帝国編 21.路地裏にて
月夜の船が依頼に出たのは、翌々日の朝だった。
帝都支部で受けた護衛依頼だ。商人が北区から東区まで荷を運ぶ、半日で終わる仕事らしい。ルイが「一緒に来るか」とレイアに聞いた。
「今日はいい」
「そうか。何かあれば——」
「宿に戻る」
ルイはしばらくレイアを見てから、「分かった」と言って月夜の船の三人と出ていった。
宿の扉が閉まった。
レイアは少しの間、部屋にいた。それから上着を羽織って、外に出た。
目的はなかった。
ただ、知らない街を歩くのは嫌いではない。ゴルンに来たときもそうだった。体を動かしながら、目で見ながら、その場所の空気を覚えていく。
帝都の空気は、まだよく分からない。
大通りを外れて、路地へ入った。
路地は複雑だった。左へ曲がり、右へ曲がり、袋小路に当たって戻る。建物と建物の隙間が狭く、空が細い。ゴルンの路地とは比べ物にならない密度だ。
市場の裏手に出た。
表の市場とは違う空気がある。売り物の残骸、荷崩れしたままの木箱、路地の隅に座り込んでいる人間。表では聞こえなかった言葉が飛び交っている。値段の交渉、怒鳴り声、笑い声が混ざっている。
レイアはその中を歩いた。
視線が来る。よそ者だと分かるのだろう。しかし誰も声をかけてこない。それでいい。
裏市場を抜けると、建物の密度が変わった。
貧民街の外れだった。
石畳が途切れ、土の地面になる。建物が低く、古く、隙間風が入りそうな造りだ。子供が数人、路地で遊んでいる。大人の姿は少ない。昼間から働きに出ているのか、それとも別の理由があるのか。
レイアは立ち止まらずに歩いた。
ゴルンにも、こういう場所はあった。
帝都は表の豪華さが大きい分、裏との落差も大きい。その落差が、目に見えるほど近くに並んでいる。
昼を少し過ぎた頃、冒険者の溜まり場らしい酒場に入った。
扉を開けると、昼間から酒を飲んでいる男たちがいた。テーブルに何人かずつ固まっている。笑い声があり、賭け事の声があり、口論がある。
カウンターに座って、水を頼んだ。
「水だけかい」
酒場の主人が言った。
「水だけ」
「珍しいな」
それきり何も言わなかった。
レイアは水を飲みながら、部屋の中を見渡した。
帝都の冒険者は、ゴルンとは違う雰囲気だ。装備が良い者が多い。話し方に慣れがある。依頼の種類も違うのだろう——護衛や情報収集を請け負う者が多いと、サラが言っていた。
右奥のテーブルに、四人組がいた。
武装している。依頼帰りか、あるいはこれから向かうのか。その中の一人が、ふとレイアの目に引っかかった。
目だ。
目の光が、おかしい。
笑っている。話している。普通に見える。しかし目だけが——遠くを見ている。焦点が、この場所にない。
デニーと同じだ。
あの森の夜、振り返ったデニーの目と同じ質の光だ。
レイアは水を飲みながら、そちらから視線を外さなかった。
男は仲間と話し、笑い、酒を飲んでいた。しかしその動きが、どこかずれている。笑うタイミングが少し遅い。返事が少し早い。自分の意志で動いているようで、何かに合わせて動いている感じがある。
しばらくして、男が席を立った。
仲間に何か言って、一人で扉から出ていった。
レイアは水の代金を置いて、後を追った。
男は路地を歩いていた。
目的地があるように歩いている。まっすぐではなく、曲がる。また曲がる。人通りが減っていく。建物が古くなっていく。
北区の方角だ。
レイアは距離を保ちながら、追った。
路地が細くなった。石畳が終わり、土になった。建物が低くなった。気づいたときには、周囲に人の気配がなくなっていた。
そして——
感じた。
微かだが、確かにある。
腐った魔力の残滓だ。
ゴルンで感じたものと同じ質だが、濃い。空気に溶け込んでいる。一か所から来ているのではなく、この辺り一帯に広がっている感じがする。
男が、建物の角を曲がった。
レイアも曲がった。
路地の行き止まりだった。
男の姿がなかった。
扉もない。梯子もない。ただの石壁が、三方を囲んでいる。消えた。
レイアは立ち止まった。
壁を見た。地面を見た。上を見た。
何もない。
残っているのは、魔力の残滓だけだ。さっきより濃い。この場所が、その中心に近い。
宮廷の外壁が、すぐそこだった。
城壁の上部が、路地の向こうに見えている。
レイアはしばらく、その場に立っていた。
追えない。今は、まだ。情報がなさすぎる。どこへ消えたのか、どこへ向かったのか、何者なのか——何も分からない。
ただ、ここだ、という感触だけが残った。
帝都の腐りは、宮廷に近い場所から来ている。
レイアは踵を返した。
来た路地を、引き返した。魔力の残滓が薄くなっていく。静かな路地を抜けて、人の声が戻ってくる。
まだ、時が来ていない。
しかし——近づいてはいる。




