第四話 名を持つ者
「――陛下」
張り詰めた声が、森の静寂を裂いた。
控えていた騎士の一人が、一歩前へ出る。
視線は、ただ一点――
セレスティナへと向けられていた。
明確な警戒。
当然だった。
皇帝の至近距離に、素性の知れぬ令嬢。
それだけで、本来ならば排除の対象となる。
「離れてください」
低く、抑えられた声。
だが、その響きは命令に近い。
セレスティナは、顔を上げた。
ほんの一瞬、騎士を見る。
それだけだった。
従う様子はない。
逆らう意思すら見えない。
ただ――
優先順位の中に、その言葉が存在していないだけ。
視線は、すぐに手元へ戻る。
摘み取った葉を、丁寧に布で包む。
騎士の眉が、わずかに動いた。
「聞こえて――」
「構わん」
レオニスの声が、それを遮る。
短く、揺るがない一言。
空気が止まる。
騎士は口を閉ざした。
だが、その視線はなお鋭いままだった。
レオニスは、セレスティナを見ている。
変わらない。
この状況でも。
何一つ、揺れていない。
「名は?」
静かに問う。
セレスティナは、手元を整え終えてから顔を上げた。
一拍。
そして、答える。
「セレスティナ・ラディアと申します」
簡潔だった。
飾りはない。
それでいて、曖昧さもない。
その名が、森に落ちる。
――ラディア。
わずかに、空気が動いた。
誰かが息を呑む。
視線が、揺れる。
声には出さない。
だが、その場にいる者すべてが理解していた。
その名の意味を。
帝都の中枢に在る家。
王に最も近く、政を動かし続ける者たち。
現宰相を務める、公爵家。
そしてーーその令嬢。
軽々しく近づくことすら、本来なら許されない存在。
だが――
目の前にいる少女は、それと結びつかない。
あまりにも静かで、あまりにも無頓着だった。
レオニスは、わずかに目を細める。
(……ラディアか)
ようやく、いくつかの辻褄が合う。
あの場でも。
この距離でも。
揺れなかった理由。
だが――
それでも、足りない。
説明にはなる。
納得には至らない。
あの在り方は、それだけで片付くものではない。
「お前は……」
レオニスが言葉を継ごうとするが、止まる。
何を問うべきか、定まらない。
立場か、目的か。
それとも――
なぜ揺れないのか。
セレスティナは、すでに聞いていない。
視線は森へ向けられている。
次に使えるものを探している。
会話は、そこで途切れていた。
だが、不思議と終わった感覚はない。
騎士が、再び動こうとする。
その前に、セレスティナが立ち上がった。
布を整え、軽く抱える。
「失礼いたします」
今度は、確かにレオニスへ向けて言う。
だが、その声音は変わらない。
敬意も、緊張も、特別な響きもない。
ただの形式、それだけだった。
踵を返す。
止まらない。
引き止めを待つ様子もない。
森の奥へと、自然に歩いていく。
騎士たちが視線で追う。
誰も動かない。
動く理由が、見つからない。
レオニスもまた、何も言わなかった。
ただ、その背を見ている。
やがて遠ざかり、木々の間に溶けていく。
完全に見えなくなった。
それでも――
しばらく、視線はそこに残っていた。
「……陛下」
控えめな呼びかけに、ようやく、現実に引き戻される。
レオニスは、ゆっくりと息を吐いた。
視線を外す。
森は、元の静けさを取り戻している。
だが――
何かが、残っている。
言葉にできないままの感覚。
「戻る」
短く告げる。
それだけで、狩りは終わった。
騎士たちは何も問わない。
ただ従い、歩き出す。
その途中で――
レオニスは、わずかに足を止めた。
もう、誰もいない場所へ振り返る。
理由は分からない。
理解もできない。
それでもーー
その感覚だけが、妙に、消えなかった。




