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最終話

 中庭のガーデンテーブルの前に立つと、ニコラス様は呪文を唱えて二つあるガーデンチェアにクッションをそれぞれ転移させた。


「よし、ここに座ろうか」

「はい」


 誘われるままに来てはみたものの、今までこんな頼み事をされたことはなく、ふかふかのクッションに座りながらニコラス様は急にどうしたのだろうという疑問が頭をもたげた。

 そういえばまだ今月はニコラス様に奇行は見られない。今回のこれも奇行の一種なのだろうか。


 そんなことを考えながらニコラス様を見れば、彼は静かに空を見上げていて、私も彼に倣って空を見上げた。夜空には雲一つなく、満点の星々が輝いている。


「綺麗ですねぇ…」

「ああ…」


 会話はそこで一旦途切れ、静かな夜に微かな風の音だけが聞こえてくる。

 二人でこの美しい夜空を独占しているようで、なんだかとっても贅沢な気分。


 エドガー様と一緒にいた時の私はとにかく自分を見て欲しくて、何かしら話しかけていたように思う。

 けれどニコラス様と一緒にいるとそんなことはなくて。彼と過ごす静かでのんびりとした時間は心が凪いで、沈黙すら心地良かった。


 ちらりとニコラス様を盗み見すると、彼はまだ夜空を見上げている。

 前より肉付きが良くなったけれど、やっぱり女性みたいにほっそりしてて、青白い顔はどうみても不健康そう。研究室で徹夜してくることもたまにあるから、きっと寝不足も彼をこんな顔にしている要因の一つなのだろう。

 今はこれがニコラス様の普通の状態なのだと知っているけれど、結婚したての頃はよく執事長に彼の体調を確認したものだ。


『奥様、安心してください。ニコラス坊ちゃんはこれが普通です』


 何度もそう言われたな。最初の頃は信じられなかったけれど、一ヶ月もすれば流石に理解した。

 今でもやっぱり心配になるのだけど、ニコラス様が倒れたことはないのでひとまずこのままでいいかなと思っている。私は血に飢えて死にかけてる吸血鬼みたいな彼の容姿が、いつの間にかとても好きになっていた。

 もし倒れたら、私の安心と彼の健康のためにもっと太ってもらおうとは考えているけれどね。


「クレア殿…私の話を聞いてくれないか」

「ええ、いいですよ」


 やはり奇行の気配がする。少しワクワクしながらニコラス様の言葉を待った。


「私の…初恋の話なのだが」

「え」

「い、嫌ならいいんだ。ただ…今日、話しておきたくて」

「いえ、聞きますよ。聞かせて下さい」


 妻に初恋の女性の話をするというのは、どういう了見なのか。

 面白くない。非常に面白くない。面白くないけれど、ニコラス様はこの話をしに私を中庭へ誘ったのだろうし、何より私は彼の初恋が気になって続きを促した。


「……私がその子に出会ったのは、小さな頃だった。出会ったと言っても少し会話を交わした程度で、全然私に懐かないその子とは直接会うことはなくなった。私も当時から魔法にしか興味がなく、自分より年下の子供の相手など無理だと思っていたので、懐かれなかったことに安心していたように思う」


 初恋のお相手は年下なのか。ふーん。


「それから見かけることはあっても直接関わることはなく、長い月日が過ぎて…。ある時、いつものように見かけたその子を、いつも通り気にも止めず通り過ぎるはずだったのだが…私はその時、通り過ぎることが出来なかったのだ」

「どうしてですか?」

「彼女が…あまりにも綺麗な顔をしていて」


 私はその言葉に、何故か酷く傷付いた。

 そして私はこの痛みを知っている。


「彼女はどうやら片思いをしていたらしい。…相手の男と楽しそうに話していたのだが、その男が席を外して見えなくなると、彼が去って行った方を切なげな…とても憂いのある表情をして見ていたのだ。私はそんな彼女を、凄く綺麗だと思った。私が普段綺麗だと思うのは寸分の無駄もなく組まれた魔法陣くらいなのだが…その時の彼女はどんな魔法陣よりも、綺麗だったんだ。…たまに見かけていても、そんな顔など一度も見たことはなかった。私は彼女が垣間見せたその表情を見た時に、きっと恋に落ちたのだろう」


 ぽつり、ぽつりと大切な宝物に触れるように思い出を語るニコラス様は幸せそうな顔をしているのに…どこか痛ましい。

 自分のことではないのに胸がとても苦しくなった。


「…その女性が片思いをしていたのなら…実らぬ恋、だったのですか」

「……そうなんだ。別の男性に恋をしている女性を口説くことなど私には出来なかった。…そもそも口説き方など知りはしないのだが。…私の初めての恋は、始まった瞬間に終わってしまった。でもそれでも、私は構わなかった。彼女があの綺麗な表情をしなければ、彼女は幸せになれる。それでいいと思えるほど、私にとっては淡く眩しい恋だった」


 切なげにそう語るニコラス様が、いつかの自分に重なる。

 思わず彼の手を握れば、彼は見たこともない程の優しい笑みを浮かべて私の手をそっと握り返してくれた。


「…だけど私の初恋が実らなかったように、彼女の初恋も実らなかった。彼女の好きな人はね、彼女ではない人と結婚してしまったんだ。兄の背に隠れ、泣きじゃくる彼女はとても痛々しくて声を掛けたくなった。…もちろん私にはそんなことは出来なかったのだが。……彼女の好きな人が彼女たちのところに行き、先程まで泣いていた彼女が兄の背から出てきて気丈に振る舞い、好きな人を祝福する姿を見て、やっぱり綺麗だなと思った」


 …それはとても覚えのある話で。

 自意識過剰かもしれないけれど、彼女というのは…。

 答えを求めてニコラス様を見つめると、彼はかつての結婚式の時ように寂しそうに笑った。


「その結婚式の日だっただろうか。彼女の父に…ヴィクトル殿に彼女の結婚相手を探していると言われた。名乗りをあげようとしたが、やっぱり私にはできなかった。彼を…エドガーを想って傷心中の君を妻になど、とてもじゃないができないと思った。だって君はエドガーが好きだった。そんな状態の君を妻にしたら、苦しむのは君だ」


 エドガー様の結婚式以来、私はずっと泣いていなかった。もう涙など、とうに枯れたと思っていた。

 なのに、今またぽろぽろと涙が溢れてくる。


「…では、どうして私と結婚することを決めてくれたのですか」

「……次の日、ヴィクトル殿に娘と結婚しないかと言われた。一度断ったが、よく考えて欲しいと言われて一晩寝ずに考えた。考えた結果…決めたのだ。君を幸せにしよう、なんて無責任なことは言えないが、せめて深く傷付いた君が心安らかな日々を送れるように努めよう、と。きっと他の男と結婚するよりは、君の気持ちを知っている私の方がそれに適している。だから君と結婚して、君がいつか傷を癒して幸せだと感じられる日が来るようにしようと、そう思ったのだ」


 いつか涙を拭った兄の手よりも華奢で、細くて、角ばった冷たい手で、そっと溢れる私の涙を掬う。


「彼に恋をしていた君は、彼以外には触れられたくなかったのだろう。誓いのキスをする時、辛そうな顔をしている君を見てそう思った。あの時はどうしようもなくて…本当にすまない。……結婚式の夜、私は君が傷付かぬようにする為に初夜の何かいい言い訳はないかとずっと探していたが、結局見つけられなかった。どうしようかと思いながら君と話していれば、君の方から理由をくれて私は正直ホッとした。傷付いた君をこれ以上、傷付けなくて済んだのだから」


 あのときのすまない、という言葉も。寂しそうな笑顔も。全部、彼なりの優しさだったのだ。

 ニコラス様だってこれから結婚するというのに他の男を想う私を見て傷付いたはずなのに、どうしてそんなにあなたは私に優しいの。

 この人の優しさに包まれていたことも知らず、私はずっと…甘えていたのね。


「研究が完成するまでは、ひとまず君はゆっくりと休息ができる。その事実に心底安心したものだ。最初の頃は無理をしていたように思うが、少しずつ元気になっていく君を見て、私は幸せだった。君との日々はかつてないほど新鮮で、眩しくて…魔法以外にこんなに夢中になるなんて、夢にも思わなかったよ。だって私は君とのこの日々が続く為に、初めて魔法の研究を進めたくないと思ってしまった程なのだから。…それくらい、私はいつしか君を深く愛していたらしい。そして…人間って手に入れてしまうと欲深くなるようで、君の安寧をあんなに願っていたはずなのに、いつか君に私を愛して欲しいと、そんな風に思うようになってしまった」


 罪を告白する罪人のような表情をして、ニコラス様は私の涙を拭った手をぎゅっと握り込んでいる。


「だけどいつだって君の心の中には彼がいて、それを知っていて君と結婚した私が愛されるはずなどない。それでもほんの少しでいい…私を好きだと、思って欲しい。そんなことばかり考えるようになって、私は出口のない迷路に迷い込んでしまった子供のようだった。君に愛されているエドガーのようになりたくて、彼の容姿や口調を真似てみたりしたが、どれも上手くいかなくて。そして時間だけが過ぎて…今日、ついに研究が完成した」


 …あの奇行はエドガー様を意識してのものだったのか。

 私に愛して欲しいと、その一心で。


「子供をつくらないのは、研究がひと段落するまでという話だった。完成したら…君は想っている人がいるのに、好きでもない男と子供をつくることになってしまう。…それに関して話したいことがあって、ここに連れてきたんだ」


 震える声で告げるニコラス様の目には、強い決意が滲んでいた。


「……子供なのだが、養子をとればいいと思っている。両親のことはきっと説得してみせるから、心配しなくていい。私からは今後も一切触れない…だから、どうか君の想いを知った上で君と結婚することを選んだ私を、嫌いにならないでくれ」


 消え入りそうな声で俯いてしまったニコラス様は、今にも消えてなくなりそうだ。私が消えてしまいそうだと一時期ありったけの魔法を私にかけていた彼の気持ちが、初めて分かったように思う。


 この人に消えて欲しくない。ずっと私の傍にいてほしい。


 ニコラス様が初恋の女性のことを話しているときに感じた胸の痛みを、私は知っている。

 あれはエドガー様が好きな女性の話をしていたときに感じた痛みと、同じ痛み。

 ニコラス様はまだ私がエドガー様を愛していると思っているけれど。

 もうとっくに、心を埋め尽くしていた青空は夜闇に塗り潰されている。


 ガーデンチェアから立ち上がり、座ったままのニコラス様をそっと抱きしめた。羨ましいくらいに細くて、角ばっていて…今にも消えてしまいそう。びくりと震えた彼は、恐る恐ると言った様子で私を優しく抱きしめ返す。


 どれくらいそうしていたのだろう。

 ゆっくりと腕を解いたニコラス様がもぞりと動いた。


「クレア殿…」

「クレア」

「え?」

「クレア、と呼んでください…ニコラス」


 クレア、と小さく呟くニコラスの耳は、満点の星で輝く明るい夜のお陰で赤くなっているのがよく見える。


「ニコラス、私あなたが好きよ」


 そう言えば、硬直してますます赤くなる耳が見える。白い肌だから、赤くなると目立つのだ。

 腕を解けばニコラスは泣いていて、私はそんな彼にキスをした。

 私からした初めてのキスは、ほんのりしょっぱくて彼の涙の味がしたけれど、それも愛おしい。


 完全に固まってしまったニコラスに、思わず笑ってしまう。あなたはいつも私を笑わせてくれるのね。

 傷付いた私を、夜の帳で優しく包み込んで見守ってくれていたあなた。眩しい太陽に焼かれた傷は、もうとっくに癒えていたのよ。


 好きよ。

 優しくて、ちょっぴりおかしくて、吸血鬼みたいで、不器用な…愛しい私の旦那様。



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