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結局、あの後朝食の雰囲気が良くなることはなかった。けれど、貴族学院でのことを思い返せば、同じテーブルで食事をすることだけでも薫には十分に思えた。スカーレットの記憶にあるジョイスのままだったら、同じテーブルで食事をすることより空腹を選ぶと言っただろうから。
そしてジョイスの出発時間に合わせ、薫は見送りにやって来たのだった。イービルに伝えたように、最高の笑顔でジョイスに『別れ』を告げる為。
「ランチボックスも袋の中の小銭も多めに入っているわ」
「すまない」
最高の笑顔と優しさ、足し算でも掛け算でもいい、その答えが『恋』に近付けば。ジョイスには、再びスカーレットへの気持ちを持ってもらいたいと薫は思った。狡いかもしれないが、ジョイスの初恋相手がスカーレットだと知ってしまった以上利用しない手はない。どんなに好きになろうと、貴族学院でのことが重く圧し掛かり気持ちを表せない閉塞感を味わえばいいと思ったのだった。
けれどそれはスカーレットが貴族学院で味わった閉塞感よりは可愛いものだ。
「道中お気を付け下さい。安全を祈っておりますわ」
「…ありがとう。キャロル、伝言を頼まれてくれないか?」
「何でしょう?」
「スカーレットに、許してくれなくてもいい、憎んでくれてもいい、どんな感情を持ってもらってもいい、けれど、俺を忘れないでって。存在自体を無かったことにしないでくれと伝えて欲しいんだ」
「伝えるだけですよ。ジョイさんの願いをスカーレットが汲むかどうかわたしには分かりません。でも、スカーレットも言うかもしれません。彼女が少し前まで思い描いていたことを汲み取って欲しいと。それが何かはご自分で考えて下さい。あなたならいくらでも知る機会があったでしょうから」
「分かった。…それと、俺はまたこのファルコールを通過すると思う。その時、ハーヴァンがまだ滞在しているようなら、訪ねていいだろうか」
「ハーヴァンさんに会いに来る、ということですね。分かりました、ジョイさんが来るかもしれないと詰め所の方々へ伝えておきます。ハーヴァンさんと会い易いように」
薫の言葉にジョイスは、少し困ったと言わんがばかりの笑みをこぼした。そして貴族令嬢にはしない、握手を求める手を差し出したのだった。
握手、それも男性の手。こんな風に差し出されたのはどれくらい振りだろうかと薫は思った。きっと気付かない振りをしても、その手を払いのけてもジョイスは怒らないと分かる。更にはそのどちらかの行動を取る方が後ろにいる三人が喜ぶことも。
でも、薫は別れの挨拶としてジョイスの手を取った。そして満面の笑みを浮かべ告げた、『さようなら』と。
ところが薫の最高傑作とも言える笑みに、ジョイスはこともあろうか否定の言葉を発した、握る手に力を込めながら。
「そんな作り物の笑顔はいらない、あの頃の君の笑顔を失わせてしまってごめん」
そう言うと、ジョイスは握っていた手を緩めた。もう握手は終わりということだ。しかし、不思議なことに、薫は自由になった手に寂しさを感じたのだった。ジョイス達と駆け回った頃のスカーレットの記憶。一歳年上のジョイスに追いつきたくて、一生懸命走っても常に遠ざかる背中。でも、転べば差し伸べてくれた手。
気付けば薫はジョイスの手を再び握っていた。
「ありがとう、楽しかった思い出を。ここでわたしはまた楽しい思い出を作ることにしたの。さようならジョイス」
ジョイスは薫の言葉に頷くと、今度こそ手を離しそこから立ち去ったのだった。




