(19)近くて遠い関係【15センチ定規】
同じ会社、同じ部署。大学も同じ二人で、同じサークル。でも、学年は違う。歳の差は一歳。
人懐っこくてムードメーカーの後輩男性と、サバサバした性格ではっきりと物を言う突っ込み体質の女性先輩(でも自分の気持ちは言えなくて、必死に隠すタイプ)
定時を一時間ほど過ぎた室内には、パソコンのキーボードを叩く音と、紙を捲る音だけが静かに響いている。
大して差し迫った仕事ではないが、私は鬱々とした気分を抱えたまま帰宅するのが嫌で、こうして残業をしていた。
無心にパソコンの画面を眺め、時折、資料の文字を懸命に目で追う。
それでも、時折浮かんでくるのは、昼間に目にした何気ない光景。
思わず手が止まり、苦いため息を吐いた。
企画部は年齢層もバラバラ、出身大学もバラバラ。
なのにやたらと団結力があり、皆の仲は良かった。
それは仕事する上で、非常にありがたいことだ。いかげで私は、人間関係が原因で胃を悪くすることなどない。
だけど、アイツがこの部署に配属されてから、少しだけ気分が重くなっていくのを感じていた。
アイツとこっそり呼んでいる谷岡は私と同じ大学出身で、サークルも一緒だった。経歴が千差万別のこの部署に置いて、こういった繋がりがある人物は珍しかった。
学年こそは一年離れていたが、周りを取り仕切ることが割と好きな姉御肌の私と、素直で人懐っこい谷岡は学生時代からウマが合い、なにかと一緒に過ごすことが多かった。
その関係はこの会社で再会してからも変わらず、同僚や上司を巻き込んで、ワイワイと漫才のようなやり取りをする日々だ。
ワザとなのか、天然なのか、谷岡は私が突っ込まずにはいられない言動をする。時に冗談混じり、時に本気で、ついつい突っ込みを入れてしまう。
学生時代のノリはやめるべきなのかもしれないが、この関係は楽しくて、居心地が良くて、どうしてもやめられなかった。
こんな私は、アイツにとってお節介で口うるさい先輩かもしれない。
それでも、『相変わらず、弥栄子先輩の突っ込みは鋭いなぁ』といって、ニコニコ笑うばかり。
嫌がる素振りを一切見せないアイツの態度に甘えて、私は飽きることなく谷岡と関わり合う。自分の想いを隠し、『仲の良い先輩』として。
キーボードを打つ手を止め、パソコンの画面下にある時計へ目を遣る。
「七時半か。お腹も空いたし、そろそろ切り上げるか」
今日は金曜日。
仲良し企画部の面々は、今頃、予約した居酒屋で盛り上がっているだろう。
でも、今日はその場に向かう気はなかった。
分かってしまったから。
私とアイツの距離は、近くて遠い。
昼休み、例のごとく谷岡と私は他愛もない話で盛り上がっていた。そんな私たちを同僚が囲んで、時々口を挟んでくるのも、おなじみの光景。
それが、すごく寂しかったのだ。
私と谷岡は部内の誰よりも仲が良い。
もしかしたら、アイツの男友達よりもノリが合うのかもしれない。
私たちの関係を例えるのであれば、谷岡を取り巻く友人たちとの距離は三十センチ定規で。私とアイツの距離は十五センチ。
他の人よりも距離が近い。
だけど、それだけ。
アイツの恋人ではない私は、それ以上近づくことが出来ないのだ。
そのことに、気が付いてしまった。
いや、もともと気が付いていたのだ。ずっと前から気が付いていたのに、見なかった振りをしてきただけなのだ。
私はペンスタンドに立ててある十五センチ定規を手に取った。
「こうして見ると、大したことないんだけどな」
周囲には気が強いと思われがちな私だが、胸に秘めてきた想いを告げる勇気はない。
もっとアイツに近づきたいのに、今の関係が崩れてしまうのが怖くて、一歩踏み出すことが出来なかった。
たった十五センチの距離が、とてつもなく遠いものに思える。
「どうしたら谷岡に近づけるんだろう」
どうしたら、勇気を出せるのだろうか。誰か、いい方法を教えてくれないだろうか。
深く息を吐き、定規を元に戻した。
その時、
「そんなの簡単ですよ。こうすればいいんです」
驚く間もなく、後から伸びてきた二本の腕にギュッと抱きすくめられる。
「ほらね。距離なんてなくなったでしょ?」
やけに楽しそうな声で告げてくるのは、まさかの谷岡だった。
「な、なんで、ここに?飲み会に参加してるはずじゃ……」
椅子の背ごと抱き締められているので、まともに身動きが取れない。
私は何とか首だけで振り返り、谷岡に問いかけた。
するとアイツは間近でニッコリと笑う。
「弥栄子先輩がいない飲み会なんて、これっぽっちも楽しいはずないじゃないですか。だから、適当な理由をつけて抜けてきたんです」
そういって、またギュッと抱きしめてきた。
いつもなら、『いい年して、甘ったれるな‼』と声を上げるか、『寂しがり屋の谷岡は、酒より母親のミルクでも飲ませてもらえ』と冗談を言うか。
いずれにせよ、電光石火の突っ込みが炸裂するはず。
なのに今の私は現状についていけず、全身を強張らせたまま。
驚愕と呆然が入り混じった表情で谷岡を見遣っていると、いっそう目を細めて私を見つめてくる。
そして。
「弥栄子先輩、好きです」
と囁き、こめかみにチュッとキスをしてきた。
「は?ちょ、ちょっと、何言ってんの!谷岡、あんた酔っぱらってんの!?」
突然のことに驚いて、肩が大きく跳ね上がる。
「放しなさいよ!いくら酔っているからといって、許されないんだからね!」
片想いしている谷岡にこんなことをされたら、酔った勢いでこんなことをされたら、嬉しいどころか悲しいだけだ。
どうせ、こんなことはコイツの本心じゃない。アルコールのせいで、いつものおふざけが度を越しているだけなのだ。
回された腕を解こうとやっきになっていると、ますます強く抱きしめられた。あまりに強く締め付けられ、ちょっと息苦しささえ感じる。
「ふざけないでよ!谷岡、いい加減にして!」
大声で怒鳴れば、
「先輩こそ、いい加減にしてください!!」
と、私よりも大きな声で怒鳴り返された。
ビクリと身を竦めると、谷岡が縋り付くように私の髪に頬ずりをしてくる。
「こんなにハッキリと告白してんのに、まだ分からないんですか?ったく、先輩を追っかけて、この会社に就職したってのに」
「は?」
再び自分の耳を疑う。
「谷岡、何、言ってんの?」
驚きに目を瞠れば、真っ直ぐに見つめ返してくる谷岡。
「だから、弥栄子先輩が好きだって言ってるんです。大学の時から、ずっと、あなたを見てきました。誰よりも先輩のそばにいたくて、俺が後を追いかけ回していたこと、気づいていなかったんですか?」
「え?そんなこと……」
気がつけば、谷岡が隣にいることが当たり前になっていて。それがあまりにも自然だったから、全然気が付いてなかった。
それに、谷岡が私の事なんか好きになるはずないと思っていたから。「面白い先輩」として認識されているだけだと思っていたから。
「……谷岡。やっぱり、酔ってる?」
告白が信じられなくてオズオズと訊きかえせば、すぐ近くで谷岡が息を吐きだす。
「今日こそは弥栄子先輩を捕まえようと思って、酒は一滴も飲んでいません。ほら、アルコールの匂いなんてしないでしょ?」
確かに谷岡の呼気からは、ガムか飴を食べた後なのか、ミントの香りがするだけ。
「そんな……、まさか……」
谷岡が正気だと分かっても、やっぱり信じられない。
「大学の頃から、けっこうアピールしてきたんですけどね。弥栄子先輩って突っ込みは鋭いけど、俺の気持ちには鈍いんだから。ま、そういうところも可愛くて好きですよ」
甘く優しい声で囁いた谷岡は、また私のこめかみにキスを落とした。




