(27)試し書きはこちらに【ネームペン】
同じ会社。部署は違うけれど、あまり大きな会社ではないので、顔を合わせるのはしょっちゅう。
歳の差は三歳。
真面目で一生懸命で、だけどちょっぴりズレている大型犬のような後輩男性と、姉御肌でさっぱりした性格の先輩女性。
「今日もお疲れ様」
伝票に受領印を押し、ニコッと笑って宅配業者に声をかける。
「ありがとうございました!」
三十手前の私よりも五つほど若い彼は、被っていた帽子のツバをサッと上げて人懐っこい笑みを浮かべた。
――うん、うん。いつ見ても爽やか君ねぇ。
小走りで去ってゆく背中を見つめ、満足げに頷く。
親族が経営する会社で事務員を務める私は、一般的な事務作業に加えて電話番や宅配便の受け取りも担当している。
それほど大きな会社ではないので、そういった仕事は一手に引き受けていた。なので、出入りの業者とはすぐに顔見知りとなる。
しかし、彼らとはそれ以上の関係にはならない。あくまでも、『それなりに親しい』という関係止まり。
だからといって、男漁りをするために会社に来ているつもりはないため、特別寂しい思いをすることもない。
――つまり、縁がないってことよね。
受け取った荷物を解きながら、『こればかりは仕方がないのだ』とヒョイと肩を竦める。
仲の良い友人たちはすでに結婚していて、幸せな家庭を築いていた。そんな彼女たちを見れば、羨ましい気持ちが湧いてくる。
私だって、結婚願望はあるのだ。けして枯れた女ではないのだ。
ところが、お局的な自分に言い寄る男性はいない。
世話焼きの性格が功を奏して職場の人からは慕われているものの、それが恋愛に発展するというのは別の話だろう。
そんなことを考えると、胸の奥にチリッと小さな痛みが走った。
実は、私には気になる人がいたりする。
サバサバしていると言えば聞こえがいいが、男っぽいとも取れる性格の私にやたらとなついている後輩の男性がいた。
営業担当の彼が仕事でかなり大きなミスをして、途方に暮れていたところを手助けして以来、なにかと話しかけられたり、お菓子を差し入れられたり。
言動を見ていてポイントがずれた子だなと思う事が多々あるが、素直だし、やる気はあるし、可愛い後輩君だ。百九十センチ近い身長だが、私にとっては可愛く見える後輩だ。
そう、私は三つ年下の彼の事が密かに好きだった。
だが、先輩と後輩以上の関係に進む勇気はなかった。きっと彼も、私のことを面倒見のいい先輩程度にしか思っていないだろう。
フッと短くため息を吐いたところで、さっきとは違う宅配業者がやってきた。
「すみません、サインをお願いします」
「はぁい、今行きます」
慣れた流れで伝票にサインして席に戻ろうとしたところで、手にしていたネームペンを落としてしまった。しかも、あろうことに思いきり踏んづけてしまったのである。
ペキッと、嫌な音が聞こえた。
「あ~」
拾い上げたそれはクリップ部分が欠け、ハンコのキャップがどこかにいってしまっていた。
「これはもう使えないかぁ」
そそっかしい自分に苦笑い。
他の職場の人は大抵ハンコをポケットに入れているのだが、物をしょっちゅう紛失する私はこのネームペンを常に携帯していた。
荷物を受け取った際には、ハンコが必要な場合と直筆のサインが必要な場合がある。
それに対応するにはネームペンが便利だったし、ハンコのような小さなものを確実になくす私としては非常に助かるアイテムなのだ。
「仕事帰りに、新しいものを買わないと」
自分の席に戻ってかわいそうな姿になったネームペンを眺めていると、
「あ、あの!よかったら使ってください」
横から手が伸びてきた。
見上げれば、少し緊張した面持ちの後輩君が私にネームペンを差し出している。
「どうしたの、これ?」
「おととい夕飯をご馳走していただいたので、そのお礼にと思って。最近ペンの調子が悪いって、先輩が言っていたから」
ご馳走したといっても、入った店は駅前にあるラーメン屋だ。金額などたかが知れている。
それでも律儀に礼を用意してくれた彼の真っ直ぐな性格に、フワリと胸が温かくなった。それと同時に、小さな痛みにも襲われる。
そうだ、勘違いしてはいけない。彼はこういう人なのだ。恩を受けたら、かならず返す。お菓子の差し入れも、このペンも、きっと他意など欠片もないのだろう。
「お礼を期待して世話を焼いているわけじゃないから、いちいち気にしなくていいのよ」
小さく笑って、胸の痛みを誤魔化した。
これを受け取ってしまえば、使うたびに彼へと向ける気持ちに苦しむだろう。お菓子のようになくなってしまうものであれば、遠慮なく受け取れるのに。
形が残る物、しかも普段からよく使うものが手元にあれば、私はいつものように笑えなくなってしまうだろうから。
せっかく用意してくれた彼には大変申し訳ないが、受け取ることができない。
「だったら、外回りの帰りにゼリーを買ってきてくれない?フルーツがいっぱい入ってるのがいいわ」
そう切り替えした私に、彼は尚もペンを差し出してくる。
「ゼリーも先輩にあげますが、このペンもあげます!」
「え?だから、それは……」
困惑を顔に貼り付けた私に、
「お願いします!受け取ってください!」
泣きそうな顔になって、グイグイと私にペンを押し付ける後輩君。
その様子に、離れたところにいる同僚たちが「なんだ?なんだ?」と囁きはじめた。
気恥ずかしくなった私は、変に注目を集めてしまう前にネームペンを受け取る。
「そんなに言うなら……。どうもありがとうね」
お礼を口にすると、彼はホッと表情を緩めた。そして、上着の内ポケットをゴソゴソと漁り始める。
「ええと、その、それでですね、念のために、こちらに試し書きを……」
「はい?」
手にしたペンをさっそくポケットに差し込もうとしたら、またしても横から差し出された。
今度は薄い紙だ。茶色の線で枠が引いてあって、先に何やら書かれている。
ボンヤリと紙面を目で追い、そして、その紙の正体を理解して、思考が停止した。
なんと、それは婚姻届けだったのだ。しかも、彼の書名と捺印付き。
「は?え?」
ポカンと口を開け、高速で瞬きを繰り返す。
そんな私に、彼は婚姻届をデスクに置き、ぎこちない手つきでズイッと押しやってきた。
「せ、せ、先輩。試し書きとして、自分の名前を書いてみてはどうですか?あ、あと、せっかくだから、判子を押して、インクの具合を見てください!」
彼の名前が書かれた欄の横を指さし、必死に言い募る後輩。
――なに、この子?試し書きをさせるために、普通、こんなもの出す?
こちらの予想を上回る言動に慣れたつもりでいたが、これにはさすがに驚いた。
驚き過ぎて、固まって、一周回ってきたら、肩の力がどっと抜けた。ずれまくった行動に笑うしかない。
「まったく、もう。いきなりこんなもの出すなんて、何を考えているのよ」
クスクスと笑って横に立つ彼を見上げれば、眉尻をシュンと下げてしょんぼりしている顔が目に入る。
何を食べたらこんなに大きくなるのかって思うほど背の高い彼が、力なく肩を落とす様子は何だか可愛い。
それに、大人しくしていればそれなりに整って見える凛々しい顔が、捨てられた子犬のように見えるのも可愛い。
「いや、あの、だって……」
黒目が綺麗な形の良い目をオロオロさせて縋るように見てくる彼に、私は観念した。こんな突拍子もないことをしでかす彼のことが、やっぱり好きだから。
クスリともう一度笑い、ドアをノックするように、彼のお腹をトンと小突いてやる。
「だってじゃないでしょうが。こういうことには順序があるでしょうに」
「順序?」
不思議そうに軽く首を傾げる彼のお腹を、今度は少し強めに小突いた。
「そうよ。婚姻届に試し書きさせる前に、まずは告白しなさいよ。そうしたら、ニッコリ笑って『私も好きよ』って答えてあげるから」
「え?それって……」
私の言葉を聞いた彼の顔がパアッと明るくなり、同時に赤く染まってゆく。
「さ、やり直しよ」
と、照れ隠しにわざと素っ気なく促せば、彼がガバッと抱き付いてきた。
「先輩、大好きです!俺と付き合って!」
身長に見合った長い腕でギュウギュウと抱きしめられ、私は彼以上に顔が赤くなる。
「こらっ、声が大きい!それと、いきなり抱き付かないでよ!離れて!」
「嫌です!先輩から好きだと言ってもらうまで放しません!先輩、早く。俺が告白したら、好きって言ってくれるんでしょう?」
みんなの視線がさっき以上に集まっていることを肌で感じる。この事態を今すぐ収めなくては。
「ああ、もう!分かったわよ!ちゃんと言うから!」
私は息を吸いこみ、彼の耳元に唇を寄せ、
「……好きよ」
と優しく囁いた。
とたんに、体に回されている腕の力が一層強くなる。
「何、それ!先輩の告白、すっげぇ可愛いんですけど!」
「ちょ、ちょっと、離しなさいっての!」
「駄目!無理!先輩、可愛すぎる!!俺、メチャクチャ幸せです!!」
私の頭にグリグリ頬ずりしてくる後輩は、私を締め殺さんばかりにしがみつく。
「いい加減にしなさいよ!ほら、仕事に戻って!」
彼の向う脛を蹴飛ばしてやるが、『可愛い!』、『幸せ!』と繰り返すばかりで、一向に離れてくれない。
――私、早まったかしら?
そう呟くも、少しも後悔はしていないのだった。
*婚姻届において、ゴム印は不可とされています。力の入れ方によってゴム部分が歪む可能性があるからだとか。
ネームペンで婚姻届けに判子を押させようとした後輩君は、その婚姻届を役所に提出するつもりはありません。あくまでも、自分の気持ちを先輩に伝えようとした行動が、あのようになっただけです。