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【番外編】月明かりの逢瀬

時は戻り、耳を澄ませば星の囁きが聞こえそうなほど静かな夜。アストラ帝国の第一皇子、カイラス・エルディオン・アルヴェインは道を急いでいた。


昼間の喧騒が嘘のようにしんと静まり返った街道に、乾いた蹄の音が鋭く響く。頭の上では澄んだ夜空に浮かぶ満月が煌々と輝いていた。夜風を割くように肩を傾けて、さらに速度を上げる。


明日は早朝から国境の砦へ向かうことになっている。城で働く側近たちは準備に奔走していたが、カイラスは出発前の最終確認を終えると、直属の部下であるルシアンにあとを任せ、密かに城を抜け出した。


今夜は満月。“彼”が約束を守ってくれているのなら、きっと屋敷の外に出ているはずだ。


「あぁ、早く会いたいよ、ジゼル」


抑えきれぬ想いを滲ませながら呟く。


初めて“カイル・ペンドラゴン”として彼に手紙を送ったときは、まさかここまで彼に夢中になるとは思わなかった。


初めは彼の研究に興味を持っただけだった。


“応急手当て魔法”

“改良型医療用益虫を用いた薬液投与”

“毒物を含む血液中の成分分析魔法”

“生体染色魔法を用いた、肉眼では見えない生物の観察法”


“ナオ・アイゼン”名義で発表された数々の論文――その画期的な内容には、本当に驚かされた。


一般的な生活魔法を応用した新たな術式を次々と生み出し、さらには教会に秘匿されている治癒魔法を鮮やかな手腕で紐解き、一介の騎士や平民でも扱えるほど簡潔で実用的な手法へと再構築した。


特に、彼が発表した“応急手当て魔法”は、騎士たちの死亡率を前年度の半分以下に下げ、即死以外の死傷者の七割以上の救命を可能にした。


普通であれば皇室栄誉賞ものの功績だ。平民であればそれだけで爵位を与えられてもおかしくない。それを彼はやってのけたのだ。しかも、たったひとりで!


この歴史に残るであろう偉業は、間違いなくこの国の常識を変える。


しかしその一方で、極めて重大な危険を孕んでいた。彼のやっていることは、教会の聖域を土足で踏み荒らす行為だからだ。


今はカイラスが裏から各方面に働きかけ、彼が生み出した“新しい治癒魔法”が教会との摩擦を生まぬよう情報を操作している。『応急手当て魔法』は民間療法の範疇を出ず、従来の治癒魔法と競合するものではない、と、意図的に低い評価を吹聴させ、彼らの目に留まらないようにしているのだ。


しかし、それもいつまで持つかわからない。教会はいつか“ナオ・アイゼン”を危険視し、排除しようと動くだろう。その前に彼を保護しなくてはならない。


カイラスはすぐさま信頼できる部下たちに“ナオ・アイゼン”の素性を調べさせた。


君は何者だ?

どこからきた?

どうしてそんな、無邪気な子供のように禁忌に挑戦出来る?

その常識外れな発想はどこで学んだものだ?


数日後、部下から“ナオ・アイゼン”の正体をつかんだという知らせがあった日は久しぶりに心が躍ったが、報告に来た部下は、いつになく戸惑った様子であった。


何度も口ごもり言い淀む部下に「早く教えてくれ」と催促する。そしてようやく告げられた名前に、カイラスは耳を疑った。


ジゼル・カーネリア。


代々皇家に仕える宰相家の貴族、アレクシス・カーネリアの次男。


前々から、彼の噂は耳にしていた。主に良くない噂だ。ジゼル・カーネリアは外見こそ妖精のように愛らしいが、中身はとんでもない性悪。使用人に辛く当たり、散財と放蕩に明け暮れる。カーネリア家の厄介者。


どういうことだ?


再度確かめさせたが、結果は変わらなかった。しかし、この国に突如として舞い降りた比類なき天才と、甘やかされ堕落した貴族令息が同一人物とは到底思えない。


カイラスは疑念を抱きつつも、手紙のやり取りを続けた。


長年頭を悩ませていた、貧困地域における乳幼児の死亡率の高さについて相談を持ちかけたこともあった。人里離れた山間や辺境地では、厳しい冬の寒さや食料不足で、毎年大勢の幼い子供や老人が命を落としている。


莫大な費用をかけて治癒魔法士を派遣したり、私財を投じて物資や人足を送り届けたこともある。しかし、どんなに手を尽くしても、病で亡くなる命の数は減らない。


ルシアンには焼け石に水だと一蹴された。


しかし、カイラスは諦めきれなかった。


助けて欲しい。藁にもすがるような気持ちで手紙を書いた。そして、ほどなくして返ってきた手紙には、皇都で生まれ育った貴族令息が考えたとは思えないほど、混迷する現場の実情を汲んだ具体的な対策がずらりと並んでいた。


それだけでなく、カイラスの『全てを救いたい』という願いを正確に理解した上で、理想論では届かない、現実的な範囲で今すぐに実行可能な手段や、長期的な視野で整備していくべき方策までがこと細やかに記されていたのだ。


カイラスは手紙に目を通し、雷に打たれたような衝撃を受けた。


冷静な観察者でありながら、根底には生命への深い敬意を感じる。


ただ目の前のひとりを救うだけでは足りない。現状での多少の犠牲を呑み込み、利用できる資源から最大効果を生み出し、出来るだけ多くの命を救う。


ジゼル、君はいったい何者だ?

これはまぎれもなく、為政者の思想だ。


欲しい。


彼への尊敬の心が渇望へと変わるのを感じた。


俺は、彼と結婚したい。

彼が運命の相手だ。


君の頭脳も、あくなき好奇心も、そして誰よりも思慮深く人命を重んじる高潔な魂も、君のすべてを手に入れたい。


それからというもの、カイラスはジゼルに想いを伝えるべく、ありとあらゆる手段を講じた。


ジゼルは一筋縄ではいかなかった。豪華な装飾品も、色鮮やかな花束も、愛の言葉も彼の心を動かさない。


満を持して招待した誕生会にも、彼は来なかった。


事故で負傷した騎士の治療をして帰って行ったと聞いたときは、生まれて初めて膝から崩れ落ちた。いつかは会える運命だと、回収したネックレスを握りしめ、自身を慰めたことも記憶に新しい。


どうかしている。

自分でもそう思う。


門を越えると、カーネリア家の屋敷の前に到着する。ルシアンはまだ帰ってはいないようだ。少し前まではほとんど実家に寄り付かなかったくせに、最近は定刻になると仕事を切り上げ、さっさと帰っていく。カイラスの想いを知っているくせに、弟が寂しがるからと自慢げに言ってくるのだから、本当にたちが悪い。


もうすぐ真夜中だ。庭先から彼の寝室のバルコニーにじっと目を凝らす。すると扉が開き、淡い色の寝間着を着た彼が姿を現した。月明かりに照らされたジゼルの横顔にカイラスは思わず息を呑んだ。


あぁ、なんて美しい……!


憂いを帯びたアメジストの瞳に、風に揺れる金色の髪、陶器のように白くなめらかな肌にはほんのりと血色が差している。思ったよりも小柄で幼い顔つきだが、その姿はまるで物語の月の女神のようであった。


ジゼルは気持ちよさそうに夜風を受けながら、目を閉じて祈りを捧げる。


「…………カイルが無事に帰ってこられますように」

「君が望むなら、地獄からでも」


聞こえてきた祈りに思わず返事をしてしまう。聞こえたかと思ったが木々のざわめきに紛れてジゼルの耳には届かなかった。


あぁ、もう、彼が見つめる夜空の月にすら嫉妬してしまいそうだ。


しかしジゼルは祈りを終えるとさっさと部屋の中に戻ってしまう。いっそのこと声をかけたかったが、もう眠る時間だろう。彼の安らかな眠りを邪魔したくない。


「……もう少しだけ待っていてくれ。必ず君を迎えに来るよ」


次の日、彼の世話係だという執事長からお守りが入った布袋を受け取ったときは、歓喜に胸が震えた。中には自分の髪と、昨夜見た月光に輝くジゼルの金色の髪が縒り合わさって収められている。


「……あぁ、ジゼル」


胸元でそっと握りしめる。この髪と同じように、俺たちの運命は絡み合い、決して断ち切ることはできないのだ。


この遠征から戻ったら、彼に求婚しよう。


あの深い知性を宿したアメジストの瞳に見つめられる瞬間を想像して、カイラスは満ち足りた気持ちで静かに笑った。


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