灰降る街のきびなご 鹿児島
灰降る街のきびなご
桜島の方角から流れてきた灰が、午後の空を薄く覆っていた。鹿児島市内の古い平屋では、縁側へ干した作業シャツの肩が、朝よりも白っぽくなっている。千代子は洗濯ばさみを外し、シャツをそっと持ち上げた。布を揺すれば灰が舞うため、両腕を伸ばしたまま、勝手口の横に置いた空のたらいへ静かに収めた。
庭のコンクリートにも、新聞紙を一枚かぶせたほどの灰が積もっている。ブーゲンビリアの葉は緑色を失い、物干し竿には指でなぞれるほどの灰色の筋がついていた。箒を出そうと思ったが、台所では麦味噌の味噌汁が煮立ち、流しには昼に使ったすり鉢と包丁が残っている。千代子は箒へ伸ばした手を引っ込め、まず鍋の火を弱めた。
冷蔵庫には、魚屋で買ったきびなごが入っている。今夜は刺身にして、すりおろした生姜を入れた酢味噌を添えるつもりだった。麦ご飯も炊き上がっているが、卓上には家計簿と青いボールペンが広がったままである。夕飯を並べる前に片づけ、洗濯物を取り込み、灰を集めなければならない。千代子は仕事を頭の中で並べ替え、麻のエプロンの裾を二度折った。
母は、家のことを夫へ頼むものではないと言っていた。父の茶碗を洗わせたことも、脱いだ靴下を拾わせたこともなかった。母が熱を出した日には、幼い千代子が踏み台へ乗り、鍋の味噌汁をかき混ぜた。母は布団からその姿を見て、「女は家の中を止めたらいけないよ」と教えた。
玄関の引き戸が、勢いよく開いた。忙しない足音が土間で止まり、続いて、何か重いものを床へ置く音がする。千代子が台所から顔を出すと、哲也は額と肩へ灰をかぶり、片方の靴を脱いだ格好で立っていた。髪の分け目まで白くなり、眉毛だけが黒く残っている。
「ただいま、千代子。今日は風向きがこっちだったから、道路も車も灰だらけだ」
「そのまま上がらないで。顔にも頭にもついているわよ」
「分かっている。だから、これを買ってきた」
哲也は土間へ置いた紙袋から、新しい箒を一本取り出した。柄の先には、ホームセンターの値札がついたままである。その隣には、庭仕事で使う防塵眼鏡とマスクも入っていた。千代子が黙って見ていると、哲也は左の眉を指で掻いた。
「前の箒は、穂先がだいぶ減っていただろう。明日の朝、庭の灰を集めるよ」
「明日の朝は、作業シャツも洗わないといけないの。網戸も灰だらけだし、物干し竿も拭かないと使えないわ」
「それは、千代子が明日の朝にする仕事なのか」
「誰かがしなければ、そのままでしょう」
哲也は答えず、脱いだ靴を外へそろえた。勝手口へ回り、庭の水道で頭と顔を洗ってから、首へ濡れた手ぬぐいを巻いて戻ってくる。洗面器の水は灰で濁り、底に細かな砂のような粒が沈んでいた。彼は手ぬぐいで耳の後ろまで拭くと、縁側のたらいに入った作業シャツへ目を落とした。
「これも、もう取り込んでくれたのか」
「灰がついたまま揺すったら、縁側まで汚れるもの。あとで一枚ずつ灰を落としてから洗うわ」
「じゃあ、それは僕がやる」
「あなたは明日も仕事でしょう」
「千代子だって、明日もこの家で仕事をするだろう」
千代子は返事をせず、台所へ戻った。まな板にきびなごを並べ、頭を指先で取り、腹を開いて手早く骨を抜く。青銀色の小さな身は、灰に覆われた窓の外とは違い、電灯の下で濡れたように光った。十尾、二十尾と開いていると、哲也が台所へ入ってきた。
彼は卓上の家計簿を閉じ、新聞紙と一緒に棚へ載せた。流しにたまっていたすり鉢を洗い、水切り籠へ伏せる。次に箸を二膳並べたが、片方は上下が反対になっていた。千代子が直そうと手を伸ばすと、哲也が先に気づいて向きをそろえた。
「刺身を並べるよ」
「形が崩れるから、私がするわ」
「少しくらい曲がっていても、腹に入れば一緒だろう」
「そういう問題ではありません」
「では、先生。どう並べればよろしいでしょうか」
哲也は皿を持ったまま、千代子の隣へ立った。千代子は一尾を指先で取り、頭の向きをそろえて並べてみせる。哲也もまねをしたが、二尾目を重ねすぎ、三尾目は反対を向いた。直したい指をエプロンへ押しつけ、千代子は次の一尾を彼へ渡した。
「少しずつ重ねるの。銀色の皮が見えるようにして」
「こうか」
「それでは重なりすぎ。もう少し右よ」
「刺身を並べるのも難しいんだな」
「家の中には、難しいことがたくさんあるのよ」
哲也の手が止まった。彼は反対を向いた一尾を直し、今度は千代子へ尋ねてから次を置いた。二人で並べたきびなごは、いつものようなきれいな扇形にはならなかった。片側だけ広がり、中央に小さな隙間もできている。それでも銀色の皮は一尾ずつ光り、丸皿いっぱいに収まった。
「これなら合格か」
「六十点ね」
「初めてなら立派な点だ」
哲也は皿を卓上へ運んだ。千代子が味噌汁をよそっている間に、冷蔵庫から昨夜のさつま揚げも出している。ラップについた水滴を布巾で拭き、小鉢を二人の間へ置いた。麦ご飯の茶碗まで並べ終えると、自分の席へ座らず、千代子の椅子を引いた。
「先生からどうぞ」
「急にそんなことをしても、百点にはなりませんよ」
「明日の灰掃除で四十点を取ればいい」
千代子は椅子へ座り、酢味噌の小鉢を中央へ寄せた。生姜の辛い匂いと麦味噌の甘さが、湯気に混じって立ちのぼる。勝手口の網戸には細かな灰がつき、外灯に照らされた庭は、昼間よりも白く見えた。遠くで桜島フェリーの汽笛が鳴ると、哲也はきびなごを一尾取り、酢味噌をたっぷりつけた。
「うまい。やっぱり千代子の酢味噌は違うな」
「味噌と酢と砂糖を混ぜただけよ」
「僕が同じ分量で混ぜても、この味にはならない」
「量ったこともない人が、よく言うわね」
「それなら今度、教えてくれ。刺身は六十点だったが、酢味噌なら七十点を狙えるかもしれない」
哲也は麦ご飯を頬張り、満足そうに左の眉を掻いた。人差し指の爪の間には、家庭菜園の黒い土がわずかに残っている。千代子はいつもなら指摘するところを、今夜は何も言わず、自分の皿へきびなごを取った。二人で並べたため形は不ぞろいだったが、味はいつもと変わらなかった。
食事が終わると、哲也は食器を流しへ運んだ。味噌汁の椀を重ねようとしたため、千代子は傷がつくと止めた。彼は椀を一つずつ離して置き、蛇口をひねる前に袖をまくった。千代子は洗剤とスポンジを手渡し、自分は布巾を広げて隣へ立った。
「明日の朝は、網戸の灰を僕が落とす。庭も新しい箒で掃く」
「私は作業シャツの灰を払うわ」
「洗濯も僕が手伝う」
「それなら、灰を落としたシャツを一枚ずつ渡して。洗濯機へ入れるのは私がするから」
「承知しました、先生」
哲也が洗った茶碗を差し出し、千代子が布巾で拭いた。流しの上で、陶器が一度だけ軽い音を立てる。窓の外ではまた灰が降り始め、庭のコンクリートへ音もなく積もっていた。明日になれば、今夜より厚くなっているかもしれない。
翌朝、哲也は目覚ましが鳴る前に起きた。昨夜買った防塵眼鏡とマスクをつけ、新しい箒を持って庭へ出る。千代子は縁側へ腰を下ろし、黄色い克灰袋の口を両手で広げた。哲也が集めた灰をちり取りで運ぶたび、袋の底が少しずつ重くなった。
「千代子、もう少し袋をこっちへ寄せてくれ」
「はい。こぼさないように入れてね」
「二人でやると早いな」
「あなたが昨日、四十点取ると言ったからでしょう」
「これで百点か」
「まだ網戸が残っています」
哲也は庭から網戸を見上げ、大げさに肩を落とした。千代子は克灰袋の口を結び、新しい袋をもう一枚取り出した。朝の光が灰色の空を透かし、昨日洗ったきびなごの丸皿を食器棚の中で銀色に光らせている。哲也が箒を構え直すと、千代子は空の袋を広げ、今度は彼が灰を運んでくる前から、縁側の先で待っていた。




