雨上がりの水引草 東京
雨上がりの水引草
九月の湿った風が網戸を押すたび、私は小指の爪へ歯を立てた。谷中の古い木造アパートでは、風が吹くと台所の裸電球までかすかに揺れ、流しの三角コーナーには昨日茹ですぎた素麺が白い糸くずのように残っている。換気扇から入ってくるのは、近所の鰻屋が立てる甘辛い煙と、夕立に濡れた土の匂いだった。壁の時計は八時を回っていたが、夫の宗一はまだ帰ってこなかった。
朝、宗一が脱いだ紺色の靴下は、畳の隅で毛玉を外側にして丸まっている。拾って洗濯籠へ入れればよいのに、私は何度その前を通っても手を伸ばせなかった。宗一が帰ってきたら、また「こんなところに脱いで」と言いながら拾うつもりだった。味噌汁を温め直そうとガス台へ向かったとき、玄関の引き戸ががらがらと鳴った。
「ただいま。途中で夕立に降られてね。駅前の本屋で雨宿りしていたんだ」
私は鍋の蓋を置き、エプロンの端で両手を拭いた。土間には、骨の一部が曲がったような折りたたみ傘が広げられ、その向こうに宗一が立っている。安売りの紺色の背広は肩の色が濃くなり、袖口から雨水が一滴ずつ落ちていた。髪は額に張りつき、革鞄の角には、朝にはなかった泥がついている。
「おかえりなさい。ずいぶん濡れたのね」
上がりかまちへ乾いたタオルを置くと、宗一は靴のかかとへ反対のつま先をかけた。私はしゃがみ込み、黙って靴べらを差し出した。彼は足を止め、こちらを見てから、照れたように靴べらを受け取った。右の革靴には細い傷が走り、底の縁も白く擦れていた。
「悪い。明日の朝、磨くよ」
「明日の朝は寝ていてちょうだい。私がやっておくから」
宗一の背広からは、湿った羊毛と電車の中の埃が混ざった匂いがした。私は濡れた上着を受け取り、台所との境に渡した物干し竿へかけた。ポケットから雨に濡れた本屋の紙袋がのぞいていたが、中に本は入っていないらしく、角が柔らかく潰れている。宗一は空になった紙袋を見て鼻の下をこすった。
「一冊くらい買おうかと思ったんだけど、今月は給料日前だからね」
「立ち読みだけしてきたの」
「雨がやむまで、旅行の本を見ていた。京都の紅葉は、写真でもたいしたものだったよ」
私は濡れた紙袋を新聞紙の上へ広げ、夕飯の支度に戻った。六畳間のちゃぶ台には、端の欠けた丸皿へ秋刀魚の塩焼きを一尾ずつ載せ、大根おろしとすだちを添えてある。すり鉢の底に残った白ごまの香りと、焦げた秋刀魚の皮の匂いが狭い部屋に重なっていた。窓の外では、雨粒を載せた水引草が、赤と白の小さな花を細い茎の先で揺らしている。
「今日は商店街で秋刀魚が安かったのよ。二尾で百八十円」
「それはいい買い物だ」
宗一はネクタイを緩め、ちゃぶ台の前へ膝を折った。大根おろしの小鉢をのぞき、水気が切れているのを確かめると、箸袋を丁寧に二つ折りにして皿の横へ置いた。私が麦茶のコップを運んでいる間にも、宗一はまだ秋刀魚へ箸をつけず、両手を膝に載せて待っている。結婚したばかりのころ、私が味噌汁を運ぶ前に食べ始めたため、二人で言い争ったことを覚えているのだ。
「先に食べていていいのに」
「一緒にいただきますを言ったほうが、秋刀魚もうまいだろう」
私は向かい側へ座り、箸を取った。宗一が「いただきます」と手を合わせると、時計の針が刻む音まで少し遠くなった。彼は箸先で皮を割り、湯気の上がる身を一口ぶんだけ外す。焦げた皮を残さず口へ運び、目尻へ細いしわを寄せた。
「秋刀魚の皮の焦げた匂いって、どうしてこんなに腹が減るんだろうね」
「さっきまで本屋にいたからでしょう。本ではお腹はふくれないもの」
宗一は笑い、また身をほぐした。昼間、私が一人でかじったトーストのパンくずが、ガス台の脇にまだ二つ残っている。使い古した布巾で拭おうと腰を浮かせたが、宗一の箸が腹骨のあたりで止まったため、私はそのまま座り直した。彼の右手の親指は、若いころ工場で挟んでから少し外側へ曲がっている。
「慌てると小骨が刺さるわよ。ゆっくり食べてね」
「私は昔から食べるのが遅いんだ。お義母さんにも言われただろう」
「ええ。あの人は食べるのが遅いから、待たされるわよって」
母の口調を真似ると、宗一は箸を持ったまま肩を揺らした。窓の向こうを自転車が通り、濡れた路地から、タイヤが水たまりを切る音が聞こえた。隣室ではラジオの野球中継が終わったらしく、拍手のあとに古い洗剤の宣伝が流れている。私は秋刀魚の頭の近くに残った身を取り、白いご飯の上へ載せた。
宗一の皿には、やがて背骨と頭だけが残った。蛍光灯の傘では小さな羽虫が一匹、同じところを何度も歩いている。壁のカレンダーには先週の特売日を囲んだ赤い丸が残り、その下の釘には、米屋からもらった団扇がぶら下がっていた。宗一は爪楊枝を一本抜き、いつものように耳の裏を掻いてから、小さなあくびをのみ込んだ。
「東京の夏も、やっと終わりそうだね」
「まだ昼間は暑いわよ。今日も台所で汗をかいたもの」
「それでも、明日の朝は味噌汁が飲みたいな。豆腐を入れてくれないか」
私は宗一の皿へ手を伸ばしかけ、いったん引っ込めた。流しには、昼に使ったパン皿と、今朝から水につけたままの小鍋が残っている。豆腐は今朝で使い切り、冷蔵庫にあるのは半分の油揚げと、しなびかけた茗荷だけだった。財布の中身を思い浮かべ、明日の買い物へ豆腐を一つ加えた。
「木綿でいい?」
「絹ごしより木綿がいい。箸でちゃんとつかめるから」
「あなたは不器用ですものね」
食器を重ねて台所へ運ぶと、宗一も麦茶のコップを持ってついてきた。私が水を張った洗い桶へ茶碗を沈めると、陶器の触れ合う音が狭い台所へ響いた。宗一は空いた手で畳の隅の靴下を拾い、二つを一つに丸めて洗濯籠へ放り込む。籠の縁に当たった靴下は、床へぽとりと落ちた。
「外れた」
「あとで私が入れておくわ」
「いや、自分でやるよ」
宗一は腰へ手を当てながらかがみ、靴下を拾い直した。私は布巾を固く絞り、ちゃぶ台に残った醤油の輪を拭いた。明日は背広を陰干しにして、革靴へ墨を塗り、雨が上がればたまった洗濯物も庭先へ出せる。そんな順番を指で数えながら窓を見ると、水引草の細い茎から、雨粒が一つだけ土へ落ちた。
「明日は晴れるかな」
宗一が窓のそばへ立ち、暗い庭をのぞき込んだ。私は洗った茶碗を伏せ、最後に二膳の箸を並べて水切り籠へ置いた。鰻屋の煙はもう途切れ、網戸からは濡れた土と水引草の青い匂いだけが入ってくる。
「晴れるわ。木綿豆腐をひとパック買ってくるから、明日もちゃんと帰ってきてね」




