42.テフの製作者
電車内で葵と別れた樹は一人で夜道を歩き切り、王野家の門をくぐった。
家の玄関にはどこからともなくシーンと聞こえてきそうな静けさがある。
以前は帰ると家には誰もいないという事が珍しくなかったが、ここ最近は葵と一緒に帰ってくることも多かったので静かと感じる事はなかった。
葵がいる生活に慣れてからは以前の生活はどれほど寂しいものだったかよく分る。
玄関には秋用の短いブーツが隅に寄せて置いてあった。
今朝家を出る時には無かったものだ。
桜が家を出て、樹よりも先に帰ってきたのだろう。
「ただいま」
「おかえり……」
二階から細々と返事があった。
どうやら桜は二階に息を潜めていたようだ。
桜は今も二階で立て籠もっている。
という事は今日の晩御飯の準備は自分でせねばならない。
樹はガックリと肩を落とした。
樹は部屋着に着替えるために二階に上がり、その前に一度姉の部屋をノックした。
山下がノックしても出てこなかった桜だが、引き戸を開け放ちアッサリと姿を現した。
その際桜は敷居を跨ぎ部屋から出る事はなかった。
さっきまで寝床に転がっていたようで髪は少し乱れていて、いつもより疲れた表情をしている。
「仕事は行った?」
樹が聞くと桜は頷いた。
「行った。」
「山ちゃんは?」
彼の名前を出すと桜は顔をしかめた。
「朝、電話してきた。迎えは?って。」
樹は恐る恐る『それで?』と聞いた。
「いらない。て言って切った。」
「うわぁ……」
樹は眩暈を感じて目頭を押さえた。
長期戦になりそうだ。
という事は、桜は自ら車を出し、現場に向かった事になる。
いつもは山下が迎えに来るが、本当は桜が一人で行く事も出来るのだ。
今までの送り迎えは、桜の山下に対する甘えと、山下の甘やかしがあったからだ。
樹が鼻をすする音に気付くと桜は目に涙を浮かべていた。
「どうしよう!山ちゃん仕事に支障がないなら会わなくていい。とか思ってそう!面倒臭いからもういらんって思われてそうだもん!!!」
桜は樹に飛びつくなり、樹のシャツを涙で濡らし始めた。
「全部『思ってそう』でしょ……?面倒は否定できないけど……」
桜は声を上げて泣き始めた。
「いや!いらんとはさすがに……!」
さすがに、そこまでは思っていない筈だ。
何年も一緒に過ごしていて、大きいケンカも何回かしてきてその度仲直りしてきた。
そんなに簡単に縁を切ろうとは思わない。
……筈だ。
「大丈夫だって」
樹は桜の背中を擦って宥める。
その甲斐あって、すすり泣きする程度に落ち着いた。
「……イツキ……?」
桜は急に深刻そうな声を出す。
急な声の変化に樹はたじろく。
泣いた後のせいで声に独特の迫力も出ていた。
このまま心中しようとでも言い出しかねないトーンだった。
「な、ナニ?!夕飯作らなきゃっ……!」
樹はやんわりと言って桜から離れようとするが、桜は却って強く樹を抱きしめる。
「おーい……?」
桜は樹の肩に鼻を押し付けているようだった。
そういえば葵も今日同じことをしていた。
「……山ちゃんの彼女と同じ匂いがする。」
「えっ?!」
桜がやっと離れたので、樹も驚いてシャツの匂いを嗅ぐが分らなかった。
王野家に出入りする女性は並外れて良い嗅覚を持っているらしい。
脳裏に舌なめずりする白衣の女が浮かんで樹は思わず身震いした。
同じ匂いという事は同じ人物なのだろうか。
山ちゃんの彼女と白衣の女。
とても山下が好きになるようなタイプには見えなかった。
「樹、会ったの?」
桜と樹の身長はほぼ一緒なので、桜が樹から離れると視線がもろに重なる。
樹は悪いことをしたわけでもないのに、その視線に射抜かれたように動けなくなった。
樹は視線を彷徨わしながら、しどろもどろに答える。
「今日、保健室行ったら、女の人がいたけど……」
桜が首を傾げた。
「保健の先生?どうして保健室?」
「えっと……これ」
樹がすっかり存在を忘れていた腕の傷を見せると、桜は息を呑んだ。
「大丈夫?!」
「うん。平気。」
強がりでなく元々桜が心配するほどの怪我ではない。
ただ、樹の肌が人並み以上に白く儚い印象を与えるので、痛々しく見えてしまうだけだ。
「気を付けてよ!今日私が夕飯準備するからね。」
「いいよ別に……」
射抜かれるような視線から脱した樹はホッと息をついた。
桜は髪を手櫛で整えると無造作に髪を束ねながら、一階の台所へ向かった。
その動きにいつもの機敏さがないことから、心底やつれているのが見て取れる。
樹は危なっかしい背中を眺めていたが、階段付近で桜がユラリと立ち止まり樹を振り返った。
「ところで。どんな人だった?」
空気がピンと張りつめた。
「どんなって?」
「私より可愛い?」
どういう真意があってそう聞いたのか、樹は脳を回転させた。
シスコンと誤解されそうだが樹は思ったことを正直に言った。
「アネキの方がいいと思うけど……」
言った後恥ずかしくて目線を逸らした。
「そりゃ、一応芸能人でしょ?あ、当たり前なんじゃない?」
反応が気になって樹は桜の表情を盗み見て唖然とする。
桜は笑っていた。
愛想笑いや、苦笑い、微笑と言ったものの類ではなく、満面の笑みだった。
さすがに声を出して笑う事はなかったが、桜は服の袖で口元を隠していた。
嬉しいのを隠す時に姉がよくやる仕草だという事を樹は熟知している。
「そっか、そっかぁ!ならいいの!」
桜の言葉を聞いて樹はさらに困惑する。
「いいの?!」
「うん!」
桜は澱みなく答えた。
分らない。
姉はホントに理解できない。
「あのね、樹。ご飯が出来たら山ちゃんに、明日は迎えに来てって電話するね!」
さっきまでの危うい足取りは感じさせず、むしろスキップ交じりで階段を下りていく。
これで今の状況が改善されるなら……いいか!
樹は自分の部屋に荷物を置きにいった。
部屋では蝶型ロボットのテフが主の帰宅を歓迎するように飛び回っていた。
「ただいま、テフ」
樹がヒョイと手を挙げると寄ってきて、止まらずにまた遠くに飛んでいく。
懐かなくとも可愛いものだ。
テフを目で追いながら椅子に腰を下ろした。
樹はしばらくボーとしてから、スマホから電話をかけた。
数回の呼び出し音の後応答があった。
「樹か。どうした?」
山下はいつもと変わりのない上から口調で樹はホッと肩を降ろした。
「えっと……山ちゃん。ちょっとプライベートなこと聴いてもいい?」
少し沈黙があった。
「答えられる範囲ならな。急にどうした?」
「山ちゃんの彼女って保健の先生?とかだったりする?」
「は?何のことだ?」
案の定の反応だった。
「今日、アネキが保健の先生と山ちゃんの彼女が同じ匂いって言うから。アネキが直接会った訳じゃないんだけど……」
カクカクシカジカ、しばらく間があった。
「どんな女だった?」
山下が思わぬ質問をしてくるので樹は面食らった。
「どんなって?」
葵が言っていた言葉がリフレインする。
『オッパイデカい女』
しかし電話だからといって言うのは憚られる。
樹はそれ以外の言葉を模索した。
樹の唸りで察したのか山下の方から言葉を発した。
「露出過多な?」
「そう!露出過多!」
そうそれだ!と思った。
その言葉は今日の女の様相を的確且つ明快に言い表していた。
その後に大声で何叫んでいるんだと後悔する。
「あ、……うん。そんな感じ。」
と樹は小さな声で付け加えた。
その時、樹の横から白魚のような手が伸びてきて樹の携帯を掴みとった。
樹は声も上げる間もなかった。
そこには真顔の桜が取り上げたばかりのスマホを耳にあてて、静かに構えていた。
「やはりか……それに加え下品な……」
やや興奮気味の山下は聞き手が変わっているとは気付かず話続けていた。
桜の顔は怒りか羞恥かで赤く膨れてきて、携帯を持つ手が震えはじめた。
そして桜は大きく息を吸い込んだ。
「下品は山ちゃんでしょ!樹に変な事教えないで!この変態メガネ!!!」
桜は素早く耳から携帯を離すと、反論の機会も与えず通話終了ボタンを押した。
桜は樹の肩に手を置いた。
「ヒィッ……」
桜の覇気に思わず悲鳴を上げた。
「いい?樹は絶っっ対に山ちゃんみたいになっちゃダメだからね?」
通話が終了された携帯が樹に手渡された。
樹は携帯を握りしめて何度も小刻みに頷いた。
「分ればよろしい。ご飯、親子丼でいい?」
「あ、うん。」
桜はいつもの1・5倍の速度で台所へ戻った。
それを確認すると樹はそーっと自室の扉を閉めた。
急いで発信履歴の中から掛けなおす。
1度目のコールが鳴り終わる前に出た。
「や、山ちゃん?!大丈夫っ?!ホントゴメン!!!」
「あいつ理由も聞かず切りやがった。今日二度目だぞ。」
「ゴメンナサイ……」
「変態メガネ……」
その一言はさすがに堪えたらしい。
「大丈夫!全然そんなことないから!」
「当たり前だ。」
ピシャリと言われて樹は姿勢を正していた。
「スイマセン……」
電話越しに山下が溜め息をついたのが分かった。
「こうも簡単に信頼がなくなるとはな。」
山下の声は落ち着いていた。
「うん。」
樹は返事する事しかできなかった。
「しばらく距離を置く。」
「えっ?!」
電話の向こうでもえっ?!と聞こえた。
おそらく葵が会話に聞き耳立てているのだろう。
そんなコンビニに行く。というようなトーンで言われても……!
「しばらくっていつまで?!」
「あいつが反省するまでだ。」
そう言った山下の声はやけにハッキリしていた。
「なんだ葵?大人げない?馬鹿を言うな。」
電話越しに葵の抗議の咆哮が聞こえた。
「……あの山ちゃん?念のため、念のためだよ?!もし反省しなかったら……?」
「担当、降りる。」
「「そんな!」」
山下の発言に対するコメントが葵と見事に重なった。
この状態を回復させられるのは山ちゃんだけだと思ったのに!
樹は心のどこかで山下が折れる事を期待していたのだ。
しかし山下は桜以上に頑固であり、一度口に出した事は何が何でも守り抜く。
意思が固まってしまっては誰にも動かせない。
桜以上に厄介だ。
「この話は終わりにする。話は戻るが、お前が保健室で見た女だ。」
「……うん。」
この一連の騒動の引き金となっているその女だ。
「なにもされてないな?あいつはお前みたいのが好物だ。絶対に近づくな、危険だ。」
まるで危険生物の取り扱いを聞かされているようだった。
実際山下にとっては似たようなものなのだろう。
「うん。」
「お前は頼りないからな、学校内では葵を警護につけろ。いつまた出てくるかわからんからな」
「え、大丈夫だよ……」
電話の向こうで葵がラジャーと言ったのが聞こえた。
「ホントに大丈夫だから……ところで誰なのあの人?知ってる人なの?」
「俺と葵の偽の母親だ。」
「そ、そうなんだ……」
『偽の』という言い方に山下の強い嫌悪が感じられた。
おそらく二人の父親の再婚相手なのだろうと樹は見当をつけた。
そう言えば二人の両親のことを聞いたことがない。
「聞いてるか?」
「あ!うん!」
樹は山下の声に飛び上がりそうになった。
樹の様子に山下は溜め息をついた。
「本当に大丈夫か?なにかあったら電話しろ。いいな?」
なにかというのは樹の身に起こることだけでなく、桜の身に起こることも含まれるのだろう。
山下の声に頼もしさを感じた。
「分かった。」
「じゃあ。気をつけろ。」
ツーツーと音がして電話が切れたのが分かった。
樹はリビングに戻るとソファーの上でこちらに背を向けている桜を発見した。
リビングに入ると親子丼を作る時の甘辛い匂いがした。
桜はチラリと樹を見てまた背を向けた。
「もう山ちゃんなんて知らないもん。」
「子供みたいなこと言わないでよ……いいの?山ちゃん担当降りちゃうかもよ?」
桜はピクリと肩を震わせた。
「……私は悪くないもん!」
山下に怒鳴った事で引っ込みが付かなくなったのかもしれない。
樹はこれが引っ込みの付く機会になってくれればと口を開く。
「この前会ってたの義理の母親なんだって!」
「なら私に隠さなくってもいいもん。」
確かに。
アッサリと論破されて樹は次の言葉を探した。
「とにかく!私は山ちゃんが反省するまで会わないからね!」
樹はガックリと肩を降ろした。
両者ともお互いが反省するまでと一歩も引かない。
「どうするの?会わないって、ずっと会えなくてもいいの?」
「……」
クッションを強く抱きしめた事により、桜の背中が小さくなったような気がした。
「後になってからじゃ、遅いんだから。」
「……」
「もしこのままだったら、後悔すると思うけどな。」
「……もん。」
おそらく『わかってるもん』と言いたかったんだろうが、鼻をすする音で聞き取れなかった。
お葬式のように夕飯を食べた後、樹はいつもより早く自室に籠っていた。
今日は昨日のようにパソコンに向かう気分ではなかった。
学年劇の台本を手に取ってみた。
蛍光ペンで線を引いた箇所は全てそらんじることが出来た。
問題は動作や間にあるのだ。
やらなくてはいけない筈だが体を動かす気にもなれない。
心内で大丈夫かなと呟いた。
ベッドの上で転がって天を仰いで、物思いにふける。
たまに視界にテフが入ってきて手を伸ばしたりしてみた。
樹はこの付きまとうやるせなさの原因について考えた。
その一つが桜と山下のケンカによる家庭内の冷え。
発端は山下が無断(?)で義母と会っていた事とその事を隠していた事。
ただ単に山下が義母の存在を桜に知られたくなかったというのも考えられる。
今日保健室で見た山下兄妹の義母は、言っては悪いがとても知人に紹介したくなるような人物ではなかった。
しかし、今山下が直面しているこの状況の煩わしさと比べれば、よっぽど義母の存在を桜に教えておいた方がいいように思える。
樹は桜が立て籠もった昨日の状況を思い出した。
桜に香水の匂いを問いただされた山下は『なんだそっちか……』と言った。
誰か他にも会ったかのような言い方だった。
それも、もう一人の人物の方が知られたら厄介というような言い回しだった。
熱くなっていた桜はそこまで気に留めていないようだったが、樹は宿題をしながら妙な言い方だと思っていた。
『そっちかって他にも会ったの?!』
『いや。そっちだけだ。』
『その方が問題なんですけど。私に黙って香水つけるような人と二人だけで会ってたの?』
『いいだろ別に……』
こうして桜は山下が知らない女性と二人だけで密会している事を知り部屋に籠った。
単なる痴話喧嘩と思って聞き流していたが、今思うと完全におかしい。
明らかに会っていた筈のもう一人の人物の存在が隠蔽されている。
その事に気付き樹は思わず体を起こした。
樹の目の前をテフがヒラヒラと舞っている。
そしてもう一つ。
昨日おかしかったのは山下だけではない。
葵が初めてこの部屋に来て、テフをプレゼントした。
間近で見るまで本物の様に見えたテフは、その辺で売っているようなものではない。
いくら本物のようだからと言っても、桜がロボット嫌いな事は葵もよく知っている筈だ。
だから葵はわざわざこの部屋にきてテフ(ロボット)を渡しにきたのだ。
『プレゼントなの!』
その時は初めて自分だけのロボットを持てて舞い上がっていたが、葵の様子は明らかにおかしい。
桜に知られたら面倒。
ロボット。
二つを掛け合わせると、樹の中である人物がくっきり浮かびあがってきた。
「父さん……?」
はじめて葵と会った日に、樹は父と間違えられ斬られそうになった。
山下兄妹と父は他人ではない。
そういえばテフと同じ模様の蝶が妃の部屋にも飛んでいた。
同じ種類の蝶だったのは偶然ではなく、父が母に同じものを作ってプレゼントしたからではないだろうか。
樹の手は再び携帯に伸びたが、山下達に事実を聞くのは躊躇われた。
聞いたところでどうするんだ。
勝手な憶測だ。
それに今樹を取り巻くやるせなさの原因の一つ、迫りくる学園祭。
一気に抱え込んだら身が持たない。
明後日のこの時間にはどうあがいても終わているのだから、それからでも遅くない筈だ。
樹は携帯に伸びた手を引っ込めた。
悪い事は重なるものだ。
樹はまださらに悪い事が重なるとは思ってもいなかった。




