(12)金曜日のハートマーク【ボールペン(ピンク)】
会社員同士。歳の差は七、八歳。
本社から派遣されてきたバリバリ仕事ができる男性上司と、地方営業所に勤める頑張り屋な女性部下(変なところで前向き)。
私が勤めている職場は、家庭学習用教材を提案して販売する業務を行っている。
駅前に行けばご立派な学習塾はあるけれど、利用するにはそれなりに月謝がかかる。
それに、塾の最終授業が終わるのは二十二時を過ぎることもあった。
子供にしてみれば、結構遅い時間である。親が迎えに行けない家庭では、帰り道のことが心配だろう。
そんな事情から、家庭で勉強できる我が社の教材はわりと売れ行きがよく、固定客も獲得している。
とはいえ似たような業種もあるので、のんびり構えてはいられないのが現状だった。
そのため、テコ入れというか何というか、数か月に一度、本社の営業部社員が視察に来て、新たな販売経路の獲得や、利用者の心を放さないサービスや接客方法を伝授してくれることになっていた。
そして本日、本社の社員さんがやってきた。
朝礼で所長が本社の方を紹介した時、私はちょっとどころではなく驚いていた。
これまでウチの営業所に来てくれた社員さんは、穏やかで、人当たりが良くて、ベテランの先生といった感じだった。自分の父親というのは少々失礼だが、要は、そのくらい年上の方々が出向いてくれていたのだ。
それが、今回は違った。
まず、若い。二十五歳の私からすれば随分と年上なのかもしれないが、それでも三十三歳という年齢は、これまでの中でダントツに若かった。
そして、かっこいい。
過去に出向してきた社員さんたちも、それはそれは『いい人』だった。顔立ちも器の大きさを表しているように人の良さそうな感じが前面に出ていて、私もけっこうなついていた。
ただ、今回出向してきた織田淳司さんは別格。
なんというか、モデルさんや俳優さんといった類のかっこよさだった。
東京の本社では、こんなにかっこいい人が普通に社員として存在しているんだなと、驚きまくっている最中である。
何しろ、私が住む地域は発展していないわけではないけれど、都会と呼ぶには程遠い地域。『かっこいい人&綺麗な人』は、テレビや雑誌の中でしか見ることが出来ない特別な人種なのだ。
まあね、地元にも顔立ちがいい人はいたよ。学生の頃は、キャーキャー騒がれる生徒が何人かいたし。
だけど、そういった人たちと織田さんはまるで違った。自然にしていても、彼はそこにいるだけでいい男オーラが漂っているのだ。
東京って底知れないって思ったね。特に深い意味はないんだけど。
なにより、その若さで本社営業部の主任ってことにも驚いた。
本社はこの営業所と比べものにならないくらい、やたらと社員数が多いのだ。その大人数の中で肩書を任されるということは、それだけ仕事ができるってことなのだ。
見た目がいい、仕事ができる、そんな織田主任のことはまるで芸能人でも見るような意識。
私は遠巻きに彼を眺め、『うわぁ、うわぁ』と、はしゃぐ毎日を過ごすのだった。
けれど一緒に働いてみて、主任が見せた仕事に対する生真面目な姿勢や、お客様に対する真摯な対応に、私の心がいつしか惹かれていく。
単なる憧れが恋心へと変化するまでに、それほどの時間はかからなかった。
そして、私は頑張った。
それは化粧や服装に情熱をということではなく、とにかく仕事を頑張ったのだ。織田主任に下手なところを見せたくないので、それは、それは頑張った。
出向の期間は決まっていて、大抵は二か月で彼らはここを去ってゆく。
だから織田主任が本社に戻るときに、「笹島、よく頑張ったな」と言ってもらえるように頑張ったのだった。
織田主任がやってきて一か月半が過ぎた。あと二週間もすれば、彼は本社勤務へと戻る。
水曜日の休憩時間、私は普段から持ち歩いているスケジュール帳をジッと見つめていた。
視線の先には今週の金曜日の欄があり、そこにはピンクのボールペンで大きくハートマークが描かれている。
何を隠そう、私は織田主任に告白しようと考えていた。
なんで来週の送別会ではなくて、今週の金曜に告白するのかって?
それにはれっきとした理由があるのだよ。
だってさ、前にも言ったけれど主任はかっこいいし仕事が出来るんだよ。そんな人に彼女がいないわけないもん。今頃、東京で織田主任の帰りを心待ちにしている美人の恋人がいるに違いないんだよ。
私は、残してきた恋人さんから主任を略奪するつもりはない。
告白できればいいのだ。
自己満足ではあるが、この想いを言葉にしなかったら、私はこの先も鬱々とした気持ちをずっと引きずるだろう。
そんなのは嫌だった。主任を好きになったことを嫌な思い出にしたくはなかった。
恋を素敵な思い出にしたいのだ。それだけ、主任は素敵な人だから。
いつの日か主任じゃない人を好きになって、主任じゃない人と結婚して。
平凡だけど笑顔の絶えない生活を送る中、ふとした時に『あぁ、素敵な人に恋をしたこともあったなあ』なんて思い出すのもいいじゃないか。
そうそう、告白を最終日にしなかったのは、『主任が私を振っても、ちゃんと元気ですよ』って姿を残りの一週間で見せたいから。
主任は仕事には厳しいけれど本当は優しい人だから、私を振ったことを気に病むんじゃないかな。
だから無様に振られても、彼が本社に戻るまでにきちんと仕事する姿を見せたいと思ったから。
改めてスケジュール帳に視線を落とし、ピンクのハートマークを指先でなぞる。
その時、デスクに設置してある電話が鳴った。
慌てて電話に出ると、それは私が数日前に営業で出向いた個人学習塾からかかってきたもので、ウチで販売している教材の一部を授業で使いたいという話だった。
私はすぐさま所長の席に飛んで行って、興奮気味に事情を説明する。
「良くやった、笹島!この調子で、少しずつでも販売経路を拡大していけよ」
「はい、頑張ります」
この喜びを、指導に当たってくれた織田主任に是非とも伝えたい。
さて、彼はどこにいるだろうかと室内を見回せば、私のデスクのすぐそばに立っていた。そして、広げっぱなしの私の手帳を見ていた。
一瞬ヒヤリとしたけれど、仕事の予定ばかり書かれている物だし、見られたところで特に問題はない。
それに、あのハートマークの意味は主任に分からないだろう。
それよりも、まずは報告をしなくては。
「織田主任!」
私は笑顔で駈け寄った。
「お陰様で、新規の顧客を獲得できました。これも織田主任のご指導のおかげです!」
ニッコリ笑顔を向ければ、主任は浮かない顔をしている。どうしたのだろう。体調が悪いのだろうか。
「あの、主任?」
戸惑い気味に呼びかけると、織田主任はハッとしたように視線を上げ、そしてぎこちない笑みを浮かべた。
「笹島の頑張りが実を結んだ結果だ。これからも頼むぞ」
そう言って、主任は静かに立ち去って行った。
それからの主任は、なぜか少しだけ元気がなかった。私が報告したあの日から、ずっと表情が暗いのだ。
今日も今日とて、デスクで書類に目を遣る織田主任は一日中厳しい顔をしていて、時々長いため気をついていた。
本当にどうしたのだろう。
そんな主任を心配げに見遣っていた私は、軽く息を吸って席を立った。終業時間となり、この後、いよいよ告白するのだ。
少しでも織田主任に良い印象を持ってもらいたくて、服もメイクも髪型も、いつもよりちょっとだけ気合を入れてきた。
ドキドキしながら足を進め、
「織田主任。少々お話があるのですが、お時間を頂けますでしょうか?」
声が震えそうになるのを必死に抑えて話しかけた。
「え?」
僅かに驚いた顔をした主任は数回瞬きをし、それから私のことじっくり眺めてきた。その後、なぜか悔しそうな表情になったのは意味不明だ。
だが、今の私は告白するということでいっぱいいっぱいになっていて、主任の心情を思いやる余裕はない。
織田主任は少しだけ間を空けたあと、
「話とはなんだ?」
と、時間を割いてくれる意向を伝えてきた。
「あ、あの、よろしければ場所を移したいのですが」
その申し出に頷きで了承してくれた主任は、私を連れ立って部屋を出る。
廊下を進み、普段は誰も来ない非常階段前にやってきた。
先を歩いていた主任がゆっくりと立ち止り、振り返る。
「何の話だ?」
主任の言葉に私はゴクリと息を呑み、思い切って口を開いた。
「わ、私、織田主任の事が好きです!」
高い位置にある瞳をジッと見つめ、私は自分の気持ちを言葉にする。
「一緒にお仕事させてもらっているうちに、尊敬する気持ちがいつしか恋に変わっていて。それで、どうしても告白したくて」
視線の先にある切れ長の目元が、グワッと見開かれた。
「……え?」
そう一言発したきり、驚きの表情のまま織田主任が固まる。私からの告白は、そんなにも意外だっただろうか。
何はともあれ、自分の気持ちをきちんと伝えることが出来たので、私は大満足だ。
「お時間を取ってくださいまして、ありがとうございました。失礼いたします。お疲れ様でした」
ペコリと頭を下げ、その場を後にする。
ところが、後ろから伸びてきた手に腕を掴まれて動けなくなった。
「何でしょうか?」
どうして引き留められたのかが分からない私は、振り返って首を傾げる。
すると主任は眉間にシワを刻んでいた。
「それはこちらが聞きたい。笹島、今の告白は本気なのか?」
「はい?」
再び首を傾げる。
私はおふざけで恋の告白をするほど、遊び馴れた女ではないのだが。
何を言ったらいいのか分からずに言葉に迷っていれば、
「彼氏のいるお前が俺に告白をするなんて、どういうことだ?」
主任は意味不明な事を口にした。
「はい?」
さらに首を傾げる私。
「……彼氏はいませんけど」
淡々と告げたセリフに、課長の目がまたグワッと見開かれた。
「だったら、どうしてスケジュール帳にピンクのボールペンでハートマークなんて描いてるんだよ!これからデートなんだろ!だから、そんなに可愛いかっこうしているんだろうが!」
課長の大きな手が私の肩を掴み、ガクガクと揺さぶってくる。
なぜ、私が責められるような事態になっているのだろう。
分からない。頭がますます混乱する。
そんな中、
「私のスケジュール帳、見たんですか?」
ポツリと呟けば、主任は一転してバツの悪そうな顔になった。
「あ、いや。デスクの上に広げられていたから、それがたまたま目に入ってな……。それより、あの告白にどういう魂胆があるんだ!?」
そしてまた目を大きくして私に詰め寄ってくる。怒ったり、落ち込んだり今日の主任の表情はめまぐるしく展開している。
だが、男前はどんな表情でも男前なのだなと、私はのん気に観察していた。
そんな私に焦れたのか、課長は大きく肩を揺さぶってくる。
「答えろ、笹島!」
グラグラ揺さぶられて軽い眩暈を覚えながら、私は何とか口を開いた。
「こ、魂胆なんて何もありませんよ。わた、私は主任が好きだから告白をしたんです。それ以外、ほ、本当に何もないんです。魂胆なんて言われても」
「だったら、あのハートマークは何の意味があるんだ!」
「しゅ、主任に告白をする日だからですよぉ」
――や、やめて。これ以上、揺さぶらないで!目が回る~!
という心内の悲鳴が聞こえたかどうかは分からないが、織田主任の動きがピタリと止まった。次いで聞こえてきたのは、盛大なため息。
「俺の勘違いか……」
ポソリと呟いた主任は、掴んでいた肩を静かに放した。ようやく揺さぶり地獄から解放されてヤレヤレだ。
と、思ったのも束の間。
今度は主任に強く抱きしめられた。
「ええっ⁉」
――いったい、これはどういうこと?
素っ頓狂な声を上げた私を、主任が逞しい腕でギュウッと抱き寄せる。
「俺も笹島が好きだよ」
「ええっっっ⁉」
ふたたび素っ頓狂な声を上げる私に、織田主任はクスリと笑う。
「一生懸命に仕事をする姿が可愛くて、いつの間にか好きになっていたんだ」
「ま、まさか、そんな」
「何だよ、俺が嘘をついているとでも言うのか?」
「め、め、め、滅相もございません!ただ、もう、何がなんだか……」
予想だにしなかった怒涛の展開に、私の頭がそろそろ爆発しそうだ。
「だったら、お前が理解できるまで、じっくり時間をかけて説明してやるよ」
「そ、そうはおっしゃいますが、織田主任はあと一週間で本社に戻られるのでは?」
私の問いかけに、主任はクスッと笑った。
「ああ。そのことなんだが、俺は戻らない」
「は?」
「実は、ここの所長から異動願いが出ているんだよ。北海道にいる親の介護がしたいということでな。まだ正式な辞令が出てないんだが、その後を引き継ぐのが俺だ」
「……はぁ!?」
「つまり、いくらでも時間はあるってことだ。安心しろ、恵美」
ニッコリ笑う主任の顔は、それはもう清々しいまでに晴れ渡っていた。
仕事ができる人間は、色々な面においても抜かりがないようである。




