37、佐藤先生
六人部屋の病室。その一角は、気まずい空気に包まれていた。
「…………」「…………」
黙っている男二人。
ベッドの脇にある椅子に座る男と、ベッドの上で折れた腕を吊っている男。
一人は、四十代ほどで職業は教師。もう一人は、二十代で中卒で無職のクズ。
「あの……佐藤先生……」
「その様子じゃ、知ってるんだな。お前が遅刻しまくったせいで、おれが教師をやめさせられたって話」
「……はい……すみませんでした」
「なに、若い時には、間違うことだってあるさ。別に、あの学校をやめさせられて、困ったことはあんまり無かったしな。幸い、次の学校もすぐに見つかったし」
「それは……よかったです……なんて言っていいものか……」
「ま、怨んだり悔いたりしても、何も戻ってくるもんでもないしな。でもなぁ、おれがやめさせられたってのに、まぁだこんな燻り方してんのは納得いかねぇな。安物の線香だって、もっと燃えるぞ」
「すみませんでした……。でも先生は、何で俺のこと……」
すると佐藤は二度ほど頷いた後、言った。
「この間な、同窓会があったんだ。おれも途中で担任を降りたとはいえ生徒たちに関わった身。久々に懐かしい顔に会いに行ってみた。したら、お前来なかったな。一発デコピンでもかましてやろうと指鍛えたのによ」
「すみません」
「まぁいいが。それで不思議だったのが、あんだけ派手に遅刻しまくってたのに、ほとんどの人間がお前のこと憶えてなくて、口をそろえて『そんな人、いたっけ』とか『誰やねん』とか、そういう感じでな、こんなはずじゃなかったって思ってたんだ。そこに一人の男が現れた」
「春木……ですか?」
「おう。春木は、おれにこう言った。『佐藤先生ですよね。先生、もしかしてあの遅刻クソ野郎のこと憶えてるんですか』とね。もちろんおれは『当然だ』って返したんだ。秋川あきひとという遅刻野郎は俺の人生をあやうく転落させてくれるとこだったわけだからな。他の連中と思い入れが全然違う」
「申し訳ないです」
「そんでもって春木の話じゃ、『秋川は学校をやめて逃げた』『秋川に会いたかったら江夏を探せ』みたいなことを言うわけよ。でも『じゃあ春木は江夏の居場所を知ってんのか』って訊いたら、『これから突き止めます』とかやる気満々でやんの。春木のやつは、周りの連中に、江夏のこと訊きまくってたなぁ」
「てことは、春木から、俺の居場所を聞いて来た……ということですか?」
「ああ。電話を受けてな。これは会いに行くしかないなと。どんな人間になっとるんだろうって、半ば楽しみにして来てみたら、これだよ。お前の目が濁ってるのは骨折のせいじゃないよなぁ。仕事は何してるんだ。だいたいの察しはつくが」
「すみません……」
「そうか。だけど一つだけ言っておこう」
「はい?」
「まだ、遅くはないぞ」
「……………………」
「いや、遅い。遅かった。遅いっちゃあ遅いけど、ほら、遅刻だけど遅刻ってのは大抵の場合、欠席よりマシだろ。そういった具合に何とか大丈夫なラインまで持っていける年齢だ」
「そうなんでしょうか」
「疑うな。行動しろ。それだけでいい」
「はぁ……」
「お前は、おれにひどいことをしたよな。だったら、おれの言うこと一回くらいやってみてくれても良いんじゃないか?」
「でも……」
「春木の話じゃ江夏にもひどいことをしてるようだな。じゃあ江夏のためにも動き出したり立ち上がったりしても良いんじゃないか?」
「すみません」
すると佐藤は、俯く秋川の横顔に、こんな言葉を投げつけた。
「歯をくいしばれ」
「は?」
そして佐藤は、思い切りデコピンをした。
「いって……」
痛がって、額を押さえる秋川。
「これで、全部チャラになったと思え。そんでもって赤子のハートで歩き出せ。未来はお前の手の中だ。むしろそこ意外に未来は無い」
「…………」
「じゃあな」
佐藤は軽く手を振ると、姿勢のいい後姿のまま、部屋の外へと消えた。
秋川は何だか夢でもみているような、狐につままれたような感じで男の背中を見送った後、病室の白いカーテンを見つめた。




