帝国編 22.友人
月夜の船が依頼に出た朝、レイアは一人で大図書館へ向かった。
ルイも来なかった。
珍しいことだった。理由は聞かなかった。聞かなくていいと思った。一人の方が、探しやすい。
そう、思っていた。
帝都の朝は早い。
市場の方から荷車の音が聞こえる。石畳に靴の音が重なる。どこかで子供が叫んでいる。ゴルンの朝とは違う——密度が、全然違う。
大図書館へ向かう道は、北区に入ると少し静かになった。
古い建物が並んでいる。歴史の重さが石に染み込んでいる感じがする。大図書館の正面柱が遠くから見えてきた。
扉を開けると、空気が変わった。
外の喧騒が、分厚い石の向こうに消えた。
受付に向かい、前回の記録があることを確認した。制限区画の鍵を受け取った。奥へ進む。重い扉を開ける。ひんやりした空気が来た。
棚の前に、人がいた。
——先客。
水色の髪だった。男性にしては長い。肩のあたりで緩く結んでいる。眼鏡をかけていて、背が高くひょろりとしている。手が細い。棚から文献を取り出して、立ったまま読んでいた。
レイアは気にせず、自分が探していた棚の方へ歩いた。
前回見つけた文献の続きがある棚だ。艶桜という地名が出てきた文献。その周辺に、もう少し情報があるかもしれない。
棚を端から確認していく。
「これも違う」
男が小さく言った。
独り言だ。
「龍骨の成分についての記述が……どこにも見当たらない」
レイアは棚を見たまま、聞いていた。
龍骨。
その単語だけが、耳に引っかかった。棚から視線を外さずに、横目で男の方を見た。文献を開いたまま、眉をわずかに寄せている。
「——その棚の三段目」
思ったより声が出た。
男が顔を上げた。眼鏡の奥の目が、レイアを見た。驚いた様子だったが、大げさには反応しなかった。
「三段目に、似たものがある。成分についてかは分からないけど、龍の骨に関する記述がある文献が一冊」
「……読めるんですか、この文字」
「少しだけ」
男はしばらくレイアを見てから、棚の三段目に手を伸ばした。文献を取り出して、立ったまま開いた。
しばらく、静かだった。
ページを繰る音だけがした。
「……ある」
小さく言った。嬉しそうでも感動した様子でもない。ただ、あった、という顔だった。それから顔を上げて、レイアを見た。
「この文字を読めるというのは、どこで」
「習った、昔」
「誰に」
「……知り合いに」
男は少し考えるような顔をしてから、「そうですか」と言った。それ以上は聞かなかった。
男はドージと名乗った。
帝都で錬金術の研究をしていると言った。龍骨を素材とした薬品の研究をしていて、成分の記述がある文献を探していたと言った。
「龍骨というのは」とレイアが聞いた。
「龍が死んだ後に残る骨のことです。現存するものは極めて少ない。成分が特殊で、他の素材では代替できない薬効がいくつかある」
「それを研究してどうするの」
「薬を作ります。特定の呪毒に対して効果があると文献にあって——ただ現物がないので、成分を他の素材で再現できないか調べているんです」
「そういうことを一人でやってるの」
「大抵のことは一人でやっています」
端的だった。
レイアは棚の別の段を確認しながら、聞いていた。ドージも棚を見ながら話した。互いを見ていない。棚を見ている。それでも会話が途切れなかった。
「あなたは何を調べているんですか」
「龍人の記録」
「歴史の方ですか」
「そう……かな。なぜ滅びたか、とか。そういう」
「それは私も知りたいです」
レイアは手を止めた。
ドージは棚を見たまま言っていた。特別な意図がある顔ではなかった。ただそう思っている、という顔だった。
「なぜ」
「錬金術の素材として研究を始めたんですが、調べるうちに……龍人族そのものが気になってきた。数百年前に突然消えている。理由が文献に全然残っていない」
少し間を置いた。
「不自然でしょう」
——不自然。
「そうだね」
自分の声が、少し低くなった気がした。
一時間半、二人で棚を探した。
会話は断続的だった。どちらかが何かを見つけると話した。どちらかが集中しているときは黙った。沈黙が来ても、気まずくはなかった。
ドージが棚の一番上の段を指して「あれ、届きますか」と言った。
「届かない」
「私も届かないんです。毎回梯子を取りに行かないといけない」
「取ってくる」
「……ありがとうございます」
梯子を持ってきて、上の段の文献を取った。ドージに渡した。ドージがすぐに開いて読み始めた。礼を言った後にすぐ文献に向かう、その感じが——悪くなかった。
余計なことを言わない人間だ、とレイアは思った。
しばらくして、ドージが「この一節なんですが」と言いながら文献をレイアの方に向けた。古語で書かれた一文だ。
レイアは文字を見た。
「……龍の血を継ぐ者は、その骨においても特別の性質を持つ、と書いてある」
「読めた」
「少しだけ、って言ったけど」
「そのくらいは」
ドージが文献を見直した。何かをノートに書き付けた。小さな字だった。
「龍の血を継ぐ者……というのは、龍人のことを指しているのでしょうか。それとも半龍——人と龍の混血の可能性もありますね」
「分からない」
「そうですね。文献の年代からすると、龍人がまだ生存していた時代の記録だと思うんですが」
——まだ生存していた時代。
「そうかもしれない」
「あなたはどう思いますか、龍人族が消えた理由」
「……外から何かが来たんだと思う。自然に消えるには、急すぎる」
「同じです」
ドージがノートから顔を上げて、レイアを見た。
「同じ考えです、私も」
図書館を出たのは昼前だった。
外の光が目に入った。帝都の北区は、昼になっても少し静かだ。日が石畳に落ちて、影が短くなっている。
「一つお願いがあるんですが」
ドージが言った。
「何」
「もし冒険者であれば、素材の採取と調査を依頼したいんです。私は戦闘ができないので、一人では行けない場所がいくつかあって。帝都近郊に、必要な素材がある場所が分かっているのに行けないでいる」
レイアは少し考えた。
断る理由を探した。
——特に、ない。
「聞かせて」
ドージが少し目を瞬かせた。断られると思っていたらしい。
「では明日、詳しい話を。研究室に来てもらえますか」
「分かった」
「場所は——」
「教えて」
ドージが場所を告げた。レイアは頭に入れた。
「では明日」とドージが言って、別の方向へ歩き出した。足が速い。もう次のことを考えているらしい。
レイアは宿の方角へ歩き出した。
歩きながら、さっきの一時間半を思い返した。
龍骨。龍人族。なぜ滅びたか。外から何かが来た。
——同じことを知りたい人間が、いる。
それだけのことだ。
しかし、なんとなく。
宿への道が、少し短く感じた。




