第六話 呼び出し
「……ラディア公爵家の令嬢を、呼べ」
低く落ちた声は、あまりにも短かった。
それでも――
執務室に満ちていた静けさが、わずかに形を変える。
控えていた側近が、顔を上げる。
言葉を選ぶように、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「……公爵のご息女を?」
問いは、最後まで形にならない。
「承知いたしました」
深く一礼する。
靴音が、静かに遠ざかっていく。
扉が閉まる音が、重く落ちた。
その余韻が消える頃、室内には、紙とインクの匂いだけが残っていた。
レオニスは、手にしていたペンを止めた。
紙の上に、黒がにじむ。
その滲みを、しばらく見ている。
やがて、ゆっくりとペンを置いた。
指先が、机を一度だけ叩く。
乾いた音は、小さく、すぐに消えた。
視線は落ちたまま。
だが――
その奥で、何かだけが、確かに残っている。
皇城、補佐官執務室。
差し出された書簡を、ディオンは受け取った。
封蝋に刻まれた紋章。
見慣れているはずのそれが、わずかに重く感じられる。
爪で静かにそれを割り、紙を開く。
数行、視線が走る。
それだけ。
だが――
ほんの一拍、止まる。
指先が、紙を押さえたまま動かない。
「……セレスを」
低く、落ちる。
名を呼んだだけで、それ以上は続かない。
続ける必要がない。
紙を閉じ、机に置く。
指が、わずかにその上に残る。
すぐには離れない。
やがて、ゆっくりと引いた。
椅子を引き、立ち上がる。
衣擦れが、小さく空気を揺らす。
「外す」
その場で、短く告げる。
誰も問い返さない。
そのまま歩き出す。
扉が開き、閉じる。
足音が、廊下へと流れていった。
ラディア公爵邸、庭の奥。
陽が落ちる場所に、セレスティナはいた。
膝を折り、土に触れる。
葉の縁をなぞる。
指先で、わずかな硬さを確かめる。
香りを拾う。
風が、静かに抜ける。
揺れた葉が、光を細かく散らした。
世界は、そこにあるものだけで満ちている。
「セレス」
声が、上から落ちた。
セレスティナは顔を上げる。
「お兄様」
変わらない声音。
変わらない距離。
ディオンは、数歩の位置で止まった。
それ以上は近づかない。
「陛下がお呼びだ」
短い言葉に、余計なものはない。
セレスティナは、瞬きを一つする。
瞳の中で、光がわずかに揺れる。
「そうですか」
それだけだった。
驚きも、問いもない。
ただ、受け取る。
ディオンは、わずかに目を細める。
何も言わない。
言葉を足しても、意味がない。
セレスティナは立ち上がる。
手にしていた葉を、そっと土へ戻す。
指先の土を払う。
細かな粒が、光を受けて落ちた。
「では」
一歩、踏み出す。
迷いはない。
ディオンは、その横に並ぶ。
最初から決まっていたかのように、自然に。
セレスティナが、わずかに首を傾げる。
「お兄様も?」
問いというより、確かめるような声。
ディオンは答えない。
ただ、隣を歩く。
それで、すべてが足りていた。
皇城ーー
石の廊下は、冷たく光を返している。
足音が、一定の間隔で重なる。
先導する使者。
その後ろを、セレスティナが歩く。
一歩遅れて、ディオン。
すれ違う者たちが、一瞬だけ視線を向ける。
すぐに逸れる。
何も言わない。
だが、空気だけが、わずかに揺れていた。
やがて、重厚な扉の前で止まる。
使者が一礼する。
扉を叩く音。
短い応答。
ゆっくりと、扉が開く。
「セレスティナ・ラディア嬢を――」
声が、室内へ流れ込む。
レオニスは、顔を上げた。
視線が、真っ直ぐに向けられる。
あの森でのまま、何一つ変わらない。
セレスティナは、一歩前へ出る。
靴音が、わずかに響く。
「お呼びと伺いました」
形だけの言葉。
それでも崩れない。
レオニスは、すぐには答えなかった。
視線を逸らさずに、ただ見ている。
その距離を、そのまま測るように。
短い沈黙が落ちる。
だが、確かに存在する時間。
やがて――
「……来たか」
低く、落ちる。
それだけだった。
それだけなのに、空気が、わずかに動く。
セレスティナは、何も変わらない。
ただ、そこに立っていた。




