03 『よくばりな』花見弁当
田んぼの縁で、セツは足を止めた。視線の先には、硬く閉じた蕾を無数に湛えた枝が伸びていた。隣に並ぶ四脚歩行のロボット「黒丸」も、その枝をセツといっしょに見上げていた。
「黒丸、あれは蕾ですよね?」
黒丸は、セツの声に合わせるように短くキュインと返事をした。
セツは黒丸の繋ぎ目に重工オイルを差し、節々にこびりついた泥を丁寧に払いながら黒丸に言い聞かせた。
「深度30、粘土質補正オート。畔の亀裂を同時補修」
黒丸はブルブルと身体を揺らして残りの泥を振り払った。それから四本の脚をせわしなく動かし、畦を踏みしめていく。
セツは桶に満ちた水を凝視した。黄金色の種籾は静かに水面を見つめている。眠っていた命が吸水し、昨日よりもふっくらと膨らむその姿に、セツは黒丸の機動音とは違う「微かな呼吸」を感じていた。
「流石だね。もう終わっちゃうじゃないか」
背後から、ヨシ美が声をかけた。彼女の視線はセツではなく、その先に広がる、まだ水の入っていない田んぼに向いていた。
「……ヨシ。あの蕾、花が咲くのですか?」
セツは空に指差をさしながら聞いた。
「桜だね。昔、このあたりで一番の頑固者が植えたのさ」
その夜、セツは古い文庫本を広げ、ある一文を指先でなぞった。
そしてヨシ美に見せた。
『死体の下には桜が埋まっているのではない
――期待が埋まっているのだ』
「これから、毎日花見をしましょう。私が花見弁当を作ります」
***
翌日。まだ蕾は固く、空は白んでいた。
「……まだ咲きませんね」
セツが枝を見ながら風呂敷を広げる。差し出されたおにぎりを一口頬張ったヨシ美は、一瞬だけ眉を寄せた。
「毎日ここで弁当を食べるんだ。じきに咲くよ。……それにしてもセツ、このおにぎり、少し塩が利きすぎじゃないかい?」
「すみません。期待を込めすぎました」
ヨシ美は苦笑しながら、少し硬い、いびつな玄米の握り飯をゆっくりと咀嚼する。
昼飯を終えたセツは籠を片手にせっせと土手を歩いた。
「これはどうですか?」
籠一杯の野草を見せたセツに対し、ヨシ美は大げさに首を振った。
「半分は育ちすぎだね。成長した野草はエグみが強いんだよ。野草は若いうちに食べる。これは野草の決まりごとだ」
そう言いながらヨシ美は野草をひょいひょいと弾いていく。
セツは、ほとんど空になった籠の底と、弾かれた野草を見つめた。
***
数日、雨が降り続いた。
セツは窓の外を眺めている。長靴を軒下に並べ、テーブルには幾分も狂いもなくたたまれたカッパが静かに置いてあった。
そして、ついにその日が来た。
セツが見つめる先には、空を埋め尽くさんばかりの桜。まだ五分咲きだとヨシ美が言うと、セツはそれを確認するため、さらに上を見上げた。
ひらりと、一つの花びらが舞い降り、セツのおにぎりに着地した。セツはそれに気づかず、花びらごと、春の味を咀嚼した。そのわずかな酸味はセツの「春」という言葉を上書きする隠し味だった。
おにぎりの塩加減は、いつのまにかに良くなっていた。付け合わせには、灰汁を抜い筍と、野草のおひたし。ヨシ美は満足げに咀嚼し、それから空を仰いだ。
ヨシ美の喉の奥が、熱い酒を求めて疼く。
春の桜は、時に人を大胆にするものだ。
ふと、足元から広がる泥の泉が、以前よりもずっと遠くまで続いていることに気づく。
「セツ、田んぼ……どのくらい広げたんだい?」
セツは、おにぎりの最後の一口を飲み込んでから言う。
「黒丸に任せていたので正確には。最初にヨシに言われた座標を起点に指示をしました」
「最後に進捗を確認したのはいつだい?」
「ひな祭りの前日です」
ヨシ美の目が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。ひな祭りから今日までの間、あの働き者のロボットは、セツの指示を忠実に守ってきた。畔を塗り、領土を拡張し続けたに違いない。
(これは……いつもの5倍はあるね)
これだけの広さがあれば、食卓に並べる「主食用」だけでは到底余る。だが、その過剰さは、別の形に変換できる。
(良い米は無理でも、別口ならいけるか)
不純物も、量も、すべてを飲み込んで発酵させる「酒」という名の魔法。彼女の頭の中に、黄金色の稲穂が発酵し、透明な滴がヨシ美の喉を潤す、その確かな喉越しが脳を駆けた。
「乾杯」
ヨシ美は、空に向かってそう呟いた。折よく風が吹き、ひらひらとピンクの花びらが、彼女の湯呑みの中へ飛び込んだ。彼女はそれを、かつて酒蔵で出会った極上の大吟醸のように見立て、喉を鳴らして『ぐいっと』あおった。
しかし、ヨシ美の舌はだまされなかった。
それは、これから始まる「途方もない手探りの世界」への予感と、それを対価に得る「酔いの後の醒め」の先取りのようだった。
***
「身体がやけに軽いね……」
ヨシ美はひょいっと腰を下ろした。目の前には、「世界地図のような弁当」。セツが弁当を仕立てるたび、その地図は広がった。玄米の大陸は不動だが、その上の中身は常に自由だ。今日は桜の花びらを模したのか、真っ赤なサラミが放り込まれている。
その隣には、境界線を無視して増殖する野草料理のジャングル。セツがせっせと摘み取った、深い緑がひしめき合っている。
ヨシ美の身体の変化は、このセツの「過剰な期待」から始まった。
まず、汗が変わった。皮膚の奥底、骨の髄に溜まっていた澱を絞り出すような、ひりつくほどに塩辛い汗。長年の膝の痛みも、いつの間にか消えていた。
セツは気に入ったのか、いつの間にか準備しているゴエモン風呂。内風呂があるのに寒い中外にでて風呂に入る。あの熱は骨を揺らす。その揺れは脊髄の奥の何かを目覚めさせた。
黒丸が広げすぎた新たな領土。重労働と考える前に身体が動く。腰が地面と妙に折り合いがつく。原動力は、あのアクの強さだろう。
野草と呼ばれる味は、いつも違う。場違いなスパイス、数種類の味噌、時には唐突なヨーグルト。近代栄養学が「毒」として捨てた苦味が、眠っていた細胞に火をつけた。
デザートの干し柿とドライイチジクのぬか漬けをセツ特製の番茶で啜る。セツは黒丸と共同で作った竈に土瓶を乗せ野草の葉を放り込んでいた。
(そこらへんに生えてる野草を食べる方が、身体が勝手に反応するとはね)
かつてのヨシ美の食卓は、完璧な管理下にあった。計算尽くした栄養、適正な塩分。それは肉体を維持するための、面白みがない線だった。正直面倒だった。
だが今は、セツがいる。期待という名の花見弁当が加わった。自分以外の体温を感じ、毒にも薬にもなる食事を共に、同じ桜を見上げる。再現性のない余白。
そんなものは、いかなる論文にも記されてはいない。
ヨシ美は土瓶の番茶を飲み干すと、塩の利いた唇を舐めた。
「セツ。明日の弁当も、楽しみにしている。
私は嫌いなものはないからね」
そう言いつつ桜を見上げる。 その花びらは今、彼女の巡る血流の中にも静かに咲いていた。
***
「私が弁当を作る。明日はセツが食べる役だ」
その日の夕食時に、ヨシ美が唐突に言い放った。
セツはこくりとうなずくと、ぼりぼりとぬか漬けを食べた。
翌日の昼前。満開の桜の木の下で、セツが風呂敷を解き、重箱の蓋を開ける。そこには、ヨシ美が導き出した「春の宴」が詰まっていた。
「……これは、なんですか?」
重箱を埋め尽くすのは、野草の押し寿司だ。酢の代わりに使われた梅酢の赤が、砂糖漬けされたスミレの紫や塩漬けの桜のピンクを鮮烈に際立たせている。
「セツに食わせるための、特製花見弁当だ」
ヨシ美はいたずらっぽく笑う。もう半分には、鹿肉の大和煮と、山椒をこれでもかと利かせたフキの佃煮。
「人間はね、これまで舌で毒を測ってきた。
この苦味は、その歴史だよ」
セツは、その寿司を一つつまんだ。強烈な酸味と、春をそのまま凝縮したような苦味が、舌を叩く。だが、その後にやってくるのは、驚くほど澄んだ米の甘みだった。
「どうだい」
「ベロが、驚いています」
「だろうね。予定調和な味は、桜の下では無意味さ」
ヨシ美は自分の湯呑みに、去年仕込んだどぶろくを注いだ。セツにも分け与えると、彼はいつもと違ってごくりと一息に飲み干した。 (なんだい。セツ、お前はいける口なのかい?)
「おかわりをください」
ヨシ美は苦笑いすると、どぶろくをセツのマグカップに注いだ。そして、最後の残りすべてを自分の湯飲みに入れる。
桜はひらひらと空を埋める。
花びらは落ちず、空の途中でゆっくりと迷う。
桜とは、こんなにも遅かったのか。
その流れを見ているうちに、ヨシ美の何かがほどけていく。
花びらの数だけ、いや、それ以上にやりたいことがある。
ヨシ美の喉が、ゴクリと鳴った。
とりあえず一つ、また一つと花びらに重ねた。
「……まだ欲張りなんだね」
花びらはまだ、空を埋めていた。




