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アカシック・レコード  作者: The third eyes
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4/23

第4章 世界のはじまり




この宇宙には何も存在しなかった。

それが「全て」のはじまりである。




そこには時間も空間も、

「何か」も「誰か」も、

決してあってはならない。



もしも「何か」が存在するのであれば、

その「何か」はなぜ存在するのかを、

我々はまた理解しなければならなくなる。



それは「誰か」の存在についても同様である。



従ってこの宇宙が誰かの所有物でない限り、

そして我々がその存在を理解するためには、

この宇宙に最初に存在するものは

「無」でなければならない。



「この宇宙には何も存在しなかった」



すなわち我々の世界は「無」から始まる。





この宇宙のはじまりが「無」であるということ、

それがあらゆる知識のおよぶ限界点であり、

我々の科学の出発点である。



したがってそれ以上の詮索は

人間には出来るはずもなく、

ここが宇宙と

その全ての知識の始まりとなる。



つまりこの世界におけるただ一つの現実は、

「この宇宙には何も存在しなかった」

という唯一の認識なのだ。




そしてこの「無」を理解することでしか我々は、

世界を理解することはできない。



現代宇宙物理学においても「無の存在」に対する認識は

次元理論(大統一理論)とも一致する。



けれどもその「無」に対する正しい認識が

現代科学ではまだ確立されていないのだ。




例えば標準理論とされるビックバン理論では、

物質がない状態だけを始まりの無として認識する。

これは「次元理論(多重次元構造を持つ宇宙理論)」の始まりの

「時間や空間さえ存在しない完全なる無の世界」とは

全く異なった認識である。



私がこれから語るのは大統一理論である。

時間や空間だけが別物では困るのだ。



もともと時間や空間の存在を度外視して考え出されたビックバン理論では

統一理論など到底創作出来るはずはない。

ましてや「宇宙の始まりには時間と空間がありました」では

「この宇宙の始まりには誰かがいました」理論とも

何ら変わりはないのである。




現実には、空間や時間もこの宇宙の一部分として

我々と同時に存在する「力学」である。

既に時間や空間が縮む、ゆがむ等の現象は、

物理学においても確認してきたはずなのだ。

それは力学の影響下にある

現実に存在する現象である。




時間や空間も条件によってはその形状を変えていく。

時間や空間に理由を持たせず、

そこにありました、から始めては

その先に展開があるはずもない。

もはや時間や空間の変化を伴わない物理学は、

科学の進歩にたいする弊害である。



我々も本当の知識を見つけだす為には

古い時代からの無知をふりはらい、

自分達のあつかう「科学の正体」を見極めなければならい。




その為にも

「この宇宙には何も存在しなかった」

そこから全ては始まらなければならない。



ビックバンが始まる「場所」も

始まるという概念が存在する「時間」も

全てがない状態で宇宙は生まれたのである。




「この宇宙には何も存在しなかった」




では宇宙の起源に存在する「無」とは、

一体どのようなものなのか。



我々は全ての知識のために、

そしてあらゆる存在を理解する為にも、

まずはこの「無」を理解することから始めなければならない。



これより次元理論(大統一理論)は、

この「無」を理解するために

知識の深淵へと一気におりていく。

読者の皆さま、

どうかしっかりと私について来て頂きたい。




「無を理解することは

全てを理解することである」







始まりに「存在する無」



「無」には大きさ、広さ、長さ、時間、

「あらゆるもの」は存在することはできない。

ゆえに「無」に変化は起こりえない。



つまり「無」はそれ自体で

「永久に完結した世界」である。



この「無」に変化を期待することは愚かであるし、

そこから抜けだせる存在もあるはずはない。



したがって「この宇宙には何も存在しなかった」ということは、

今もなお「この宇宙は永久に無でありつづける」ということを意味する。



無は永遠に無である。




しかしこの無に対する認識で

我々が一番理解しなければならない性質は、

「無が存在する」という事実である。




「無が存在する」とは、何もないということではなく、

その何もない状態が「ある」、

つまり「存在する」ということなのだ。




すなわち永久に完結した否定概念としての「存在する無」は、

「無が永久に存在しつづける」あるいは

「全ての概念は永遠に無である」

という肯定世界をそこにつくり上げている。




無が果てしなく全ての概念に存在する状態、

これが「完全無という世界」である。




「全てがない」という状態が「存在する」世界。

この無の存在する世界が

次元理論で宇宙を認識するときの最初の宇宙、

「0次元世界」である。



0はあるのか、ないのか、

というのは我々の好きなレトリックである。

しかし「存在する無」は現実にある。



我々の現実世界の大前提として

「この宇宙には何も存在しなかった」

という現実が先立つのだ。



この章ではのちほど、

現実に存在する「存在する無」と「実在する概念世界」を

皆様へと提示するつもりだ。




この「実在するもの」とは、

現実世界の概念を支えるために必要となる

「異なる次元世界での現実」である。

(次元世界の意味は後述とします。)



「この宇宙には何も存在しなかった」



それは「無が存在する」ということであり、

「全く何もない」という状態の世界が「ある」、

すなわち「存在する」ということである。



つまり「存在する無」において、

閉じた状態が「無が存在する」であれば、

開いた状態では

「全ての概念が永久に無でありつづける完全無の世界がある」

ということである。




これは同じことではないのか、

そう思われた読者の方もいるだろう。



そのとおり、全く同じである。



閉じた開いたという言葉に惑わされる事なく、

世界の始まりに「無が存在する」という事は

「世界は完全無である」という意味と同じ認識である。



このように0次元世界では

「無(個の概念)は完全無(世界・全の概念)と同一である」。



単独で唯一の概念の「無が存在する」ことは(個)、

あらゆる全ての状態が無として存在する「無の概念世界が存在する(全)」

ことと同じ意味を持つのだ。



この無の概念は、

その後の全ての次元世界に共通する基本概念として

あらゆる宇宙を統括する。



この意味は「全てが無である」、

この世界には何も存在しなかった、

と同義である。



これが「存在する無」という実体(個)が

「無の概念世界」(全)を生みだす原理、

次元世界の発現である。



この「完全無」の概念は、

現在も進行形で現実世界として「無」であり続け、

「無」は今もなお「完全無」として

「0次元世界」に存在する。



全ての次元世界の土台が

この0次元世界、完全無である。



このように「完全無」が理解できれば、

時間や空間も存在しないはずの世界に起きる「ゆらぎ」や、

ましてや「ビックバン」など、

そういった仮説自体が誤りであることには

我々もすぐに気がつけるはずである。



そして物質が存在しない状態だけを「無」として定義するのであれば、

確かに存在するはずの「時間」や「空間」に対しては全くの認識破棄であり、

その後我々が都合よく空間や時間を扱おうと試みても、

正しく組みこめるはずもないのだ。



その誤った認識は、

すでに知識にとっての致命的な欠陥である。




では「完全無」が永久に閉ざされた世界だとして、

それ自体で完結するものであれば、

なぜ我々の宇宙は「現実に」存在するのだろうか。




はじまりが「無」である以上、

この世界には何も存在しないのではないのか。

これが人類の前に長らく立ちふさがった

「知識の壁」であった。





「存在する無」は「何もない」という意味ではない。

そこには「完全無が存在する」という「概念」が生まれている。

「ないのにある」の概念。

完全無として、ないのにあるものが

永久に継続する世界の出現。



それが「現実に存在する世界」であり、

この「存在する(ないのにある)」の概念が

「実体」の正体である。



実体(存在する無)があること、

これが世界の大前提なのだ。



「無」は「全く何もない」という概念が

「全てにある(あらゆる概念に永久に続く)」という状態世界を

そこに創り出している。



この「無(の概念)」が生みだした「無の永久に連鎖する世界」、

それが「完全無(の世界)」である。



したがって「完全無」とは

無限大に連続する「無の概念」であり、

そこには「永久に続くないのにある」という概念世界も

「同時に」生まれている。


(「同時」であることが重要です。これは「同じもの」という理解です。

新しく生まれてきた概念も最初から存在する無と「同じもの」です。)



これが点と線の概念世界(次元世界)である。



点の内側にある概念は

「どこにも存在しない無」であり、

そのために点は体積や面積、長さなどの全ての部分を持たない。

点の外側にある概念は

「確かに存在する無」であり、

そのために点は確かにそこにある実体として

この場所に間違いなく存在する。



そしてその「点という個の概念の無限大の連鎖」、

それが「線という完全無の世界」なのだ。



点が無限大に連鎖する世界がある。

「同じもの」として

線の世界は存在する。


その原因は無が無限大に存在することである。




無(個の概念)が完全無(全の概念)であること。




点の概念は、

無が存在する、無が無限大に存在する、

という「無しか存在しない世界」である。

この概念が点の無限大の連鎖を生み、

無のみが構成要素となって成立する世界、

0次元世界を確立する。

すなわち点が「存在する無」であり、

全ての始まり、原因となる。



そして線は、

点が存在する、点が無限大に存在する、

0次元世界と「同じもの」として、

線の概念世界(完全無と同じもの)をそこに構築する。



「同じもの」である。



その為に異なる場所(次元世界)に

「同じもの」として

無と点は同時に存在する。



点の無限大の連鎖と

線世界はこのように

同一の概念を重ねながら

別々の概念世界に同時に出現するのだ。



無の無限大に連鎖する0次元世界と

点の無限大に連鎖する1次元世界。


同じ概念が重なる為に

同時に、しかし別々の概念世界の中に

それぞれが「同じもの」として存在する

無と点。

同じ「あるのにない」もの。




同一であること、

同じものでありながら、

異なる概念世界に同時に存在すること。



これが実体概念の重なりによって、

別々の次元世界が出現する法則である。



点の無限大の連鎖は線ではない。

線の中に点は存在しない。

しかしこれは「同じもの」なのである。









まとめてみよう。


「存在する無」(実体)は

「(面積や体積などの存在を)持たないものが確かにある」

という「点の概念」であり、

無の無限大の連鎖である「完全無」は、

点の無限大の連鎖である「線世界」と「同じ概念」なのだ。



存在する無(点の概念)と同時に出現する線の概念世界、

それが「1次元宇宙」である。


つまり1次元線世界とは、

何もないものが確かにあるという「無の概念(点)」が、

永久に存在しつづける「完全無の状態(線)」であることを指す。


それが「無が存在する」ということと「同じこと」であり、

線の概念世界が実在する(完全無である)ということである。




点は「全てをもたないものが確かに存在する」

概念体(実体)であり、

その概念は「存在する無」の「部分として」無と同義である。

このように「存在する(実在する)無の概念」(実体)があること、

それが点が「点の概念」として創り出された、

その理由である。



そして「存在する無(個)」の概念が「完全無という世界(全)」(0次元世界)

と同じであるように、

点の概念(個)は線世界(全)と同一のものとして

「1次元宇宙・線の世界」を誕生させる。

この「個が全と同じであること」、

個が全に向かうことが「力学」の正体なのだ。



無(個)が無(完全無)であり続けようとする世界の力学(状態)。



全ての原因は無にある。



「無」に対する考察を正しくもつと、

我々は何も存在しないはずの「0次元世界」から、

「1次元宇宙が誕生する」という必然性に気づけるのだ。

つまり「1次元世界」は、

「0次元世界」と等しい「同一の世界」である。



同じであること。



概念しか持たない無(実体)だからこそ

「存在する無」はその概念を「あらゆる存在」に

分かつことが出来る。


これが「無の部分を持つ」という事であり、

「存在するもの」は「実在する実体」と同時に

その概念を共有しながら「同じもの」として存在する。



つまり現実世界のあらゆる概念は

「存在する無」の同じ部分を持って現れた異なる概念なのだ。



全ては存在する無である。



このことを「同一である」と記そう。

この同一であること、

それが等価原理である。







『線世界が存在するだと?

これでは「何もない」という世界の大前提に

反するのではないか?』


これは当然の疑問である。

だがそうはならない。

何故なら「線世界は存在しない」からだ。



「面積を持たない」線の概念は、

面の世界では「存在しない実体(無)」である。



面の概念の中に存在するとは、その面の中に部分をもつ、

つまり面積をもつことである。

しかし線の概念には面の世界に占有する面積がなく、

線は面の部分を持たない。

従って面の中に線は存在しないのである。



そして線の概念は「存在する無(同一のもの)」として

無限大の連鎖によって「完全無」である。


線の概念の無限大の連続は

「同じもの」として面の概念世界である。




こうして線の概念は「面積の概念世界を生み出し」ながらも、

面世界の概念(面積)を持たない「存在しない」、

「実在する無の概念(実体)」となる。



これが「線が無の部分を持つ(存在する無)」ということであり、

無と点、あるいは完全無と線が同一となる

「世界のはじまり」である。



「存在する無(個)」は

「永久に存在し永遠に連鎖する無の概念(全・完全無)」であり、

それはそのままで「無限大の概念」と同義である。



そして全ての存在が「無の部分を持つ」事によって

この世界は「存在する無」として永遠に、

無限大にあり続けることが出来るのだ。





これが「世界が存在する」という全てのはじまりであり、

「無と完全無」に対する理解からはじまる「次元理論」である。





「無」は「1次元世界・線」と同時に出現する。

1次元世界・線は2次元世界・面の概念の中でのみ実在する。

2次元世界・面も3次元世界・空間に存在を与え、自らは実体となる。

3次元世界・空間も4次元世界・時間世界に存在を与え、

自らは実体(無・これが存在しない今という時間)となる。



このように世界は同じものとして、

等価として、

同一のものとして、

同時に存在する(存在しない)。



従ってこの宇宙には未だに「無と完全無」しか存在しない。


世界は「存在する無」である。




このように全てはシンプルな原理において

「世界の持つ多重次元構造」は発現する。

そしてこの「世界の多重次元構造(次元世界)」を提示して、

それを理解すること、

それが大統一理論としての「次元理論」という科学である。




今この「完全無」から始まる「現実世界の持つ多重次元構造」。

この世界の構造がやがて

我々の物質世界、精神世界の誕生にもつながる。



全てが「同じもの」なのだ。



これがこの宇宙の原始にある

「存在する無」の正体である。



「全てを持たないものが確かに存在する」という無の概念は、

意外にも我々の身近な点の概念の中に含まれていた。



このように点の概念は、

例えどれほど拡大を続けても

永遠にたどり着くことが出来ない「実体(存在する無)」である。



「(面積も体積も)全てを持たないものが確かにある状態」としての

「存在する無」、

この「存在する無」を構成要素として点は存在する。



さらにこれまで漠然と存在すると思われてきた線世界でさえ、

面積を持たないものとして「面世界における実体」であり、

無限大の無(点)の連鎖として「完全無(線世界)」と

同一の概念を持つものなのだ。






実のところ、我々のこれまでの科学は

この0次元世界にたどり着くことが

その目的であった。



この世界は何故存在するのか、

その探求の先にある終着点が

「存在する無」だったのである。



それに対する解答が次元理論である。



だからこそ皆さん、

これからは新しい科学が始まるのだ。

無を理解する科学「次元理論」は

これまでとは逆に0次元世界から始まり、

我々の世界の構造とその存在する理由を

明らかにする。



原理や法則の探求が科学の目的ではなく、

本当の科学とは、

その原理や法則が何故そこにあるのかを

我々に理解させるものでなくてはならない。



従って本当の科学は今

ここから始まる。



「存在する無」は実体として、


点として

線として

空間として

時間として

物質として

命として

人間として、


現実に我々の世界を構成する。



この「無」が

我々の世界に存在する理由を与え、

人間の本当の姿も教えてくれることだろう。



だからこそ我々は

この世界の真実の姿を

学ばなければならない。



人間の希望がどこから生まれ、

我々を何処に導くのか、

人間の存在する本当の理由を

我々は知らなければならない。



存在する無は世界の起源である。



この存在する無の延長線上に

生命や人間は存在する。

従って人間を理解するためには、

まずはこの「世界の理」から先に

我々は理解していかなければならないのだ。




慌てる必要はないだろう。


たとえ少しずつでもかまわない。

我々はゆっくりと

「存在する無の概念」を理解していこう。



人類の知識への探求が始まってから数千年、

無から世界が生まれた理由が今

やっと明らかになったのだ。




大切なことは我々はもう

間違えてはならないことである。



存在することに対する無知と混乱が、

人々に苦悩を生み出してきた。

たくさんの、多くの可能性を

我々は消し去ってきた。


2度と間違えない決意で、

我々は学んでいこう。

我々にはもう

正しいものを見渡せる力がある。





この世界には何も存在しなかった。



すなわち世界の始まりは「存在する無」である。


この「存在する無」は

「永久に無限大に無の存在する宇宙」として、

0次元世界(完全無)である。


つまり「存在する無という実体(個)」と、

「完全無という世界(全)」は同じものであり、

これは同一のものである(世界原理)。



そしてこの0次元世界と

存在する点が「同じもの」なのだ。


点の内側にある永遠に何もない概念と、

点の外側にある確かに存在する概念、

これが「存在する無」である。



これによって「1次元世界」(線の概念世界)は

「0次元宇宙」という実体(点)が生みだした

同じ概念を共有する(同時に存在する)「次なる宇宙」である。



「無(実体)が永久に無限大に連鎖する完全無の世界」と同様に

「永久に続く実体である点の概念が無限大に連鎖する」線の世界。



0次元世界と1次元世界は「存在する概念が異なるだけ」の

同じ世界であり、同じ実体である。


(ライプニッツはこの「同じ実体」をモナドと名付けた。

現在は次元理論よりモナドという言葉の方が認知度が高い為、

あえて併記させて頂きたい。

ライプニッツはモナドから始め、アインシュタインは

モナドの概念を見つける為に素粒子学を開いた。

正しかった偉人たちは皆、

世界を理解する為に同じ手法を目指したのである。)



こうして0次元世界は、

1次元世界に「無限大」(永久に続く、あるのに存在しない)

の概念をあたえる。

無限大とは無ゆえの際限のない終わりのない状態を指す。



したがって「1次元宇宙・線世界」は、

「無の概念(点)」が果てしなく連鎖するだけの世界(完全無)である。

このように0次元世界と1次元世界は同一のものであり、

「この世界には何も存在しなかった」という現実に変化は起きない。



1次元世界は0次元世界の一部分(同じ部分を持つ)であり、

この両者は同じ「存在する無の概念」を共有する実体である。



このように「存在する無」は、

「存在を持たないのに存在する」同じ実体として

「点」の構成要素だけでなく、

全ての概念世界の構成要素である。


これによって生まれるのが等価原理であり、

モナドが世界を同じモナドとして統括する

その理由である。




線世界の実際の起点は、

数列の「0」ではない。

線世界を構成する「すべての点」が

0と等しい「ないのにある」という起点である。



この線世界に「マイナス概念による存在の確定」などは必要なく、

存在する線世界自体が、

存在しない面世界の実体なのである。



こうして一見たしかに存在する1次元宇宙

「線の世界」ではあっても、

「線世界」は0次元世界の部分として生まれた

無の延長線上に「実在する概念世界」である。



1次元世界はこれまでも科学的にとりあげられる機会はあった。

しかし1次元世界が実在し、

その概念が「無」によって生みだされたという現実を理解できる理論は

これまで存在しなかったのである。


「完全無」が実在する以上、

「1次元世界」も同じものとして同時に実在する。


つまり「0次元世界」は

無限大の概念をつくりだせる唯一の実体であり、

「無限大の概念」は「無が果てしなく永久に存在する状態」である。




そしてそのためだけに1次元以降のすべての次元世界には、

「無と無限大の概念」が

同じものとして与えられたのである(全ては無の部分を持つ)。



点を構築する唯一の構成要素は「存在する無」である。

点は無の部分によって存在する

無と同じものだからである。


こうして1次元宇宙「線世界」は、

その全てに「0次元世界」を含むことによって成立する。


概念としての「線」を支える存在は、

「無の概念」をもつ「点」以外になく、

この「点の概念」の実在することが

「無が実在することの証明」となる。




点が存在することにも原因があり、

そこには宇宙の原理が働いている。

我々の宇宙には理由を持たないものは存在しないのだ。



したがって「点」は

無の概念を宿した(同じ部分を持つ)「存在する無」である。



けれどもそこに現れた「無」は、

既に「0次元世界」に「存在する無」ではなく、

それはすでに1次元世界に現れた

実体としての線世界である(無は点の部分を持たない)。



そして次元世界では、

2次元世界以降のすべての次元世界も点の概念を

その世界の「構成要素」として含むため、

現在、数字や数式は万物をあらわす尺度とも

成り得たのである。



このことでさえ人類は、

これまでは「経験論」で判断するしか

方法をもたなかったのだ。



このように数字や点のもつ本質は「存在する無の概念」であり、

実体の存在は常に0次元完全無の世界に回帰する。



「この世界には何も存在しなかった」という「無の実在」は、

同時に「1次元世界以降のすべての次元世界が存在する」

という概念と同じ意味である。


「同じもの」として全ての概念の起点に、

「存在する無」が現れるからである。


すなわち無の部分として同一であり

同じものとして存在することは、

それが無の概念によってのみ成り立つ世界で

無限大に存在する完全無として「実在する」ということである。



無が完全無と同一である科学、

無が無限大にあり続ける状態、

これは「宇宙の原始にある力学」である。

実体(モナド)が「存在する力学」だと解釈される理由は

ここにある。


存在とは既に力学なのだ。





数学の基本ともなる「数列」は、

「0が起点となる無数の点が存在する線世界」

をその「前提」として始まっている。


それが我々の「科学のはじまり」であり、

同時に「約束された認識」であった。


人々はその約束事があらゆる現象の解明に役立つことを知り、歓喜した。


けれどもそれは人間の生みだした「発明」と「道具」であり、

我々は実際何を「点」と名付け、

何を「数列」とよんだのかは知るよしもなかったのだ。



しかし我々はいま「完全無」を理解して、

「1次元世界」の存在を知る。



「0」や「数列」は、

「知識」の本当のはじまりではない。



それらは単に「実在する無の概念」を模倣した

人間の作った「ものさし」にすぎなかった。



「完全無」を理解する「次元理論」だからこそ、

その理解が成りたつのである。



つまりこれまで「点の持つ概念」のなかで、

人間が都合良く理解したのは「ある」という部分だけである。


人間はその数列の中に

「ない」を探して、世界のバランスを保とうとした。



けれども「点の概念」の真意は

「体積も面積も持たない(存在を持たない)」という側面にこそある。

点はそれ自体が「ある」と「ない」との概念を含んだ

「完全な世界」だったのである。



始まりはやはり「存在する無」なのだ。



いかがであろうか。

我々はこれまで「数式が世界を統合すること」を、

かたくなに信じてきたではないか。


かたくなに信じること、それを人間は「信仰」として定義する。



けれども、なぜそれがそうなったのかを「理解すること」、

それが本当の「科学」である。



このように我々のあらゆる知識は

「無を理解すること」によって、

初めてそこから始まるものだったのである。



我々は今後も数式を信頼することは構わない。

けれどもその信頼を

信仰へと変えてはならないのだ。


我々は先立つものを取り違えてはならない。




「無」が「有」をつくりだした(同一であること)

ということは、

数式では絶対に理解することはできないし、

我々がこの現象を理解できれば、

その必要もまたないことである。



これらは「存在する無」という大前提から派生した、

知識のまだ前提部分にすぎない。



したがって次元理論は、

「この宇宙には何も存在しなかった」

という世界の大前提からつづく、

知識の根幹である。



この数式ではあらわすことのできない次元発生のメカニズムを、

私は以後「次元共有の大原理」(共有される世界原理)として記述する。



これは

「次元世界においては

実体とその実体が創りだす概念世界は同一のものであり、

全ての次元世界は単独では存在できない。

ひとつの次元世界は前の次元世界を土台として

必ず次の次元世界を生みだしながら、

概念を共有する(部分を持つ、部分を与える)ことによって

その共有世界を共に実在させていく」

という、次元世界が存在するための基本原理である。


単純に述べれば、

これは次元世界が実在するための「必要十分条件」である。

そしてその全てが「存在する無」という「世界の同じ部分」であり、

「ただひとつの無」が「全ての概念世界に同時に存在する状態」である。



無が存在する以上、「完全無」と

「無限大に続くある」の概念は同時に継続する。


無が存在する以上、「無限大に続くある(点)」は線世界であり、

「永遠の無」は広さにおける面積を持たない

「存在しない」線世界である。


無が存在する以上、「無限大に続く線世界」は面積の概念であり、

「無限大のない」は空間世界における体積を持たない

「存在しない」面世界である。



「あるのにない」同じものの

無限大の連鎖。




後述とさせていただくが「次元共有の大原理」、

これこそが科学者たちが探し求めた科学の真理であり、

宗教家たちのいう神の奇跡である。



次元世界がつぎの次元世界をつくりだす節目、節目において、

この「次元共有の大原理」がはたらいている。

そしてこの大原理が、

あらゆる次元世界に共通する「創造のための力学」なのだ。

ここは後述とする。



このように我々の世界は、

ただひとつの次元世界(あるいは宇宙)によってのみ

構成されているものではなく、

いくつもの次元世界が必然的に概念を共有し合い、

その上で全ての宇宙(ひとつの世界)が成立する「多重次元構造」をもつ。



この世界に絶対的に存在するものとは「存在する無」しかなく、

この「完全無」もまた、

単独ではその存在を保つことのできない世界である。



そのために「完全無」の概念を支える同じ世界「次元世界」は出現し、

その「次元世界」が実在するための必要十分条件として

「次元共有の大原理」が存在する。



この大原理を理解すること、それが

「無から始まる世界を理解する」ことであり、

あらゆる存在を理解する最初の知識(本来の宇宙の姿)である。





『「存在する無」と「完全無」は「同一」である』(個は全)

『「完全無」と「点の概念」は「同一」である』(全は個)




この理解は、

次元理論の主軸となる知識である。



もしもこの章までにこの現実を理解することが出来なければ、

それは私の伝え方に問題があった為かもしれない。

私は今後、多くの皆さんの手によって次元理論が研磨され、

複数の新たな書き手によって

この科学が磨かれていくことを望む。


だがそれまではどうか

私の拙い文章に、辛抱強く付き合って頂けることを願いたい。

願わくば、これが夜明け前のひとすじの光となることを。







さて次回より次元理論の論点は

空間世界の発現から時間世界(流れる時間の正体)の解明へと移っていきます。

しかしながらその前に、

次元共有の大原理(世界原理)だけは

是非とも理解して頂けるようにお願いしたいと思います。

これは新しい科学(大統一理論)の前提になります。






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