第2話 淡い名札
淡名渡船待合所の名札は、翌日の午前、潮紙堂の作業机に並べられた。
尾路町の商店街は、港へ向かう人の足音でまだ眠気を残していた。魚屋の前では氷の箱が開き、惣菜屋の油は温まりきらず、路地の奥から猫が一匹、濡れた尻尾を振って逃げていく。潮紙堂の格子戸だけは、朝の光を細く切って、机の上の薄い布へ落としていた。
祐は椅子に座らず、名札を見下ろしたままノートを開いた。布地の色、縫い糸の太さ、残っている文字、裏ににじんだ墨、端の破れ。ひとつずつ番号を振り、分かるところだけを書く。分からないところへ無理に字を足すと、そこから別の名前になってしまう気がした。
「一番、白地。端に青い糸。名字は……田、までは読める」
祐が言うと、向かいに座った文香が霧吹きを一度だけ押した。水は直接名札に落ちず、空気の中で細かく散り、固く縮んだ布へ静かに吸われていく。文香は指先で端を押さえ、薄紙を重ねた。破れた場所をすぐ縫うのではなく、まず布が自分で戻るだけ待つ。その間、文香の目は名札から離れなかった。
「濡らしすぎると、字が逃げます」
「逃げる?」
「にじむ」
文香はそれ以上言わなかった。祐はノートに「水分は少量」と書き足し、文字の横に小さな波線を引いた。
そこへ裕子が、紙袋を抱えて入ってきた。袋から出てきたのは、透明な袋、付箋、太い輪ゴム、そして赤いペンが三本だった。
「机の上にそのまま広げない。番号、写真、状態、読める文字、読めない文字。持ち主候補は別紙。あと、祐」
「はい」
「『たぶん』を表に入れない」
「入れてない」
「顔が入れそうだった」
祐は返事の代わりに、書きかけの欄へ斜線を引いた。裕子は名札を一枚つまもうとして、文香の視線を受け、すぐに手を引っ込める。代わりに紙袋から綿の手袋を出し、自分の手にはめた。
「これでいい?」
文香は小さく頷いた。裕子はそれを見て、少しだけ顎を上げた。
「役所に出すなら、泣ける話より件数。何枚あって、何枚読めて、何枚危ないか。数字がないと、進祐さんは首を縦に振らない」
祐は木箱から次の束を出した。薄紙をめくると、十枚ほどの名札が重なっていた。どれも白かったはずなのに、今は灰色、薄茶、海砂のような色に変わっている。墨で書かれた字は、濃いものも、消えかけたものもあった。
淡い名札。
祐はその言葉を胸の中で転がした。色が薄いからではない。呼ばれた時の声まで遠くなっているのに、完全には消えていないからだ。
昼前、信清が潮紙堂に顔を出した。漁で使う帽子を脱ぎ、入口の外で靴の砂を落としてから中へ入る。手には細長い金槌と、古い懐中電灯があった。
「待合所の壁、見てきた」
祐は顔を上げた。
「雨漏りですか」
「雨漏りだけなら、まだいい。北側の柱の根元が湿っとる。壁を叩いたら、音が軽いところと鈍いところがある。床板も、港側の二枚は踏む場所を決めんと危ない」
信清は作業机の端に、待合所の簡単な図を描いた。窓、長椅子、名札棚があったらしい壁、入口。太い指が、危ない場所へ丸をつけていく。
「ここに人を入れるなら、まず足元。名札を見上げて転んだら、残す話どころじゃない」
文香は手元の名札から目を離さず、しかし信清の言葉を聞いていた。ほつれた糸をピンセットで引き出し、切れたところをそのまま結ばず、別の細い糸で支える。古いものを残すには、弱い場所を見なかったふりにしてはいけない。名札も、待合所も同じだった。
午後一時、進祐が来た。潮紙堂の戸口で名乗る前に、壮翔が後ろから顔を出した。
「進祐くん、祐くんが待ってたよ」
「その呼び方だと、どっちがどっちか分かりません」
進祐は眼鏡を直し、作業机の前に立った。紺色のファイルには、淡名渡船待合所の閉鎖予定表と、備品処分の確認欄が挟まっている。祐は朝からまとめた表を差し出した。
「名札が四十七枚あります。読めるものが二十九枚、名字の一部だけが十一枚、判読困難が七枚。持ち主の同意を取るまで、展示も公開もしません。返却、保管、写し、非公開の希望欄を作ります」
進祐は表を最後まで読み、すぐには何も言わなかった。壮翔が茶を出そうとして、急須の蓋を落としかける。裕子が横から受け止めた。
「安全確認は」
進祐の声に、祐は信清の図を重ねた。
「床板と柱に傷みがあります。信清さんが危険箇所を見ています。人を入れる前に、立入禁止の範囲を決めます。暑さの確認も必要です。昨日の午前でも、空気がこもっていました」
「八月上旬の説明までに、名札の扱いと建物の扱いを分けて出してください。名札が大事でも、建物が危なければ開放はできません」
「はい」
「それから、個人名です。昔のものでも、今の家族が公開を望まない場合がある」
裕子が赤ペンを握り直した。
「非公開欄、作ります。連絡先は別管理。見せる資料には出さない」
進祐は小さく頷いた。褒めはしない。けれど、ファイルを閉じる手は、来た時より遅かった。
夕方近く、愛衣子が商店街から戻ってきた。息を切らし、髪を耳にかける余裕もないまま、紙片を何枚も机に置く。
「惣菜屋さんのおばあちゃんが、昔の通学船のこと知ってました。名札は朝、待合所の棚で受け取って、帰りに戻すこともあったって。あと、縫い直してくれる女の人がいたって」
文香の指が止まった。
同じころ、明純は中学生を二人連れてきた。二人は部活帰りらしく、靴に白い砂をつけている。明純は得意げに胸を張った。
「この子らのおじいちゃんが、通学船で尾路の学校へ行ってたって。名札の話、聞いたことあるらしいです。あと、待合所に蝶の箱があったって」
「蝶?」
祐が聞き返すと、中学生の一人がスマートフォンを取り出しかけ、裕子に「ここで個人の写真は出さない」と止められた。少年は慌てて手を引っ込め、代わりに言葉で説明した。
「じいちゃんが言ってました。羽が青いのとか、茶色いのとか、箱に入ってたって。船を待つ間に見てたって」
文香は何も言わず、薄紙の端を折った。祐はその沈黙を、聞こえなかったことにしなかった。名札の表の隣に、新しい欄を作る。
蝶の標本箱。待合所内。要確認。
外の光が傾き、潮紙堂の格子の影が机の上で長く伸びた。名札の束も、朝より少しだけ表情を変えていた。乾いた布が水気を含み、曲がった端が戻り、読めなかった線が一画だけ浮かび上がる。
その中に、一枚だけ裏返しに置かれた名札があった。
祐は午前中から気づいていたが、触れずにいた。文香が何度も手を近づけ、けれど最後には別の名札へ戻っていたからだ。
裕子が席を立ち、進祐が帰り、信清が港へ戻り、愛衣子と明純が聞き取りの続きを約束して出ていく。壮翔も「座布団の高さを測る」と言って出たが、たぶん惣菜屋へ寄るつもりだと祐は思った。
店の中が静かになると、文香は裏返しの名札を自分の前へ引き寄せた。
「見ても、いいですか」
祐は尋ねた。勝手に表へ返さないための言葉だった。
文香はしばらく答えず、名札の角に薄紙を添えた。やがて、ほんの少しだけ表を開く。墨はほとんど薄れていた。それでも、丸く崩れた字のあとが見えた。
ふみ。
続きは読めなかった。名字もない。子どもの手で書いたようにも、大人が急いで書いたようにも見える。
文香はすぐに名札を伏せた。指先が、布を押さえたまま動かない。
「記録は」
声は掠れていた。
祐はペンを持ったが、名前の欄には何も書かなかった。番号だけを振り、状態欄に「裏面確認済み」と入れる。持ち主候補の欄は、空白のまま大きく残した。
「本人の意思を確認するまで、決めません」
文香は目を伏せた。頷いたのか、ただ息を落としたのか分からない。けれど、その手は名札を隠すようには動かなかった。薄紙で包み、他の名札と同じ木箱へ戻す。特別扱いではなく、乱暴にも扱わない。その置き方に、祐は文香の答えを見た気がした。
潮紙堂の外で、夕方の渡船が汽笛を鳴らした。淡名島から戻った人たちの声が、商店街の屋根の下ににじんでくる。
祐は今日の表を閉じた。名札は四十七枚。読めるものが二十九枚。けれど、数字だけでは書けない余白が、机の上に残っている。
文香は木箱の蓋に手を置いたまま、短く言った。
「明日も、来ます」
「待合所へ?」
「ここにも。向こうにも」
祐はノートの最後に、明日の予定を書いた。淡名島側の蜜柑畑、古い通学路、待合所の名札棚跡、蝶の標本箱の確認。
淡い名札は、まだ誰のものとも決められない。けれど、誰かがここを通ったことだけは、もう消えなかった。




