25
覚悟してください
梅の香は護摩の煙に呑まれ、耳に残る琴の余韻は加持の僧の陀羅尼経に変わった。
雅の限りを尽くした六条院は忌みごとに占められ、父の五十の賀は忘れ去られた。かえって、そちらから紫の上への見舞いが幾度も届く。
月が変わっても病は癒えない。胸の痛みが彼女を苛む。
悲嘆の源氏は紫の上を二条院の方へ移した。多くの人がそれに従い、女御さえも付き添って、こちらは火を消したように寂しくなった。
心弱った彼女の言葉が伝わってくる。やはり出家を望んでいるようだ。
源氏はそれを許さない。わずらい果てた彼女に、私を捨てるつもりなのかと言いつのる。尼姿など死別よりも耐えられないとさまたげる。
生と死の淵をさまよう相手の苦しみより自分が大事か。私でさえ今は、その決意が安易なこととは思わない。少しでも彼女が安らげるのなら叶えてやるべきだと思う。
源氏はいつも「女は心がやわらかなことがいいのです」と教え諭す。たぶん幼い紫の上を育てたときも同じことを散々言い散らしただろう。
彼女の本質はもっと強いものだと思うが、源氏の言葉は彼女を今も縛っている。逆らってまで意思を通そうとはしない。苦しくともそれに耐え、ただひたすら願っている。
それならば、いっしょに出家しようと言えばいいのに。
いや、源氏はかねてからの道心(仏道を修めようとする心)を口にするわりにその意思のない男だ。言い訳を連ねて否定するだろう。それは彼女を深く傷つける。その手も使えない。
二重の檻が彼女を閉じ込める。源氏と、彼女自身があの少女を隔離する。誰かの影が消えずに重なる。源氏の使った雛型。手本とされた内親王。
春の園の女主の姿はおぼろに滲んでいく。どこまでが彼女だと言えるのか。夢の女。その歪なまでの完全性。
病は余分なものを削ぎ落とす。漏らした言葉は本音だろう。女であることに疲れて彼女はそれをやめたくなった。
それでも、純粋に自分であった少女の頃には戻れない。なんと痛ましい方だろうか。
金砂が陽気に溶けたような春の午後、微かな足音に異質な気配を感じて目を上げた。
しばらく里に下がっていた中納言が廂に控えている。表情に変わりはない。けれど私は少し震えた。
傍に招きよせ囁いた。
「あやめが死んだのね」
自分の発した言葉がまがまがしく色づいて部屋に消えていく。彼女は否定せず、頭を下げた。
深い沈黙。世のすべてが滅びたかのような静寂。閑雅な光の中の地獄。
様子に気づいた按察使が傍らに寄ったが、それにかまわず中納言に尋ねた。
「どうして」
「知らぬ間に得体の知れない薬草を口にしたらしく……」
疼痛で身体が引き裂かれる。息ができない。刺し貫かれた心の蔵。
中納言の口が動いているのが見える。何か言っている。聞こえない。何も聞こえない。
それでも、傍から見たら普段とさほど変わるようには見えないだろう。それが私だ。
按察使が触れようとしたのを眸で拒否した。誰にも同情などされたくない。
あやめ。私の大事なあやめ。いとしい人。
目の前に何かが差し出された。淡い彼女の匂い。守り袋だ。
「……これを、宮さまへと」
開くと、中には小さくたたまれたみちのく紙があった。空海の文字に似せて書かれた経文。馬鹿な娘。偽物だと知っているのに、こんなに大事に肌身離さず持つなんて。
経を握り締めたまま、按察使に命じた。
「土器を」
彼女が驚いて見つめ返した。私は表情を出さずに繰り返した。
「土器を、できるだけたくさん用意して。そしてそれを一息に割って」
中納言も不審の目を向けてくる。私は人の声のように自分の声を聞いた。
「理由は何か考えて。早く」
ふいに、瘧のように身体が震えだした。声を殺して囁いた。
「耐えられないの。すぐに!」
おびただしい数の土器が折敷(平安お盆)にのせて運ばれた。
裏を返して床に置かれたいくつかの八稜の鏡の上に、一気にそれが降り注ぐ。
同時に、ただ一声私は叫んだ。
切ない獣の咆哮。魂の千切れるその音。
辺りは再び静けさを取り戻した。
私は人形のような内親王に戻り、表情を消した。
遠くにまで響いた音は、中納言が個人的に頼んだ陰陽師の指示であることにされた。忌みごとの続く頃なので特に関心は持たれなかった。
紫の上の病状はいくらか落ち着いたようだが、源氏はその横を離れない。今、直接顔を合わせたら私はきっと言葉を抑えられないから、都合がよかった。
そして例年のように桜が咲き始めた。信じられなかった。あやめがいないのに。
喪服さえ着ることができない。食事も、断れば乳母が騒ぎ立てる。
何一つ変えられない。あの娘が死んだのに。
それなのに私は生きている。なんて無意味なんだろう。
朽ち果てればいいのに。この身も、源氏も、六条院も。
滅びてしまえばいいのに。世の中なんて。
憂いだけが春の町に満ちる。豪奢な、呪いの園。
ほんの少し苦く笑う。呪いなんかであるわけがない。ただの人の起こした惨事だ。
私も少し病んでいるらしい。常の自分でいられない。
折られた桜の枝が目の前に差し出された。按察使が何か言っている。
聞かず答えずぼんやりと見つめたが、墨染めでもない桜など心に入らない。
初めて表層と内面が一致する。見た目どおりの腑抜けた姫宮。
意識が時たま浮遊する。気がつくと兵衛が、水を張った青磁の甕に先ほどの桜をさして、御簾越しの高欄の辺りに置いていた。眺めるともなく眺めやり、日を過ごす。
時たま、単衣の下に忍ばせた守り袋に手をやる。胸元に微かなあやめの匂い。けれど日に日に薄らいでいく。私はそれを留められない。
眠りは浅く花も月も慰めにはならず、夢さえも訪れない。長い夜をただ一人、もの思いに過ごす。袖を濡らすことさえはばかられて、料紙を無駄に使ったりしている。
ふいに怒りがこみ上げてきた。源氏はあやめが死んだことも知らず、知ったとしても心を傾けることなどないのだ。紫の上のことにいくら傷つこうが、あの娘のことは思い出しもしない。
焔が身体の奥で蒼く揺れる。そしてそれは鬼火に変わる。悪意がすべて注がれて、凝り固まった恨みの色の碧玉と化す。
傷つき縮こまった私の獣は、その珠を呑み込み爪を研いだ。
あやめは還らない。鳥辺野でひとり煙と化した。中納言の手配で供養はされたが、身内の一人もいとしいと思う相手もいない寂しい葬儀だった。
紫の上が亡くなったならばこうではあるまい。上達部、女房、高きも低きも泣き騒ぎ、二条院の通りは人が溢れるだろう。
私は宙を睨んだ。
あえて尋ねる。地位低き者に価値はないのか。
あやめが紫の上の立場であったら容姿も性格も今と変わらずとも、やはり人々は嘆きを見せたことだろう。
だが彼女は一人で逝った。低い身分のその故に。
それならば、女御腹内親王である私は何をしてもいいのだろう。
なにせ、更衣腹の源氏よりも高く生まれついている。
準太政天皇の地位は不当な帝に与えられたものだ。取るに足りない。
声をたてない私の中で獣が吼える。それを私は抑えない。
その爪も牙も、思う様に振るうがよい。
これ以上、何ごとにも悔いない。
眸をめぐらすと宿直の按察使が、少し身体を起こしてこちらを窺っている。
他には乳母が一人とよく肥えた若女房が、派手な寝息を立てている。
御帳台の帳を少し開いた。
按察使が、驚いた様子で近寄ってくる。
「少し、寒いわ」
にっこりと微笑んだ。それだけでよかった。




