16、憎しみの殴打
秋川がしばらくボンヤリしているうちに、女はシャワーを浴びた上、なつみが午前中に漬かった酒くさい風呂を追い焚きして三十分以上の入浴をした。その間に、麦茶を浴びた服はシミになってしまうだろうが、どの道、彼女は同じ服を二度着ないセレブ気取りである。麦茶に染まってしまった白い服が洗われることなくボロい籠に放置されているのは、もう二度と着ないという意思の表れだろう。
要するに、服が無かった。
やがて女は風呂から出て、洗ってあるバスタオルが置いてあったので、それで体を包んで、女は脱衣所を後にした。
秋川は、バスタオル一枚で出て来た女を見て、目を丸くして、次の瞬間には勢いよく目を逸らした。
「ありがとございました。お風呂、気持ちよかったです」
「あ、はい……」
昼下がり。窓を開けているため大きなセミの声が入ってくる。冷房の無い部屋は屋外と同様に蒸し暑く、扇風機の音が響く。
秋川は、うっかり着替えのことなんか忘れていたものだから取り乱して、
「あっ、え、あっと……江夏の服でも……」
そう言って、押入れを開けたのだが、女はこう言った。
「彼女とわたしでは、サイズが合わないです」
「あ……」
「この家の中で、サイズが合うものと言ったら」そう言いながら、フックからハンガーに掛けられた制服を取り上げ、「これ、江夏さんのサイズじゃないですよね。わたしには合いそう。実は、あこがれたんです、英輝学院の制服。試験で落ちちゃいましたけど」
波立った。それはダメだと心の底から思った。それを着ていいのは、柊あんじぇらだけなのだから。そう思った時にはもう、体が動いていた。
「きゃっ」
制服を奪い取ろうとした拍子に、押し倒す形となった。
スカートが、台所と畳の居間の仕切りあたりに落ちる。
ほぼ同時に、玄関の扉の閉じる音がした。
秋川の視界には、バスタオル一枚を装備した妖艶な女がいて、男ならまずそんな状況に置かれたら襲い掛かるような状態だった。
「あき……かわ……?」
声がした。誰の声かは、同居人には、すぐにわかった。
江夏なつみだった。
女を押し倒している秋川を見つけた江夏は、ボサリと手提げを落とした。
「…………」
秋川は、どう言えばいいものかわからず、ただ黙った。
バスタオル女は、横向きの視界の中、江夏なつみの姿を認めると、いじめ首謀者らしいニヤリとした笑いを浮かべ、
「おかえりなさい、なつみちゃん」
と事も無げに言っていた。
「いつから? ねぇ、秋川……?」ぽろぽろと、涙を流す。
「どう、したんだ、江夏」
女は言う。
「ごめんね、なつみちゃん」
――何がごめんなのか、何でごめんなのか、ごめんとか言うということは……。
江夏なつみは、思い切りドアを蹴飛ばした。鉄の扉は、鐘でも突いたみたいに大きな音を立てたが、鐘のような余韻はあまり無かった。足裏に痛みが走って、目の前の光景が悪夢でないことを知る。
――現実。現実だ。
もう、立っていられなかった。その場に座り込んで、泣いてしまった。子供みたいに、しゃくりあげて。
そんなタイミングで、また扉が開いた。
元卓球部部長、春木すばるだった。
春木は、泣いている江夏と、女に覆いかぶさっているクズを交互に見て、どういうことが起きて扉が大きな音を立てたのかを瞬時に脳内で組み立てた。
春木すばるは、奥歯を強く噛む。拳を握って、靴のまま部屋の中に入っていった。
そして、クズを足裏で思い切り蹴飛ばした。
押入れのふすまに秋川の肘が入って穴が開いた。押入れの前に置かれていた扇風機が倒れて回転を止めた。セミの声が、大きくなった気がした。
春木すばるは、普段からは考えられないほど低い声で、
「秋川、おまえ、何してんだよ」
バスタオル女は怯え、部屋の隅へと逃げた。
「な、なにって……」
「ざけんな!」
胸倉を掴んで、右腕を振りぬいた。
「うっ……」秋川はうめき声をあげ、痛みに体を震わせた。
春木は、倒れたクズを憎しみの目でもって見下すと、無言で踵を返し、座り込んで泣いている江夏なつみを所謂お姫様抱っこで抱き上げて、鉄扉を押し開ける。
冷たい音で、扉は閉じられた。
秋川は、ゆっくりと立ち上がった。
バスタオル女は、脱衣所に脱ぎ捨てた麦茶まだら染めの服を着て、鞄を手に取ると江夏を追って出て行った。
一人残された秋川が、駐車場が見える窓から下を見た時、江夏なつみが、助手席に押し込められたところだった。
春木が運転席に乗り込み、車が発車する。
麦茶のシミ女は、あわてて追いかけようとしたが、車に追いつけるはずもなく。見送り、一つ溜息を吐くと、そのまま秋川に挨拶をすることなく、駅方面へと去っていった。
ただ、窓の外を見上げるしかなかった。じんじんと、頬が痛みを増していく。
「何だって、俺は、こんな目に……」
まるで他人のせいにでもするように嘆いていた。




