隻手の聲〜その手で鳴らしたかった音は〜
───If you're happy and you know it───
邦題:「幸せなら手をたたこう」
今年も「戦争の悲劇を忘れないために」という特集番組がテレビを埋め尽くす季節が来た。
私はどうにもこの時期が好きではない。
戦争の記憶を語り継ぐこと自体は大切だと思う。だが、毎年同じ映像と同じ言葉が繰り返されるうちに、それがいつしか恒例行事のような薄っぺらさを帯びて見えるようになってしまった。
原爆が投下された日。
第二次大戦が終わった日。
学校の授業で教えない事は恐らくないだろう。しかし、その正答率が日本人であっても5割を下回るという現状が、この国にはある。このままではかつて日常であった戦争の悲惨さは、何処か遠い国の昔話に成り果てるのではないか。
私はそんなことを考えながら、ある町外れにある廃寺の境内に取材に来ていた。ここは終戦間際に戦闘機の機銃掃射に遭い、数カ所その跡が残っているとの話を聞いたから、というのがその理由だ。
じっくり回ってみると、石階段から鳥居を抜け、その直線上のお堂にかけて弾痕が連なっている事が分かる。お堂の木部は弾が貫通したからか、2、3cm程の穴が空いている程度だったが、石畳や階段は手の平から人の頭位の大きさに抉られていた。こんなものに狙われた日にはたまったもんじゃない。
「しかし、なんだってこんな古ぼけた寺を狙ったんだ?高射砲でもあったのか?」
人の気配の無いお堂を開けると、そこには一体の石地蔵が安置されていた。この寺が以前は禅寺だったと聞いていた私は、似つかわしく無いものがあると思ったのだが、地元の方が供養堂として再利用しているのかもと思い直し、境内に咲いていた小さな花を手折り、たまたまバックに入れていたまんじゅうを一つ供えて手を合わせた。
「これも日本人の習慣かねえ」
特に祈る対象を思い浮かべるわけでなく、半ば習慣のようにしていた事に苦笑いを浮かべ、立ち上がろうとした、その時だった。
バチ、バチン。
乾いたお堂にそぐわない、妙に重い二拍がどこからか聞こえた気がしたので、私は思わず辺りを見回した。
「なんだ今の音?……気のせいか?」
耳を澄ましてみても、聞こえるのは堂内の静寂に響く蝉の鳴き声だけ。不思議に思って立ち上がろうとしたその時、今度はかすかな声が囁いた。
――しあ……わ、せなら……
どこか遠く、まるで井戸の底から聞こえてくるような、高くて細い、妙に耳にこびりつくそれは、幼い少女の声の様に聞こえた。
バキ、バキ。
次いで再び、重い音が二回。
「これ、は………!」
その音には、人間の生存本能をざわつかせる嫌な違和感があった。
何かを叩く音が、お堂の中で響いている。どこからかはわからない。しかし確実にそう遠くないところから聞こえてくる。首を巡らせようとした瞬間、背中に氷を押し当てられたような冷気が走り、動けなくなった。
『……てを、た、た……こう』
歌声は徐々に近づいてくる。足音はない。床を擦る音すらない。ただ、歌声と音だけが、じりじりと私に迫ってくる。
バン、バン。
(……待て、おかしい)
恐怖で急速に脈拍が上がる中、私の脳裏にある疑念が浮かび上がった。「手を叩こう」つまり拍手であれば、二つの手が打ち合わされることで鳴るはずの、あのパン!と乾いた音が鳴るはず。そうではなく、なぜどこか湿っぽい、鈍く重い音なのか?
見えてはいない。背後なのだから見えるはずがない。しかし、音の波形が、残響が、私の聴覚を通じて脳に警告を鳴らしていた。それは、決して二つの掌が合わさる音ではなかった。
同時に頭に浮かび上がったのは、禅の公案である「隻手音声」という言葉だ。
「両手を打てば音がする。では、片手にはどんな音があるのか?」
無を悟るための、存在しないはずの「片手の音」がどのようなものかを考えさせる問い。だが、背後の怪異が鳴らしているのは、紛れもなく「片手の音」だった。片方の手で、何かを叩いている。何か、手のひらではない「もの」を。
『……てを……たた、こう……』
歌がリフレインする。音との距離は、もう私の首筋の目と鼻の先だ。
呼吸が荒くなる。心臓が胸肋骨を突き破らんばかりに暴れ打つ。ドク、ドク、ドク、ザザザと、耳元で自分の血流の音が荒れ狂う川のように聞こえる。
逃げなければ。
振り向いてはならない。
だが、身体が動かない。
『……ふたりで……たたこう……?』
歌詞が変わった。
幼女の声が、私の耳元で吐息とともに囁かれる。冷たく、腐肉と古びた紙の匂いが混ざったような息。
直後。
ドス、ドス!
私のすぐ左耳の脇で、鈍い音が鳴ったその瞬間、金縛りが解けた。
「うわあああああっ!」
私は狂ったように悲鳴を上げ、尻もちをついた。
いつの間にか扉は閉められ、暗い堂内のあちらこちらに「ぼうっ」「ぼうっ」と蝋燭の炎が灯る。
微かに揺らぐ薄暗い光のなか、部屋の中央に「それ」は立っていた。
膝丈の赤いワンピースを着た、小さな女の子。
肩まで伸びた黒髪はボサボサに乱れ、俯いているため顔は見えない。
そして、その右腕の先――肘から下が、根元から消失していた。
「あ……が……」
喉から引きつった声が出る。
少女には右手がない。左手しかないのだ。
では、彼女はどうやって「音」を鳴らしていたのか?
少女がゆっくりと顔を上げた。
肌は土気色で、両目のあるべき場所には深い洞が空いていた。唇のない口が、歪に裂けて笑っている。
少女は左手を上げた。
そして――自身の首を、左手の掌で激しく叩いた。
ゴキゴキ!
肉が骨にぶつかる、硬く、重く、鈍い音。
それが「隻手の声」の正体だった。右手を失った少女が、自分の身体を叩いて作っていた、狂気の音。
『……おと、うまく、ならない……どこを……たたいても、ならない、の』
ボキボコンと自分の頭部を。
ドスドスと自分の胸を。
バキバキと骨の浮き出た頬を。
『手を、たたいたら、幸せに………なれる、の。でも、ならないの………』
叩くたびに、鈍い音と首が傾く嫌な関節音が部屋に響き渡る。少女は歌いながら、一歩、また一歩と私に向かって歩を進めてくる。
『いっしょに……ほら……てをたたこう……?』
私の心拍数は限界に達していた。ドクドクと不快な鼓動が視界を歪ませる。恐怖で意識が遠のきかける中、私は必死に部屋の中を見回した。逃げ場はない。出口は恐らく少女の背後だ。
ぺたり。
ぺたり。
『ねえ、どこなら、音、なる………?』
少女が近づきながら左手を高く掲げ、私の顔を叩こうとしていた。私を「自分の手拍子の相手」にしようとしているのだ。叩かれたらどうなるんだ? 私の骨が砕け、声が潰され、同じ怪異に取り込まれるてしまうのか?
『……やっぱり、その手を、ちょうだい?』
違う!こいつは俺の腕を奪うつもりか!
「やめろ……来ないでくれ!」
私は叫びながら、足元に転がっていた取材用のICレコーダーと資料の束をがむしゃらに掴み、少女に向けて投げつけた。
ばらりと散らばった資料。
その一枚が、少女の足元に落ちた。それは私が先日、地元の図書館の郷土資料室でコピーしてきた、昭和初期の古い新聞記事だった。
明滅する蝋燭の光が、その記事を照らし出す。
【痛ましい悲劇――町外れの境内にいた幼女が機銃掃射で犠牲に】
(……え?)
私の頭の中で、バラバラだったピースが一瞬で合致した。
歌。手拍子。片手。隻手の声。
そして――「幸せなら手をたたこう」。
あの一見明るい童謡は、もともとアメリカの民謡をベースに、戦後日本で日本語の歌詞がつけられ、広く歌われるようになったものだ。復興の時代に「幸せ」をもう一度かみしめるために生まれた歌。
少女の着ている服。戦後の古めかしい赤いワンピース。幼い彼女は、戦火の中で右腕を奪われたのだ。
歌が流行していた時代。街中で、学校で、テレビで、誰もが笑顔で手を叩いていた時代。
「しあわせなら手をたたこう」と。
けれど、彼女には手が一つしかなかった。
彼女が傷を負い、そのまま亡くなったのか、それとも生き延びたのかはわからない。
しかしどちらにしろ、友達が楽しそうに両手を打ち合わせる輪の中で、彼女は一人、右手がないために「手を叩く」ことができなかったのだろう。幸せの証明である「手拍子」が、彼女はできなかったのだ。
『……たた……こ、う……』
少女の手が、私の目の前で止まっていた。
左手が、宙でかすかに震えている。
私は荒い息を吐きながら、少女の空洞のような目を見つめた。恐怖は、すでに別のものへと変わっていた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
彼女は、きっと人を呪いたくて現れたのではない。おどろおどろしい怪異となって現れたのは、生きている人間に害をなすためではなかった。
ただ、歌いたかった。ただ、みんなと同じように「幸せ」になりたかった。失った右腕の代わりに、自分の身体を打ち鳴らしてまで。
「……ごめんよ」
私は震える声で呟いた。喉が固まり、上手く声が出ない。けれど、私はゆっくりと膝をつき、少女と視線を同じ高さにあわせた。
少女は、歪んだ口元を小さく開けたまま、私を見つめている。
「気づかなくて、ごめんな。怖がって、ごめんよ」
私は右手を差し出した。
両手ではない。私の左手は後ろに引き、右手だけを、彼女の残された左手の前にそっと差し出した。
「片手じゃ、音は鳴らないよな。……一人じゃ、手拍子はできないよな」
少女の瞳が、かすかに揺れた気がした。
「いっしょに、叩こう」
私は歌い出した。声は震えていたけれど、努めて優しく、彼女に届くように。
「──あわせ、なら…………」
私が右手を差し出す。少女はゆっくりと、自分の左手を動かした。
ぱん、ぱん。
私の右手と、少女の左手が、綺麗に重なり合って音を立てた。
乾いた、温かい二拍。
それはもう、不気味な骨の音でも、肉の音でもなかった。人と人とが触れ合う、小さくて優しい手拍子の音だった。
「……てを、たたこ……」
ぱん、ぱん。
もう一度、手を打ち合わせる。
少女の顔から、おぞましい裂け目が消えていく。土気色だった肌に、ほんのりと生気が戻っていくようだった。
『……ほ、ら…………っしょに………』
少女が歌い始める。それはもう、井戸の底からのにじり寄ってくるような声ではなく、年相応の、可憐で澄んだ少女の声だった。
『……てを……たた………こ……………』
ぱん………ぱん。
三度目の手拍子が響いた時、少女の目に光が映る瞳が戻り、そこから透明な涙がひとしずく、こぼれ落ちた。
少女の身体が、足元から黄金色の光の粒となって、静かに崩れていく。彼女は嬉しそうに「誰かと一緒に手を叩けた」ことに満足したかのように、小さな口元に優しい笑みを浮かべた。
『……ありが、とう……』
最後のささやきを残して、少女の姿は完全に消え去った。
静寂が薄暗い堂内に戻ってきた。
辺りに灯っていた蝋燭の炎は消え、冷たい死臭の漂っていた部屋の空気は、どこか穏やかな温もりに包まれていた。
私は床の上に座り込んだまま、自分の右手を見つめた。手のひらには、かすかに冷たく、けれど愛おしい、小さな手の感触が残っていた。
片手では音は鳴らない。
けれど、誰かの手が差し出された時、その音は世界で一番優しい「幸せの音」になるのかもしれない。
私は静かに目を閉じ、胸の鼓動がゆっくりと落ち着いていくのを感じながら、もう一度だけ、石地蔵に向き合って一人静かに手を叩いた。
お読みいただき、ありがとうございました。




