第1話 「血桜」その一
3489年 風甲月 第四雷庚日
「悲報! 『爆弾魔』、降臨!!!」
「昨日、薄桜城王立魔法学園で謎の犯行予告状が発見された。予告状の差出人は、先覚塔を真っ二つに爆破すると宣言しており……」
少年はため息をつき、そこで読むのをやめた。
蘭空祈、十四歳。
臆病で気が弱く、戦闘力はほぼゼロ。魔法についても、まるでわからない。
「最弱貴族」などとからかわれてはいるが、これでも法を守り、正義の心を持つ善良な市民だ。
新学期を明日に控えた日にこんな記事を読まされては、さすがに気分がよくない。
義憤に駆られるまま何か言おうとした、そのとき。
不意の物音が思考を遮った。
ちりん――。
金属が床にぶつかる、澄んだ音だった。
イノリはうつむき、金色の硬貨を拾い上げた。手のひらに載せて眺める。
フクロウの模様が刻まれた、ただの記念硬貨だ。
こういうきらきらしたものに、イノリはさほど興味がない。
貴族である彼にとって、金銭は身の回りにいくらでもある、ごくありふれたものだった。
ひとまず持ち主に返して、それから爆弾魔のことを考えよう。
そう思いながら、イノリはゆっくりと顔を上げた。
目に飛び込んできたのは、裸の少女だった。
頭では予想していた。
それでも、どんなに強く気を持っていようと、不意に目の当たりにすれば、顔は赤くなり、胸も落ち着かなくなる。
表情を取り繕えなくなる前に、素早く顔を背け、目を閉じた。
果てのない闇に世界を覆わせ、かりそめの平静を得る。
「ねえ、『蒼華くん』返してよ!」
背後で響く軽やかな声は、跳ねる音符のようだった。
「先に服を着てくれ!」
「先に返して!」
「先に服を着てってば!」
イノリは、こういう子供じみた言い合いをあまり好まない。ただ、相手によっては、これがいちばんよく効く。
「イノリの、いじわる!」
「ふん!」
十秒が過ぎた。
「はいはい、わかったわよ! もう……」
少女の声が沈黙を破り、この微妙な対決に幕を下ろした。
そこでイノリは目を開ける。
魔法書が楽しげに宙を舞い、彼の目の前でぴたりと止まった。羊皮紙に覆われた表紙が左右に開き、黄ばんだページが姿を見せる。
「なんでそんなに大騒ぎするの、イノリ? あたしの体なんて、もう何度も見てるでしょ?」
「おい。ページと人間の体を一緒にしないでくれよ。人間の姿になるなら、せめて服くらい着てくれ」
「はいはい。言うとおりにするから」
澄んだ光が部屋を照らした。
光が消えると、魔法書はすでに少女の姿へと変わっていた。
先ほどまで何も身につけていなかった白い体は、今は大きな羊皮のマントに覆われている。
蘭空光璃。
魔法書。妹。恋人。
イノリにとって、ヒカリはこの世界でいちばん可愛い存在だった。
橙黄色の短い髪は、毛先が炎のように赤く、小さくカールしている。
愛らしい顔立ちは細部まで整い、完璧といっても差し支えない。
とりわけ美しい金色の瞳は、夜明けに昇る陽のようだった。
その中を流れる金の光には、尽きることのない活力と、どこかこの世を離れたような澄んだ輝きがある。
まるで、世にある美しさと純粋さをすべて形にしたように。
「そう、それでいいんだよ。ほら」
親指で弾くと、硬貨が宙へ跳ね上がった。弧を描き、ヒカリの手のひらにすとんと収まる。
「うむ、うむ……」
少女は満足げに喉を鳴らした。
「自分のものは大事にしてくれよ。小さな硬貨でもさ。そうだ、新聞は読む?」
「読まなーい。そんなつまんないこと、興味ないもん」
「今日のは、つまらなくないかもしれない。ほら、爆弾魔が来たって……」
「――爆弾魔?」
本体が魔法書なので、学校に通う必要もない。
毎日、蘭空家の屋敷でのんびりと暮らす、猫のように気ままな少女。
外の出来事にはいつも無関心なヒカリも、「爆弾魔」と聞いて興味が湧いたらしい。
イノリが反応するより早く新聞をひったくり、一面の見出しにじっと目を向けた。
「ほんとだ」
記事の上を素早く視線が走る。ときおり頷いては、小さく感心したような声を漏らした。
きっと、こういう事件も刺激があって面白いとしか思っていないのだろう。危険が迫っているとは気づいていないのだ。イノリはそう判断した。
「最近、ただでさえろくなことがないのに、今度は爆弾魔か……できるものなら、絶対に見逃さないんだけどな」
「ほんとに?」
ヒカリの視線が剣のように頬を刺し、ひりひりと熱く痛んだ。
「う……わかった、わかったよ。僕が弱くて、そんな力なんかないのはわかってる……でも、学園を守りたいっていう、正義の気持ちは本物なんだ!」
「違うよ。イノリの力を疑ってるんじゃないの」
細い指先が、新聞の一か所に触れた。
「ほんとに爆弾魔を倒したいなら、すっごく簡単だよってこと」
何を言いたいのか、イノリにはさっぱりわからない。
どう考えても少女の意図がつかめず、素直に新聞へ目を落とした。
頭は混乱したままだった。それでも、ヒカリが指す数行を目にした途端、異変にはすぐに気づいた。
「なんだ――」
蘭。空。祈。
その三文字が、堂々とそこに載っていた。
いつもなら、自分の名前が新聞に載るのは、たいてい名誉なことだろう。
けれど今は、ただ背筋が寒くなるばかりだった。
「『予告状の署名は、蘭空祈。蘭空祈は、貴族である蘭空卿の一族に属する人物とされる。蘭空家を標的とした悪質な事件である可能性も指摘されている』……ほら、新聞にはそう書いてあるよ」
ヒカリは容赦なく、その一節を一語一語読み上げた。
「――だから、自首するのがおすすめかな」
「僕が!?」




