ持って生まれた世界、
これが面の概念世界が2次元世界と呼ばれる所以である。
次元世界の前に付けられる数字は、
その世界の持つ構成要素の数によって
決められている。
宇宙物理学の一部で扱う
空間を折り畳むことによって増加するベクトルなど
実はこの世界には存在しない。
空間は常に外側に向けて拡大するが、
それが相対的には内側に見えているだけなのである。
世界はもっと単純なのだ。
今度はその「2次元平面世界」が実在した結果、
同様に「平面世界が実在するための必要十分条件」として
「3次元空間世界」は出現する。
そして平面世界もまた、空間概念の中でのみ
その実在を保つことができる世界である。
つまり線世界が平面概念の一部分(原因)として存在するのであれば、
「平面世界」もやはり「空間概念」の一部分である。
空間における面積(広さ)は既に存在ではなく
空間概念の一部分として、
体積の部分を持たない空間の構成要素(原因)である。
このように平面概念が実在する以上、
やはり空間概念も同時に存在する。
同時に存在することが「同じものである」ことであり
枠組みが異なるだけの「存在する無の概念」、
発現した概念(次元世界)が異なるだけの同じ実体である。
空間概念も同じ実体なのだ。
「存在する無」の無限大の連鎖として
「完全無」が存在するのと同様に、
面(存在する無)の概念世界は無限大に重なり
同じ完全無として空間世界を発現させる。
これも「個は全と同一である」という世界原理であり、
空間世界も0次元「実在する無の概念」の一部分として
同じもの(同一)である。
こうして今、我々の宇宙には
「実在する空間概念」が広がる。
しかしこのように「空間概念が存在する」としても、
空間はあるのかないのか特定することができない
「面の無限大の連鎖」としての集合体である。
そしてこの「面の概念」にしても
もとは「線の集合体」であり、
この「線の概念」は
こんどは「点」である「無の集合体(完全無)」にすぎない。
したがって例え「空間概念」が実在するとしても、
「3次元空間世界」とは結局のところ
「0次元世界」である「無の集合体」である。
そして「無の集合体」は「無限大の概念」とも同義であり、
それゆえ空間世界は最初から
「無限大の広がりをもつもの」として誕生する。
この3次元空間世界の発現において、
世界はいよいよ「あらゆる方向へ」と
その無限大の連鎖を広げつづけることになったのだ。
ここまでの「次元理論」をまとめてみると、
次元世界におけるすべての概念は
「無の集合体」としての実体であり、
存在ではない。
もともと「無」しか存在しないこの世界において、
すべてが「無の集合体」という現実は、
当然の結末である。
さらに言えば、
無がその集合体としてどれほどの数あつまろうとも
(それは完全無です)、
無は無でしかなく「存在する無」に変化はおきない。
世界の現実が変化しない理由と、存在する無としての実体に
あらゆる概念があてはまることは確定的である。
こうしてモナド(実体)は予定調和として
この世界を理解する。
0次元世界には「無」しか存在しないため、
その「次元世界の起点(実体)」となる概念は
永遠に「無」だけである。
しかし1次元線世界では、
線の概念における「点」が
その「次元世界の起点(実体)」としての役割を担う。
「線」を生みだすのは永久につづく
「点(ないのにあるという無の概念)」であり、
すなわち線世界とは永遠に連鎖する「完全無」なのだ。
そして2次元「面の概念世界」では
「次元世界の起点」は「線」であり、
3次元世界「空間概念」では「面」が、
それぞれの「次元世界の起点(実体)」として「存在する無」である。
このように「無限大に連続する線世界」が同じものとして
「面の概念世界」であり、
「無限大に重なる面世界」が同じものとして
「空間概念」を創りだしたのである。
同じものであるはずの実体(無)が
連鎖することによって(完全無)構築する、
「存在という概念が異なる」いくつもの多重世界。
こうして同じものでありながら
「異なる次元世界」は概念においても
無限大に連鎖を重ねていく。
従ってこれら全ての「次元世界の起点」は、
呼びかたこそ異なっても等しく「無に部分を置く同じ概念」であり、
ゆえに「無」、「点」、「線」、「面」のいずれもが、
各々の次元世界における「無」と同義としての
同じ実体となる。
無(実体)しか存在しない世界である。
無が完全無を生み出す原理が「存在する無」である。
これが世界の実像「実体の無限大の連鎖」なのだ。
次元世界におけるすべての「次元世界の起点(実体)」は、
それぞれの次元世界における「存在する無」と同一の概念であり、
それぞれが同時に実在する。
実体の無限大の連鎖によって
それぞれの概念世界は構築され、
それは同じ完全無として
「ひとつの同じ存在する無」である。
「完全無」は、無限大に連鎖する「存在する無」なのだ。
そして「存在する無」が「実体」である。
その為に「無」の属性をもつそれら全ての「次元世界の起点(実体)」も
無の永久連鎖の結果として
無限大にひろがる次元世界(完全無)を構築する。
同じものとして。
無と完全無が同じものであること、
全ての実体が同じものであること、
これは個(無)と全(完全無)が同一であるとする
「世界原理」なのだ。
「この世界には何も存在しなかった」
という世界の唯一の大前提、「世界原理」。
ここに同時に
個(実体)が全(実体は無限大に連鎖する)へ向かうとする
「力学」が生まれている。
これは「無が無であり続けようとする」
ただ一つの力学である。
つまり「存在する無」は、
それ自体が「無限大の有」という
拡大するエネルギーなのだ。
これが「存在する無」の正体である。
ここに全ての存在とその力学は集約される。
このことによって我々は、
この世界が多重次元構造をもちながらも
「実在する無」よってつくりだされた、
「同じひとつの無の概念世界」であることを
理解する事ができるだろう。
「次元世界の起点」となる全ての実体は、
いかなる場合においても「実在する無の概念」であり、
すなわち「0次元世界」の昇華した(同じ)姿である。
このようにあらゆる存在が「存在する無」である以上、
この宇宙がいまだに「完全無である」という「世界の実像」は、
決して変わることのない現実として
世界にありつづけるのである。
「この宇宙には何も存在しなかった」
これが始まりであり、その解答である。
それでは3次元「空間概念」までが
「実体である」とは、
一体どういうことなのか。
空間は存在するものであり、
「ない」という概念は持たないのではないのか。
ではこの空間世界が
つぎに共有し創り出す世界とは一体何なのか。
それが「時間世界」である。
この世界が無によって統括された宇宙である以上、
空間世界は「存在しない」。
空間世界も「存在する無」と同格の実体(無の集合体)として、
「あるのにない」という無の状態「次元世界の起点」である。
しかし、ここで疑問が生まれる。
これまでの次元共有の大原理によって、
世界は既に無限大の空間によって満たされたはずではないか、
それは無ではないはずだ、と。
「この世界には何も存在しなかった」と次元理論を始めた時、
「存在する空間」は「無ではない」と私は語った。
完全無として存在する宇宙に、空間など存在しないからである。
無が完全無として存在する(世界原理)ことが、
この世界の真実なのだ。
正解は、3次元「空間」世界は「存在しない」ことである。
だからこそ生まれるのだ。
「存在する空間」を実体(存在する無)として始まる
新しい概念世界が。
これがこの世界が完全無として存在する証明であり、
世界原理が持つ無限大へと働く力学である。
「存在しない時間の概念」が「存在する空間概念」と
同一なのである。
ここに4次元時間世界(時空)が発現する。
つまり「存在する空間」は
「今という存在しない時間」なのだ。
「存在する空間」=「今」(存在しない時間)
「存在する無」である以上、
無は無限大の連鎖として完全無である。
同じ原理により、
「存在する空間」を「存在する無(今)」として
そこに新しい実体概念の連鎖する世界(空間概念の連鎖する世界)、
時間軸(流れる時間)が生まれる。
「無」が「有」と共有するように、
あるいは「線」が「面」と共有するように、
「空間」もまた「時間」と共有しなければ、
そこに実在することはできない。
したがって「空間概念」が実在するものである以上、
「時間」もかならずそこに存在する。
時間軸は現在を起点(今)として過去に向かって拡大する
空間概念の無限大の連鎖である。
この空間概念の無限大の連鎖によって、
「存在する空間」は時間軸の「今という起点(実体)」となり、
それは「存在しない時間(時間軸・過去)」となる。
今という時間は時間軸の中には存在しない。
今という実体世界(存在する空間)は
時間軸における長さの部分を持たないからだ。
時間軸(時間世界)における今は
「存在しない、長さを持たない時間」であり、
「確かにあるのにどこにもない」という
「存在する無」と同一の概念である。
これによって確かに世界に出現したはずの「存在する空間」は
「存在する無」と同一の実在の概念となり、
どこにも存在しない実体(今)となる。
こうして「今という存在しない時間(存在する空間)」は、
実体の無限大の連鎖として
時間世界を創りだすことができたのだ。
これが時間世界(4次元時空)の始まりであり、
時間の流れが世界を統括する理由である。
時間軸は最初から概念世界であり、
それは「存在するもの」ではない。
積み上げられた過去(原因)に世界(空間)が存在するはずはなく、
その全ては「あるのにない」という概念と等しい。
それは「存在する無」と同一の
「確かに存在するのにどこにも存在しない」実体なのだ。
過去の世界は存在せず、
「今という世界」も「存在できない時間軸の概念体」である。
だがそこには、
未来に向かって連鎖し続けるベクトル(今)だけが
残されている。
個(今)が全(時間軸)であるための力学。
無が完全無であるための「存在する無」の力学。
全てが同一の
ひとつの同じ世界であることが理解できるだろう。
この現実が「無が存在する」という世界原理である。
この時間軸の統括(時間による支配)によって世界は、
「全てのものは存在しない」という
「無」本来の概念世界に立ち戻る。
しかしこの時間軸における「存在しない時間」、
今の中だけに
「空間は確かに存在している」。
このように世界全体の現実からみれば、
人間の立ち位置は特異な場所にある。
存在しないはずの概念世界の中でのみ(今という時間)
我々は存在することができるのだから。
もちろん我々が見るこの現実の宇宙の姿も
同じ概念世界である。
存在しない一瞬で、無へと立ち消える現実の、
連鎖するだけの世界。
ないものがあるのか、
あるいは、あるものがないのか。
誰かの見る夢と呼ばれても遜色のない
おぼろげでしかし確かな記憶。
だがその記憶が失われれば
そこに現実の姿は一切ない。
だが今は、まだ感傷にひたる時ではない。
我々は理解するための科学として
次元理論を始めたのだ。
我々はまだこの世界の現実を知らなければならない。
その理解の先に、解答は示されることだろう。
我々は知らなければならないのだ。
完全無の概念の内側が「完全にない」という世界であれば、
その外側には「永遠に存在する」という別次元の同じ世界が広がる。
点という、
今という、
命という、
自我という、
どこにも存在しない
いくつもの「存在する無」を受け継ぎながら、
確実に存在する実体がその先へとつながっていく。
無と「同じもの」として。
無の無限大の連鎖として
力学だけは消えない。
この無と同じものとして
無限大の連鎖を続け、
あるのにどこにも存在しない時間が「今」である。
この「今を起点」として「現実世界」は存在する。
我々の瞳にうつる世界も、
その概念は存在ではなく
実際には実在の世界である。
存在するのではなく、
確かにあるのは力学だけである。
時間軸における存在しない時間「今」、
その「今」の「連鎖の中に」
世界は確かに存在する。
生まれているのか、
きえていくのか、
区別もつかない時間世界の流れの中で、
だが強固な現実の砦は確立されている。
連鎖こそが力学であり、
間違いなく存在する確かな世界なのだ。
それは無を同義として存在する
同じ「無限大」という概念を持つ実在の連鎖である。
我々の宇宙の正体はこの
「存在する力学」である。
全ての概念が存在しない世界の中で、
力学のみが概念を形づくり、
とめどもなく流れ続け、
そこに想いと意志とをつなぎとめる。
存在するのは力学のみである。
力学こそが我々なのである。
確かに「今という空間」は、
無に支配された世界の「存在しない時間」に含まれた
しかし唯一の「存在する空間」である。
だが無に帰属しながらも、
必ずしもそれは無への帰還ではない。
存在する無は完全無へと無限大の連鎖を続け、
存在を広げる力学である。
それが世界の本質にある「拡大の原理」である。
完全無へと向かう無から始まる「世界原理」。
その力学の中心に、
無の概念を持つ全ての次元世界が存在する。
「無は完全無である」
だから世界は無限大の概念持つ現実である。
これが「無の存在する世界」であり、
全てを持たないものが「永遠に拡大する」その原理である。
我々が自覚するこの世界には、
存在するのに何処にもない「今という世界」の
無限大に連鎖した「存在する現実」がある。
さあ、次元理論に戻ろう。
3次元空間世界を実体として
無限大に空間(今)の連鎖する世界、
それが4次元時間世界、いわゆる「時空」の発現である。
(従って時空とは、時間の存在する世界の意味である。
空間の無限大の連鎖が時間の概念を生む。)
これがこれまでの人類には
理解が及ぶことのなかった、
時間の流れる仕組みである。
これも世界原理であり「次元共有の大原理」のもつ、
次元世界創造の力なのだ。
これまでと同様に
「次元世界実在のための必要十分条件」として考えれば、
時間の存在しない空間は実在することができず、
空間をもたない時間軸もまた実在することはできない。
空間の連鎖が時間軸であれば、
空間と時間軸は同じものである。
同じものでありながら
異なる概念世界として時空は新しく発現する。
こうして世界では時間(空間)が流れはじめ、
ここに「4次元時間世界」、
「時間の概念」は創り出されたのである。
このように「時間」もまた、
新しい次元世界の構成要素として
「無の延長線上に実在する」。
その起点は「過去、現在、未来」のうちの「現在」であり、
すなわち「今という存在しない時間(実体)」である。
つまり「今」という「次元世界の起点」も「無と同義」であり、
4次元世界における「実在する無の概念(実体)」なのだ。
この「今」という時間は「4次元時空の起点」ではあるが、
やはり「どこにも存在しない時間」である。
もともと「今」という概念は
人間にはつかまえることのできない時間であることは、
だれもが実感することだろう。
「今はたしかに存在する」、
これはまぎれもない事実ではあるが、
ここが「今」だとよべる瞬間は
実際にどこにも存在しない。
我々が「今」を自覚したときには
それは既に「過去」であり、
「今が存在しない」ということは、
「あらゆる時間軸も(空間も)存在しない」ということである。
けれども一見、不確かにも思えるこの「今」の連続が、
現在から過去をつなぐ
唯一の「時間軸」をつくりだすことは現実である。
「あるのにない」という「今」の概念、
これは「線」世界における「点」の概念とひとしく、
「点」や「今という時間」は「存在するもの」ではない。
これによって我々は「次元世界の起点」となるべき両者が、
ともに「存在する無」の概念を持つ「実体である」ことを
理解することができるだろう。
現実に存在するのは力学だけなのだ。
「今」は「実在する無の概念」であり、
「永遠につづく無(今)の連鎖」、時間軸における
長さの部分を持たない実体である。
すなわち時間世界の起点となる「今」も、
「存在する無」の概念をもつ「(存在する)空間」であり、
この「永遠に(時間軸に対して)連続する空間概念」が
「時間世界」である。
「存在しない今(という空間)」と
時間軸という「全てが存在しない世界」によって、
「存在する時間世界」は「実在する無の概念」
すなわち無と同一である。
この「無」以外に、
「永遠」をつくりだせる概念が他にあるだろうか。
「無」は永久に存在しつづける「完全無」であり、
これは力学である。
したがって「存在する空間」も「存在する」ものではない。
なぜならこの世界は永久に「完全無」なのだから。
そのために空間は常に新しく存在をつづけ
「今という時間」として、存在しない(実在する)。
このように空間も、時間世界の概念の一部分であり、
時間軸の長さという部分を持たないモナド(実体)である。
世界は実体であり、
存在は力学である。
そして我々人間の視点は、
この存在しない今という空間の中から逆に
外側の世界へ対して向けられている。
そして世界と人間のその記憶によって、
存在する世界は出来上がっているのだ。
このように我々の居場所は、
永遠に存在する今の中だけと限定的である。
「次元世界の起点」となる実体は、
いつでもその次元世界の「構成要素」として、
新しい次元世界を無限大に構築する。
けれどもその新しい世界もまた「完全無の概念」を持つ
「無の概念(実体)の永久に連続した姿」である。
これによって全ての世界は、
存在する無から生まれた完全無である。
このために我々は、
数列の概念を理解することはできても
1次元世界には直接触れることはできない。
かつ我々は、1次元世界から派生した空間と
その連鎖である時間の中でこそ、
こうして「今」を生きている。
この現実が「世界のもつ多重次元構造」を理解するうえでの、
丁度よい範例となるのではないだろうか。
次元世界の概念はまちがいなく「実在」し、
その実在する概念の延長線上に
我々の現実世界も確実に「実在」する。
現実を正解に理解するのだ。
そしてこの1次元世界の「あるのにない」という概念自体が、
「無の概念」が「存在する」ためだけに生まれたものである。
このように「完全無」は、
たしかに「実在する世界」である。
「無」が創り出した「線世界」が
途中でとぎれたりしないのと同様に、
「今」は永久の連鎖を続け
決して止まることなく時間軸を創り続けている。
これも「線」と「時間軸」という両者が、
「次元世界」として同じ概念をもつために、
並列してくらべることのできる現象なのだ。
「時間世界」もまた、
無の延長線上に実在する概念であり、
それは4次元時空を構築する
「実在する完全無の概念」にすぎない。
「無、ゆえに無限大」
つまり「今」という「存在する無」も、
この世界に「完全無」が実在するかぎり
永遠に存在しつづけることができるのだ。
このように
「この宇宙には何も存在しなかった。
そして今もなお、この宇宙には何も存在はしない」
という無の概念と同時に、
時空は出現する。
したがって時間の流れる範囲を
「何時から何時まで」と問うこと自体が、
我々にとって何ら意味をなさない問題なのである。
あらゆる時間もまた
「完全無(実在する空間)の概念」にすぎない。
また空間概念の連鎖である4次元時空においては、
そこに存在するできるものは空間以外になく、
この「時間の流れ」が直接的に現れる触媒も
「空間」以外には存在しない。
つまり「時間の流れの概念」は本来、
空間自体の振動として存在することが判明する。
「空間」が存在するからこそ「時間」は動きだすのであり、
この「空間」が存在する以前から
「時間」だけが実在するなどということは起こりえない。
次元理論での「時間軸」は
「永遠に連鎖する空間概念」である。
「今」という「存在しない空間」が「存在しつづける」ために、
そこに「時間軸(時間の流れ)」は生まれるのだ。
そのために時間世界での空間は、
時間軸方向(今)にむけて常に無限大の連鎖をつづける。
過去の空間概念は消滅し、
世界では今という時間(空間)だけが存在を続ける。
その空間の無限大の連鎖が「空間自体のゆらぎ」として、
空間を収縮、あるいは膨張させたのである。
これは時間軸の空間座標における「同じ点」は、
何処にも「存在できない」ということを表わしている。
なぜなら点のもつ概念はつねに「無」であり、
この世界に全く「同じ点」をあらわせる場所は、
厳密にはどこにも存在しないからだ。
そのために時間軸において存在を続ける「今(という空間)」は、
最小限の空間の「ゆらぎ」を発生させる。
かつこの「時間」が
決して止まることのない次元的要素だとすれば、
時間軸における「空間のゆらぎ」も、
「恒久的な空間波」として存在する。
つまり時間は、空間自体の時間軸にたいする永久連鎖であり
「空間波」(空間自体の振動)をともなうものである。
このように次元理論を用いれば、
我々の宇宙が出現する以前から、
「空間」と「時間」は
「すでに用意されていた」ということがわかるだろう。
「空間や時間」は「無が実在するための必要十分条件」として、
この世界に「最初から」あたえられていた概念だったのだ。
我々は「空間や時間が存在する」ことについては、
これまでも認識し、理解していたはずである。
そしてそこに出現する「実在する無の概念」に、
神秘と戸惑いとを感じていたはずなのだ。
存在しない今という時間が
確かに存在すること。
しかしそれは人々の日常のなかで、
主に「経験」としてつちかわれてきた認識であり、
そこに明確な理由や原理があることなど
我々は知るよしもなかった。
そのために空間や時間にたいする解釈は
実に様々なものがうまれ、
「なぜ時間や空間が存在するのか」というその素朴な疑問にも、
正確に答えられる人間はいなかったのだ。
存在と実在が同居する世界に、
我々が抱えこんだ混乱。
同じ実体でありながら
全てにおいて異なる側面を見せる
時間、空間、無、点、命、想い、自我…
アインシュタインの登場により
「空間が存在する」ということについては
科学的な証明がなされた。
そして重力によって時間や空間がゆがむという現実も
発見できたのである。
けれども現代物理学においてさえ、
「なぜ空間や時間が存在するのか」というこの根本的な疑問には、
いまだに明確な回答をあたえることは出来ないでいる。
そしてそのことを理解しようとして今日、
宇宙物理学は一般の人々がはいりこむ余地のないほどまでに複雑化し
「矛盾のさきおくり」というかたちで
その展開はすすめられたのだ。
こうして我々は「宇宙統一理論」から
とり残されてしまう。
現代物理学においても「空間がゆらぐ」という現象は
既に確認されている。
それは「科学」があらゆる現象を探究した結果みつけだした
「発見」である。
けれども「次元理論」では
「無」を理解することによって
「空間がゆらぐ」という現象が最初に存在することを「理解する」。
これが「次元理論」の
「知るための科学を理解するための科学に変える」
その視点である。
したがって「次元理論」の単純さと明確さは、
ほかの理論をよせつけない。
人類にとっての不可解な謎のままであった0の概念。
とくに感性のするどい人間であれば、
この世界が「無と同じもの」ということには
既に気がついていたのかもしれない。
だが無が何であるのか、
無と世界と自我の同一性について、
それを理解することは誰にも出来なかったのだ。
無の概念が「存在する概念」をともなうこと、
点の概念が「存在しない概念」をともなうこと、
我々にはまだ実体の半分の姿しか見えていない。
だが無を理解することによって
「空間と時間の創造」は現実のものとなる。
これは「無」を理解できないかぎり、
空間や時間もその姿をあらわすことはないということなのだ。
今後の宇宙物理学においても
「時空」をとりあつかう場合には、
時間と空間にたいする正しい認識は不可欠である。
数式のみによる理解へと頼ってしまえば、
「実在しない概念」の出現に混乱が生じるだけである。
時空が何か、
時間が何かも知らず、
3次元、4次元世界の重なりが
理解できるはずもない。
人類がほこる優秀な頭脳たちが、長年いくら計算しても、
いまだに「解」へとたどりつくことの出来ない現実に、
我々はいい加減気づくべきであった。
そして「無」を理解する「次元理論」であれば、
全ての存在と全ての次元世界を
ひとつにつなげることは簡単である。
さて、この先の次元理論は、
次なる宇宙「5次元物質世界」の誕生へと章を進める。
この5次元物質世界は、
ここまでに現れた4次元世界「時空」の概念によって
創り出すことができる。
お気付きだろうか。
我々の宇宙を4次元世界と考えること自体が誤りだったのだ。
4次元は時空(連鎖する空間)の概念である。
この時空を背景に
我々の物質世界は生まれてくるのだ。
ここまでの次元理論によって現れた時空世界には、
「物質世界誕生のための材料」が
全てそろっている。
その為にももう少し、4次元「時空」の概念を
詳しく整理しておきたい。
次元理論によって我々が
「空間と時間」に対してより理解を深めることのできる認識は
以下の通りである。
○空間と時間は、物理的にも最初から無限大の概念をもつ。
(最初の空間、4次元時空に「大きさ(範囲)」の概念はない。)
○我々の物質世界が誕生する以前(時間的な意味ではない)から、
空間と時間は既に存在する。
○空間は時間軸による空間自体のゆらぎ(空間波)を持つ。
○ゆえに空間に膨張や収縮がおこり「空間密度」が変化すれば、
「時間(波)」の流れも同様に変化する。
この知識は
「物質が存在する、ということは空間と時間が存在する」
というこれまでの認識を、
「空間と時間が存在すれば物質は存在できる」
という新しい理解へとかえる。
通常、我々が物理学的に「何もない」と認識する「無」は、
この「4次元空間」のような状態をさす。
だがこの「4次元空間」はまさに「空っぽの世界」であり、
「温度でさえも存在することはできない世界」である。
はたして「完全なる絶対零度」、「完全なる真空」という状態が、
この宇宙に存在するのだろうか。
このままでは我々の暮らす
「現実の宇宙の誕生」にはまだ至らない。
我々はここに出現した4次元「時空」と
我々の「この宇宙」とをむすぶ、
もうひとつの絆を見つけださなければならない。
そこにあるのが「物質世界の誕生」である。
このさき「次元共有の大原理」は、
ここに現れた「4次元時空」にどんな可能性をもたらすのだろうか。
キーワードは「物質の誕生」ではなく
「物質世界の誕生」である。
すでに我々の宇宙の材料は提示されている。
あとは時空世界の「次元共有の大原理」を
理解すればよい、ただそれだけである。
次章次元理論は、
いよいよ物質と重力の謎を解明する。
「宇宙統一理論」の登場である。