27.夜
その日は四月の十日過ぎだった。咲き始めた卯の花の合間から時鳥の声がした気がして耳を傾けたが、二度と響かなかった。
冥土とこの世を行きかうと言われるその鳥なら何か伝えを届けてくれるかもと、御簾越しにしばらく探したけれどいない。ただ、自分の心の中を思い知った。
暮れかけてきたが周りに人は少ない。代わりに部屋の裏の方から、娘たちのけたたましい笑い声が聞こえたりする。女房や女童が祭の支度に忙しいらしい。
斎院である姉の手伝いに行く十二人の女房も、すでに下がった。
小侍従は常よりも上ずった調子だ。やはり策に落ちているらしい。感情の高ぶりが激しく、つまらないことを話しては自分で笑い声を立てたりしている。
按察使はそんな彼女を冷然と見つめているが、小侍従に気づいた様子などない。
夜が更けるにつれて、局の方から人が来て何度も按察使を呼び立てる。
ついに彼女は席を外した。去り際に私に視線をあて、しばらく離さなかった。
衣擦れの音が未練ありげにゆっくりと遠ざかる。
人の声は止んでいた。明日の見物のために女房たちは早めに自分たちの場所に引き上げたらしい。
小侍従だけが傍に控える。私は御帳台の奥に身を横たえて、眠っているふりをした。
やがて彼女の気配が消え、そして再び現れる。空疎な恋を胸に抱いた男を傍らに伴って。
御帳台の東に柏木を残して小侍従は去った。小さな明かりが部屋の隅に一つだけ残る。
様子をうかがっていると、その男の腕が私をうやうやしく抱き上げ、浜床(御帳台の台)の下にそっと下ろした。
高みから下ろせば自分と同じ位置に立つとでも思うのか。あまりに愚かしい。
「その手をお放し、無礼者」
遠く離れた大殿油のほのかな光に映し出された男の顔は呆けて見えた。
人の妻にさえ見えないほどに幼い外観のこの私から、そんな言葉が出るとは思えなかったのだろう。目も口も大きく開いたままだ。
「聞こえないの。すぐに放しなさい」
きっぱりと彼に命じた。柏木はいまだ信じられぬ風に、おずおずと従った。私は高飛車に尋ねた。
「この私を、誰だと思っているの」
水から揚げられた魚ならこうであろう、とばかりの驚きでその男はただ息だけを荒く吐き出していた。
冷たく見据えたまま言葉を促して顎をしゃくると、ようやく口を開いた。
「…………女三の宮さま」
「それを承知で何たる無礼、何たる狼藉。おまえはいったい何者なのか」
おろおろとその男は衛門の督、柏木であることを名乗った。
「自分の身の程もわきまえぬか。この、痴れ者っ!」
きつい言葉を甘く幼い声で囁く。香の匂いが移るほどの距離で。柏木の戸惑いを感じる。
私は高慢に男を見下す。けれど、氷のような視線の中にわずかにやわらかな色合いさえ含ませ、拒絶ばかりとは言い切れぬ隙のようなものを垣間見せる。
それを受けてこの男は一、二歩下がり、身をかがめて私の足もとに控えた。
「もうずっと長い間お慕いしておりました。数ならぬ身ではありますが、帝でいらっしゃったお父上の院も、この気持ちまでもがおこがましいとはおっしゃられませんでした。ただ、この心は誰よりも深かったのですが、とるに足りないわが地位では宮さまを迎えるに至りませんでした。けれど想いは止まず、どんなにこちらの主である六条院が恐ろしくとも自分を抑えきれず、ついにこんな様を晒してしまいました。ですがこれ以上罪を深くするつもりなどけしてございません。ただ、あわれとのお言葉をいただけないでしょうか。そのお声を胸に生きていきます」
生きるよすがとしてただ一声ほしいというだけ、その程度の心様であったのだろう。
それには答えず、床に身を置いたままごく微かに足を動かした。
裾がわずかに揺れて、くるぶしと足先だけがそこに覗く。男の視線に熱が加わる。
「なにとぞ、なにとぞお言葉を。そしりでもかまいません。高貴の寝所を破る愚か者とののしってください。責めてください。もう一度、その可憐なお声をお聞かせください。あなたのお叱りのなんと甘美なことか! この卑しきしもべに今一度の恩寵を、ぜひ!」
少し身をよじらせた。髪が揺れて足もとが隠れる。柏木はうめくような声を立ててそこにすがりついた。
不快な感触にしばらく耐え、それから心のうちで薄く笑った。
おまえに与える寵と言うものがあるとしたら、それはこれからの宿命を自ら選ばせてやるということに過ぎない。
それさえも並の女には与えられないものだ。私以外の女たちは選ぶこともできず、陥ることしか道はない。
だが、おまえには逃げる自由も与えよう。
どのような決断も受け入れてやろう。
ただし、その責は自分で担え。
薄闇の中に香の匂いだけが強く漂う。私は囁いた。それよりも甘美く。
「…………私が、ほしいの?」
聞かずとも答えはわかっていた。自分というものを飾り立てるために、他者を持ってなす男に理知など存在しない。たやすいことだと、私は思った。
闇がまだ消えぬうちに男は去っていく。虚ろな恋の見せる幻を抱えて。それがただの玩具であることさえも気づかずに。
「やはりあなたと私は前世からの縁で結ばれていたのですね。私は、この恋のためなら今宵限りで命を捨てても惜しくありません。あなたは話しで聞いたよりもよほどすばらしい方だ」
それが女の形をしてはいるが、悪意をかたどっただけであるとも知らずに。
「もしも永らえることができるのなら、命以外のすべてを捨ててどこか遠くに二人で行きたい。あなただけを見つめて暮らしたい。ああ、それがかなわぬ惨めなこの私に今一度のお言葉を。ただひとこと、あわれとだけでも」
真にあわれな存在は、言葉さえ求めずにはかなく失せた。おまえがたとえ身を滅ぼしたとしても、私はそんな感情は持てない。自由に思考し行動できる立場の御曹司が、自分を御せず道を踏み外したところで同情などできない。
もの憂げに横たわる私に男は、上ずった声で言葉を尽くした。聞き流したが、小侍従の話の不十分さを責め始めた時だけは口を挟んだ。
「彼女には何も言わないで。気味悪いほど黙っていたとそう伝えて」
「あの女は何もわかっていない。あなたの魅力など微塵も理解できていない」
そういって柏木は私を抱き上げて妻戸にほど近い廂の隅まで運び、屏風を広げた。その影に私を隠すと戸を少し開き、外の様子を確かめた。
満ちたらぬ月がまだ姿を消しかねて陰鬱な影を投げる。男は格子を一つだけ、そっと引き上げた。
「お言葉さえ思うままには聞かせてくださらないつれない方なのに、あなたは私が今まで持っていたまともな心をすべて消してしまった。これが恋の狂気というものなら、なんという陶酔なのでしょう。昨夜のことも今ここにいることも、夢なのか現実なのか、私は眠っているのか覚めているのかさえわからない。ただ知ることはこの想い、この情熱が何物にも代えがたいということです。この場を去らねばならない私の心はもの寂しい秋の空よりも辛く悲しい。 おきて行く空も知られぬ明けぐれに いづくの露のかかる袖なり(夜明けの薄闇の中に出て行く私は先行きさえもわからない この袖を濡らすのがどちらの涙なのかもわからない)」
悪意の淵に捧げるとも知れぬ虚しいだけの言葉遊び。だが想いを伝えることができること自体恵まれているのだ。
歌など詠みかけることなどなかった私の恋。それでもあやめが戻ることができるのなら、永遠に想いは忍び見つめるだけでもかまわない。いや、私など存在しなくともよい。彼女さえ生きて笑ってくれるのなら。
「明けぐれの空に憂き身は消えななん 夢なりけりと見てもやむべく(夜明けの薄闇の空に憂いのわが身は消えてしまいたい 夢だったことにしてしまえるように)」
無明の闇をさまよう私の心。照らしてくれる山の端の月はすでにない。
もの思いに沈むうちに男は去った。格子からの朝の空気が冷たく辺りに満ちていた。




