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淡い名札と、海を渡る団扇  作者: 乾為天女


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第26話 説明会の長椅子

 説明会の朝、淡名渡船待合所の戸は、いつもより十五分早く開いた。


 七月の光は、港の石畳へ斜めに差しこんでいた。前夜の湿気がまだ残っていて、海から吹く風に塩と古い木の匂いが混じっている。船着き場の鎖は潮に濡れ、係留された小船の船腹が、波に合わせて小さく鳴った。


 祐は、長椅子の列を見た。


 壮翔が畳座布団を置いた場所には、白い紙で「通路六十センチ」と書いた札が貼られている。貼ったのは明純で、札の端だけが少し斜めだった。裕子は朝一番にそれを見つけ、無言で指を伸ばしかけたが、貼り直さなかった。斜めでも読める。今朝は、斜めなものを全部直す時間はない。


 「椅子、二脚足りない」


 裕子が返却簿の横で言った。声は平らだったが、鉛筆を持つ指に力が入っている。


 「商店街の会議室から借りた折りたたみ椅子が、あと二脚あるはずです」


 愛衣子が入口を振り返る。昨日まで何度も確認した紙を、また胸元から出そうとした。


 「持ってくる」


 明純が駆け出そうとして、すぐに足を止めた。祐の方を見る。


 「走らないほうがいいですか」


 「港では走らない。けど、急ぐのはお願いします」


 「はい、急いで歩きます」


 明純は、急いでいるのが靴音で分かる歩き方で出ていった。壮翔がその後ろ姿に親指を立てた。


 「成長してる」


 「あなたも畳座布団を勝手に増やさないで成長して」


 裕子が言うと、壮翔は抱えていた三枚目の座布団を背中へ隠した。


 「これは俺の心の支え」


 「待合所の備品表に、あなたの心は載せない」


 祐は笑いそうになり、案内表をそろえる手に意識を戻した。


 今日使う紙は、三つの束に分けてある。名札返却の記録。待合所を開ける時間と閉める時間、鍵の持ち主、清掃順をまとめた運用表。暑さと荒天に関する安全手順。どれも、きれいな話だけでは済まない紙だった。


 文香は名札棚の前にいた。


 名札は、持ち主の希望ごとに分けてある。返却済みの控え。待合所保管希望の現物。写しだけを希望した人の記録。非公開箱は、棚の下段に置かれていた。箱には外から中身が見えないよう、文香が淡い灰色の布をかけている。布の端は、八重の手紙に残っていた縫い方と同じ細かさで留められていた。


 祐は文香の横に立った。


 「大丈夫ですか」


 文香は名札棚の鍵を見下ろした。


 「鍵は、あります」


 「はい」


 「名札も、あります」


 「はい」


 「言葉は」


 そこで、少しだけ間が空いた。


 「少なめです」


 祐は頷いた。


 「文香さんの言葉は、少ない方が届く時があります」


 文香は祐を見た。怒った顔ではない。けれど、褒められたからといって安心する顔でもなかった。


 「多く必要なら、祐さんが足してください」


 「はい」


 「余計なら、裕子さんが止めてください」


 「たぶん、止められます」


 裕子が遠くから言った。


 「たぶんじゃない。止める」


 文香は小さく頷いた。


 信清は外にいた。戸の脇に温度計を置き、海の方を見ている。空は明るいが、湿った雲が南の端に薄く広がっていた。彼は鉛筆で紙に風向きを書き、時刻を入れた。説明会の席に並べる資料とは違うが、今日の待合所を開けてよいかどうかを決める大事な紙だった。


 「風、強くなりそうですか」


 祐が声をかけると、信清は空を見たまま首を横に振った。


 「昼までは大丈夫じゃ。暑さの方じゃな」


 「水、入口に置きました」


 「日よけは」


 「東側だけです。西側は十時半から布を下ろします」


 「ほうか」


 信清は鉛筆を耳に挟んだ。


 「こういう朝に、気持ちだけで戸を開けると、昼に困る」


 祐は待合所の中を見た。長椅子、畳座布団、名札棚、団扇、標本箱、清掃道具。全部が並んでいるようで、全部が何かの途中だった。古い建物を残すとは、懐かしいものを抱えて座ることだけではない。戸を開けた後、誰が水を出し、誰が温度を見るかを決めることだった。


 九時四十分、最初に来たのは、蜜柑畑の千代だった。


 千代は竹の籠を片手に、もう片方の手で古い団扇を持っていた。団扇の縁には、文香が直した糸が見える。


 「早すぎますかね」


 千代はそう言いながら、もう入口で靴を脱ぎかけていた。


 「十時からですが、座ってお待ちください」


 祐が言うと、千代は長椅子へ腰を下ろし、畳座布団を手で押した。


 「おお、これはええ。船を待つ腰が、昔より偉くなった」


 壮翔が胸を張った。


 「畳職人の方が作ってくれました。俺は置きました」


 「置くのも仕事じゃ」


 「聞きましたか、裕子さん」


 「置く場所を守ればね」


 千代は二人のやりとりを聞き、くつくつ笑った。籠の中には小さな蜜柑が入っている。季節には少し早い青みを帯びた実で、葉の匂いが待合所の湿った空気を切った。


 「説明の時に配らないでください」


 裕子が先に言った。


 「分かっとります。終わってからじゃ」


 千代は籠の上に手ぬぐいをかけた。


 その後、商店街の人、船会社の担当者、島の年配者、役場の職員が少しずつ集まった。反対の立場で来た人もいる。祐は顔を見て、案内所で何度か時刻表を尋ねられた人だと気づいた。古い建物に税金を使うのか、と先週の聞き取りで言った男性だった。


 進祐は、開始五分前に着いた。


 白いシャツの袖をきっちり折り、薄い資料挟みを持っている。彼は入口で靴をそろえ、待合所の床板を一度だけ目で測るように見た。名札棚の前で立ち止まると、文香へ軽く頭を下げた。


 「今日は、よろしくお願いします」


 「はい」


 文香はそれだけ答えた。


 壮翔が進祐の横を通りながら、小声で言った。


 「祐さん、こっちの席で」


 進祐は振り向いた。


 「私は進祐です」


 「あ、そうでした。進む方」


 「その覚え方は初めて聞きました」


 祐は資料を抱えたまま、頭を下げた。


 「すみません。今日だけは、間違えるたびに一枚ずつ資料が増えます」


 「それは困る」


 進祐はそう言って、口元だけで笑った。


 十時ちょうど、待合所の戸が開け放たれたまま、説明会が始まった。


 祐は前に立った。前と言っても、会議室のような壇はない。名札棚の横、古い時刻表の跡が残る壁の前だ。窓の外では、渡船のロープが波に引かれ、ぎゅっと短く鳴った。


 「本日は、淡名渡船待合所で見つかった布名札と、この建物の今後について、ここでお話しします」


 祐はそう言ってから、一枚目の資料を掲げた。


 「ここに残っていた名札は、現時点で四十七枚です。名前の読めるものが三十六枚、名字だけ確認できるものが七枚、文字が判読できないものが四枚。持ち主またはご家族に確認できたものは十八枚です」


 裕子が横で、同じ数字を黒板代わりの板へ書いた。字は大きく、線はまっすぐだった。


 「返却を希望されたものが五枚。待合所での保管を希望されたものが七枚。写真または写しだけを希望されたものが四枚。公開を望まないものが二枚です」


 後ろの席で、誰かが小さく咳払いをした。


 「公開を望まないなら、最初から触らん方がええんじゃないか」


 反対の立場で来た男性だった。声に棘はあるが、怒鳴ってはいない。


 裕子が前に出かけた。祐は一歩だけ横へ寄り、裕子の置いた反対意見用紙を指さした。


 裕子は息を吸った。


 「ご意見として、ここに書かせてください」


 言い返す声ではなかった。けれど、弱い声でもない。


 「公開を望まない方の名札は、展示しません。連絡先は返却簿から外し、非公開箱に入れます。今後こちらから追いかけません。その方針を、今日ここで確認していただきます」


 男性は少し驚いたように紙を見た。裕子は用紙を差し出した。


 「不安な点があれば、ここに具体的に書いてください。後で、一つずつ返答します」


 男性はしばらく紙を見てから、受け取った。


 祐は、次の資料を開いた。


 「待合所を残したいという気持ちだけでは、戸は開けられません。ですので、私たちは開放時間、鍵の管理、暑さ対策、荒天時の閉鎖、清掃、名札の扱いを決めました」


 外から一陣の風が入った。団扇が壁で軽く揺れた。標本箱の中の蝶の羽は動かない。けれど、説明札の端が少しだけ浮いた。


 信清が立った。


 「海の方は、わしが見ます」


 それだけ言うと、何人かが彼の方を向いた。信清は慌てず、紙を一枚出した。


 「南風が強くなる時、潮が上がる時、渡船が止まる時。待合所は開けっぱなしにせん。ここに閉める時の線を引いとります。船が出ん日に、ここで無理をさせたら、待つ場所ではなくなる」


 船会社の担当者が紙を受け取り、目を通した。


 「これは、うちの欠航判断と合わせられますか」


 「合わせる。船長に先に連絡する」


 「誰が」


 「わしと、祐くん。祐くんが出られん時は、案内所の当番表を見る」


 祐は当番表を出した。そこには、自分、愛衣子、明純、商店街の二人、信清の名前が、曜日ごとに書かれている。鍵を開ける人、閉める人、温度計を見る人、清掃を確認する人。壮翔の名前の横には「座布団位置確認」とあり、その下に裕子の字で「勝手に増やさない」と書き足されていた。


 何人かが笑った。


 壮翔は、胸を押さえた。


 「信頼されているのか、監視されているのか」


 「両方」


 裕子が即答した。


 笑いが少し広がる。反対の紙を持っていた男性も、顔をそむけながら口元をゆるめた。


 進祐は笑わず、当番表を見ていた。鉛筆で何かを書き込む。祐の背中に、冷たい汗が流れた。資料が足りなかったか。表の列が見づらいか。開放時間が長すぎるか。


 文香が、名札棚の鍵を手に取った。


 祐は、次の順番を示そうとして、彼女が小さく首を振ったのを見た。


 文香は一歩前へ出た。


 「名札は、飾りではありません」


 待合所の中が静かになった。


 彼女の声は大きくない。港の音にさらわれそうな細さだった。それでも、誰も聞き返さなかった。


 「ここに通った人の名前です。返したい人には返します。残したい人には、ここで預かります。見せたくない人のものは、見せません」


 文香は、非公開箱の布へ視線を落とした。


 「直せるからといって、勝手に触っていいわけではありません。見つけたからといって、呼んでいいわけでもありません」


 裕子が、鉛筆を止めた。


 「でも、捨てたら、もう選べません」


 文香は、名札棚の一番上へ手を添えた。


 「だから、今は、ここで預かりたいです」


 彼女はそれ以上、母の話をしなかった。八重の名も出さなかった。門司港の封筒も、今治の縫い目も、手紙の言葉も、全部胸の内側に置いたままだった。


 けれど、祐には、その沈黙が資料の一部のように思えた。説明しないと決めたことが、説明するべき線をはっきりさせている。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 その沈黙を破ったのは、千代だった。


 千代はゆっくり立ち、持ってきた古い団扇を広げた。竹の骨は少し歪み、紙は薄くなっている。裏には、淡名島の通学路が鉛筆で描かれていた。天井裏から団扇の地図が出てきた朝のものとは別の、同じ頃のものだった。


 「わたしは、これを家に置いとった」


 千代は言った。


 「使うわけでもない。きれいでもない。けど、捨てられんかった。昔の自分が、船に乗り遅れんように、これで顔をあおぎながら待っとった気がするんです」


 彼女は団扇を祐へ向けた。


 「名札を返してもろうて、いらんと言いました。ここに置いてほしいと言いました。それは、わたしが物を惜しんどるからじゃない。家に持って帰ったら、わたし一人の昔になる。ここにあれば、船を待つ人が、ああ、誰かもここで待ったんじゃと思える」


 待合所の床が、かすかに鳴った。


 「残すものは、全部じゃなくてええ。けど、全部捨てたら、思い出す場所がなくなる」


 千代は座った。膝の上の手が少し震えている。文香がそっと水の入った紙コップを持っていった。千代は礼を言い、両手で受け取った。


 その後、ぽつりぽつりと声が続いた。


 船会社の担当者は、欠航時に旅人が行き先を失って案内所へ戻ることがあると話した。ここに閉鎖や代替交通の掲示があれば、港で立ち尽くす人を減らせるかもしれない、と言った。


 商店街の惣菜屋の主人は、じゃこ天を売るためではなく、清掃当番に温かい茶を出すくらいならできると言った。壮翔が「じゃこ天は」と口を挟み、裕子に肘で止められた。


 島の年配の男性は、昔のことを掘り返されるのは嫌だと言いながら、戸が閉まったまま朽ちていくのを見るのも嫌だと言った。言い終えた後、反対意見用紙に、ゆっくりした字で「開ける日を少なく」と書いた。


 愛衣子は、その紙を受け取り、すぐに答えようとした。祐が目で止めると、彼女は頷いて、紙を「未回答」の束へ入れた。


 明純は入口で遅れて来た人を案内していた。前なら「こっちです、こっちです」と大きな声で呼んでいたはずだ。今日は、戸の外で一度立ち止まり、相手の歩幅に合わせて中へ入ってくる。水の位置を示し、団扇を差し出し、名札棚の前では声を落とした。


 祐は、その一つ一つを見ながら、資料には書けない変化を感じていた。


 数字は必要だ。鍵も、予算も、閉鎖基準も必要だ。


 けれど、戸を開けた後、声の大きさを変えられる人がいることも、待合所を残す理由になる。


 裕子が、次の資料を祐へ渡した。


 「費用」


 「はい」


 祐は息を整えた。


 「床板の傷みが大きい箇所は、部分的な補修が必要です。全体を新しくするのではなく、危険な板を替え、残せる板は残します。日よけ布は商店街から仕入れ値で提供可能です。清掃は当番制で、月に一度、点検日を設けます」


 進祐が手を挙げた。


 「鍵の保管場所は、夜間どうしますか」


 「交通案内所の施錠棚です。閉所後は、宿『縁側寝床』へ預けません」


 壮翔が、少しだけ肩を落とした。


 「俺、信用ない」


 「宿泊客が出入りする場所には置かない、という理由です」


 祐が言うと、壮翔はすぐに顔を上げた。


 「なるほど、信用あるから別にする」


 「解釈を自由にしすぎない」


 裕子の声で、また少し笑いが起きた。


 進祐は表情を崩さず、次の質問をした。


 「閉鎖を決める人が不在の場合は」


 「信清さんが不在の場合、船会社の欠航判断を優先します。祐が不在の場合、案内所の当番が掲示を出します。掲示文は三種類作ってあります」


 愛衣子が三枚の紙を掲げた。「暑さのため一時閉鎖」「荒天のため閉鎖」「渡船欠航に伴う案内変更」。それぞれ、大きな字で書かれている。裕子が赤字で直した跡が少し残っていた。


 進祐は資料を受け取り、長く見た。


 「個人情報の扱いは」


 裕子が立った。


 「公開同意のある名札だけを棚に置きます。名札の撮影は、説明文に従ってください。非公開希望のものは、箱に入れ、返却希望がない限り外へ出しません。連絡先は紙の台帳で管理し、閲覧できる人を祐、文香、私、進祐さんに限ります」


 「私もですか」


 「町の担当者ですから」


 「責任を増やされましたね」


 「責任のない承認は困ります」


 裕子の言葉に、何人かが小さく頷いた。進祐は鉛筆の先を一度止め、それから台帳の管理欄へ目を落とした。


 文香は名札棚の前で、黙っていた。


 祐は、彼女が声を出さないことを不安に思わなかった。さっきの短い言葉が、今も棚の上に残っているようだった。


 説明は、一時間近く続いた。


 途中、暑さで窓際の人が団扇を使い始めた。明純が水を足し、愛衣子が戸を少し開け直す。信清が温度計を見て、まだ続けられると頷いた。壮翔は畳座布団の位置を直しそうになり、裕子の視線を受けて両手を上げた。


 最後に、進祐が前へ出た。


 待合所の中が、また静かになった。


 「今日の説明で、名札の扱い、開放時間、安全確認、荒天時の閉鎖、鍵管理、清掃、費用の分担案は確認しました」


 進祐の声は、海風に揺れなかった。


 「ただし、この場で完全な存続を決めることはできません。老朽化した建物であること、町の費用が発生すること、近隣への影響があることは変わりません」


 壮翔が何か言いかけた。祐は横目で止めた。壮翔は口を結び、畳座布団の角をそっと撫でた。


 進祐は続けた。


 「それでも、取り壊す前に確認すべきことがある、と私は考えます」


 文香が顔を上げた。


 「今日出た意見を整理してください。反対意見も含めて、明日の午前中までに一覧へまとめること。開放時間をさらに短くした場合の案、清掃当番が欠けた場合の案、暑さで閉鎖する温度の基準を、数値で出してください」


 裕子が、すでに紙へ書き始めていた。


 「できます」


 進祐は裕子を見て、少しだけ眉を上げた。


 「早いですね」


 「今日やらないと、明日足りません」


 「その通りです」


 進祐は名札棚を見た。


 「文香さん」


 「はい」


 「公開しない名札は、今の箱のままでいいですか。湿気対策は」


 「箱を替えます。中に薄紙を入れます。週に一度、状態を見ます」


 「費用は」


 「潮紙堂の在庫で足ります」


 「個人の負担にしすぎないようにしてください」


 文香は少し考えた。


 「では、紙の費用だけ、表に入れます」


 「お願いします」


 進祐は頷いた。


 説明会は、それで終わりではなかった。終わりの声を出しても、人はすぐに立たなかった。千代は蜜柑の籠を開け、惣菜屋の主人は茶の入ったポットを外から持ってきた。反対意見用紙を持った男性は、祐のところへ来て、紙を差し出した。


 そこには、三つの項目が書かれていた。


 開ける時間を短く。


 夜は絶対に開けない。


 子どもだけで入れない。


 祐は紙を受け取り、頭を下げた。


 「ありがとうございます。明日の一覧に入れます」


 男性は、名札棚の方を見た。


 「反対は、反対じゃ」


 「はい」


 「けど、話を聞かん反対には、したくない」


 それだけ言って、外へ出ていった。


 祐は、紙を裕子へ渡した。裕子はすぐに「反対意見」の束へ入れ、赤字で番号を振った。


 「大事に扱う」


 裕子が言った。


 「はい」


 「賛成の紙より、失くしたらまずい」


 「はい」


 文香が、名札棚の鍵を閉めた。かちり、と小さな音がした。


 その音を聞いて、祐は説明会が本当に終わったのだと思った。拍手も、大きな歓声もない。戸の外では、渡船が戻ってきている。船から降りた人が、待合所の前に集まる人たちを不思議そうに見て通り過ぎた。


 千代が団扇で蜜柑の葉をあおぎながら言った。


 「明日も、ここへ来ればええんですか」


 祐は答えに詰まった。


 まだ決まっていない。


 けれど、今日の説明会で、壊すか残すかの二つだけではない道が、ほんの少し見えた。三か月。条件付き。短い時間。暑ければ閉める。風が強ければ閉める。名前を見せたくない人の箱は開けない。


 そういう小さな線を引きながらなら、戸を開ける朝が来るかもしれない。


 祐が答える前に、文香が言った。


 「明日は、資料を作ります」


 千代は笑った。


 「ほうか。じゃあ、資料ができる頃に蜜柑を持ってきます」


 「説明会は終わりましたよ」


 裕子が言うと、千代は籠を持ち上げた。


 「終わった後の方が、お腹はすくんです」


 壮翔が大きく頷いた。


 「その意見、議事録に残しましょう」


 「残さない」


 裕子の声で、待合所に笑いが戻った。


 祐は、長椅子に置かれた資料を一枚ずつ集めた。角の折れた紙、鉛筆の線が濃く残った紙、蜜柑の葉が一枚落ちた紙。どれも、今日ここに人が座った証拠だった。


 文香は名札棚の前に立ち、しばらく閉じた扉を見ていた。


 「文香さん」


 「はい」


 「明日の資料、手伝ってもらえますか」


 「はい」


 「反対意見も入れます」


 「入れてください」


 彼女は鍵を胸元の小さな袋へ入れた。


 「呼ばれたくない人の名札を守るのと、壊してほしい人の声を残すのは、似ています」


 祐は一瞬、言葉を探した。


 「似ていますね」


 「はい」


 文香は外へ出た。港の光が、彼女の肩に乗る。古い待合所の影は短くなり、床板の傷がよく見えた。


 祐は最後に、長椅子を一つ動かした。下に、誰かが落とした反対意見用紙の控えがあった。白い紙の角が、床板の隙間へ入りかけている。


 祐はそれを拾い、裕子へ渡した。


 裕子は受け取り、少しだけ息を吐いた。


 「こういうのを失くすと、後で全部崩れる」


 「見つかってよかった」


 「あなた、今日それ何回言うつもり」


 「必要なだけ」


 裕子は、紙を束の一番上へ置いた。


 待合所の戸は、昼前にいったん閉められた。信清が雲を見て、午後は湿った風が強くなると言ったからだ。誰も反対しなかった。戸を閉めることも、残すための手順の一つになり始めていた。


 祐は鍵をかけた後、戸の前に立った。


 中には、名札がある。


 外には、反対意見の紙がある。


 そのどちらかだけを持っていっても、明日の答えには届かない。


 祐は資料の束を抱え直し、案内所へ向かった。背後で、船のエンジン音が低く響く。千代の団扇が、籠の上で一度だけ揺れた。


 説明会は終わった。


 けれど、待合所を開くための本当の作業は、そこから始まっていた。



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