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1-8. 灯される勇気

 エルンの家は村の外れ、小高い丘の中腹にひっそりと建っていた。

 内部はこぢんまりとしながらも、隅々まで手入れの行き届いた温もりある空間が広がっていた。窓辺には乾燥させた香草の束がいくつも吊るされており、芳ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。古びた炉にともる赤い火が部屋を柔らかく彩り、その光に照らされたリアの横顔も、どこかほっとしているように見えた。


 彼女は卓の端に腰を下ろしていた。足元に視線を落とし、小さく縮こまるように。そんなリアを、エルンは言葉もなく、じっと心配そうに見つめている。


「……二人は、もともと知り合いなのか?」


 控えめに尋ねたカイリスに、エルンは一瞬躊躇った後、頷いた。


「はい。リアがまだ村にいた頃、家が隣同士で……よく一緒に遊んでました。あの出来事が起きるまでは、毎日のように顔を合わせてて……」


 彼はふと、リアに目をやる。その眼差しには、懐かしさと共に、言葉にしきれない戸惑いが滲んでいた。


「……六年、会えなかったけど……でも、君がリアだって、すぐ分かったよ。体は大きくなっても、中身はあの頃のままだ。何も変わらない。まっすぐで、不器用で、でも人一倍優しくて……俺、全部ちゃんと覚えてるよ」


 その言葉に、リアの肩が小さく揺れた。


「……久しぶりなのにごめんね、エルちゃん。わたし、勝手に村に戻ってきて……迷惑だったよね」


 掠れる彼女の声は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。


「め、迷惑なんかじゃない!」


 エルンは声を張り首を振る。


「リア。君が戻ってきてくれて、俺は本当に嬉しいんだ!だって……もう二度と会えないって、俺はずっと、そう思ってたから」


「……エルちゃん……」


 短く交わされる言葉の奥に、積み重ねられた年月で築かれた絆が息づいていた。


 そのとき、奥の方から咳払いが聞こえた。


「エルン?こんな時間に、お客さん?」


 現れたのは年配の女性だった。袖を軽くまくり、手には濡れた布巾が握られている。頬に浅く刻まれた皺の奥に、品の良さが垣間見えた。

 リアの姿に気づいた途端、その表情がわずかに変わる。


「……あら?」


 "見覚えはある。けれどはっきりとは思い出せない"

 そんな目でリアをじっと見つめる。


「母さん。この子……リアだよ。ほら、昔、隣に住んでた」


 エルンが促すように言うと、リアはそっと外套のフードを外した。露わになった赤髪が、炉の火に照らされる。女性は目を細め、息を静かに吐いた。


「まあ……アベルさんのお孫さん。言われてみれば、幼い頃の面影があるわね」

 

「……ご無沙汰してます、エレノアさん」


 リアは目を伏せ、控えめに頭を下げた。エレノアと呼ばれた女性は一歩近づくと、黙って炉に薪をくべた。火がぱちりと鳴り、ひとつ火の粉がふわりと舞う。

 リアは卓の端に座ったまま、静かにその様をじっと見ていた。その肩は僅かにこわばっており、まるで何かを抑え込むように、両手は膝の上で固く結ばれている。


「リア」


 そっと名前を呼んだのはエルンだった。声は柔らかくも、奥底には確かな決意があった。


「無理にとは言わない。でも、俺は……聞きたい。あの夜、一体何があったのか」


 エルンは優しい口調で続ける。

 

「六年前のあの晩……嵐の夜。俺、家を飛び出して、アベルさんの家を訪ねたんだ。母さんの体調が急に悪くなって、不安になって……どうしても薬の相談をしたくて」


 リアの肩がぴくりと動いた。


「アベルさん、俺の話を聞くなり、『俺がなんとかする、君はお母さんの側にいなさい』って、そう言って……俺を家まで送ってくれたんだ」


 言葉を区切り、エルンは少し声を落とした。


「でもその翌朝、大樹の下で……アベルさんが亡くなったって聞いて。それにその場にリアがいたって……あとから聞かされたんだ。でもあの夜、アベルさんに最後に会ったのは、きっと俺の筈なんだ!だから何があったのか……ずっと気になってた」


 その言葉に、カイリスも目を細めた。彼は隣のリアをちらりと見やったが、リアは目を伏せたまま動かない。エレノアも、卓の向こうからそっと口を開いた。


「私も、知りたい。リアちゃん。あなたが《祈りの大樹》を裂いたと聞いたとき、とても信じられなかった。まさかあなたが……って。だから、それがもし誤解なら……私たちは貴方に、とんでも無い事を……!」


 リアの指が、ぎゅっと白むまで握られた。


「……違うの」


 その声はとても小さかった。けれど、確かに空気を震わせる強さがあった。


「違うの。……誰のせいでも無い。お祖父ちゃんは、自分の意思で行動した。誰にか強いられたわけじゃ、決してない。……優しい人だったから、エレノアさんを、助けたかっただけなんです」


 リアの瞳から涙がぽたりと落ち、卓に滲む。


「だけど……私が喋れば、お祖父ちゃんのその純粋な想いを、濁しちゃうような気がして……わたし、それがいちばん……いやだったの」


 カイリスが静かに息を吸い、リアの肩にそっと手を置いた。その手の温もりが、震える彼女を少しだけ現実に引き戻す。


「リア。水を刺すようで申し訳ないが、俺も本当の事を知りたい。オルド達は君が自分の祖父、アベル氏を、……殺めたと言っていた。でも俺は知っている。君はそんなこと、何があったって、断じてしない。だからこそ、知りたいんだ。君が一体、何を守ろうとしているのか。誰かに苦しみを押し付けるのではなく、分かち合うために」


 カイウスの言葉に、エルンが頷く。


「頼むよ、リア。君が村を出ていったあの日。僕たちは、何も分かってなかった。いや、分かろうともしなかった。……だから、君が勇気を出して村に来てくれた今日は、きっと最後のチャンスなんだ。ちゃんと、真実と向き合うための」


 その隣で、エレノアもゆっくりと頷く。


「私も同じよ。あなたが何を思って、何をして……そして、なぜ村を去ったのか。全部じゃなくていい。でも、あなたの言葉で教えてほしいの」


 リアは唇を噛み、視線を落としたまま膝の上の手をそっと開いた。小さく震えながら、深く息を吸い、そして目を閉じる。

 数泊の後再び目を開いたとき、そこには強い覚悟があった。


「……分かりました。わたし、話します。あの夜、何があったのか……全部」


 炉の火が、ゆっくりとまたひとつ音を立てる。

 ーー時が静かに、六年前の嵐の夜へと巻き戻り始めた。


 



 外では既に雨が降り始めていた。窓硝子を叩く激しい雨音が、家の中にまで響いている。


「……おじいちゃん、外に行くの?」


 戸口の前で厚手の外套に腕を通していた祖父、アベルの背に向かって、物音に目を覚ました十ニ歳のリアが不安げに声をかける。


「あぁ。エルン坊やのお母さんが倒れたそうだ。あの子、震える声で『助けて』と……こんな嵐の中、一人で来たんだ。放っておけるものか」

 

「でも……こんな酷い雨なのに。大丈夫なの?」


 リアは拳をぎゅっと握りしめた。外は黒々とした闇に包まれ、風に唸られた家も悲鳴を上げていた。まるで何かが起きる前兆のような異様な気配は、まだ子どもの彼女にもひしひしと伝わってくる。


「はは……リアは本当に心配性だな。大丈夫さ、すぐ戻るよ」


 アベルは優しく笑った。長年の畑仕事で刻まれた皺の奥に、どこか神聖さすら帯びた穏やかさが宿っている。


「戸を閉めて、炉の火を絶やすんじゃないぞ。湯を沸かしておいてくれれば、帰ったときにおじいちゃんがあったまれるからな」

 

「……わかった。でも、すぐ戻ってきてね。絶対、約束だよ?」


 リアの必死な言葉に、アベルは何も答えず、ただその頭をくしゃりと撫でる。そして間も無く、豪雨の中へと身を投じていった。


 アベルが家を出てから、半刻。

 雨は勢いを増し、屋根を叩く嵐の咆哮は強さを増していった。炉の前に座り込んだリアは、言われた通り薪を焚べながら、何度も戸口を振り返り、アベルの帰りを待ち続けた。


 ーーその時だった。


 ズズズガゴゴォォォォーー

 豪雨にかき消されない、何かが崩れるような濁った轟音が辺りに響いた。

 不安に駆られたリアは反射的に立ち上がり外套をつかむと、躊躇うことなく扉を開けて、闇の中へと駆け出した。


 視界は最悪だった。横殴りの雨と唸る風。ぬかるんだ道に足を取られながらも、リアは必死に前へ進む。息は荒く、全身は重く、寒さに震えが止まらない。

 それでも、足は止まらなかった。

 胸の奥で膨らんだ“嫌な予感”が、闇を進む毎に確信へと変わっていく。


 ――そして、彼女は辿り着いた。


 《祈りの大樹》。その根元の土が、大雨で削られ大きく抉れている。巨木は傾きかけ、ずるずる地を這う様に滑っている。長年の祈りを一身に受けたその巨体が、静かに、音を立てて崩れてゆこうとしていた。


 そして、その根元に、祖父の姿があった。大樹の影が、彼の小さな体を飲み込んでいる。


「おじいちゃん!!!」


 その叫ぶと同時に、リアの中で何かが弾けた。

 恐怖はなかった。あったのは、ただひとつ。"助けなきゃ"という衝動。

 彼女は弾ける様に走り出し、全身で巨木の幹を受け止めた。轟音が空を裂いた。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。腕がちぎれそうな衝撃。体の奥から砕けるような痛み。


 それでも、リアは叫んだ。


「だいじょうぶ、だからっ……!今、助けるから……だから……お願い、死なないでぇ……!」


 幼い体が、大樹の巨躯を必死に押し返す。


 根元から崩れかけた祈りの大樹は、その重みでアベルの体を押し潰そうとーーいや、すでに幹の一部が彼の胸を押しつぶし、血が土に滲んでいた。助けがあと一瞬でも遅ければ、完全に命を奪っていたであろうその光景に、リアは恐怖も痛みも忘れて力を込めた。


(おじいちゃんが死んじゃう!そんなの嫌だ!)


 全身を震わせ、渾身の力で幹を押し戻す。


 ズズズズゥゥウ……

 ぐ、とわずかに反発したあと、確かに巨木は動いた。

 だがーー同時に、幹が軋みを上げる。倒壊を押し返されたことで、本来かかるはずのなかった方向に力が集中し、内圧が幹の中心に集中する。やがてーー

 

 バリバリバリィィイィイ!

 遂に幹が耐えきれず真っ二つに裂け、雷鳴のような破砕音を周囲を震わせた。

 それでも倒壊の軌道から逸れた《祈りの大樹》は、リアの力で押し返され、その身を裂かれながらも直立するバランスを取り直した。


「……おじいちゃん!!!」


 大樹が安定したのを確認したリアがアベルに駆け寄る。

 濡れた土の上、仰向けで倒れ込んでいたアベルが苦しそうに息を吐いた。その胸は血で濡れ、呼吸はかすか。

 

「……リア」


 掠れた声だった。アベルは微笑んでいた。

 けれどその瞳の奥の灯は、風に揺らぐ蝋燭のように脆かった。


「おじいちゃんっ……!大丈夫なの……?ねぇ……!」


 リアは泣きそうな声で縋るように問いかける。アベルの手を握ろうとして、その冷たさに驚き、息を呑んだ。

 アベルはゆっくりと手を伸ばすと、胸元からくしゃくしゃになった葉の束を取り出し、リアの手の中にそっと押し込んだ。


「……これは、セリアの葉だ……肺を患ってる人間に……よく効く……。……エレノアに……届けて、やってくれ……」

 

「や、やだよっ!そんなの、今はいいから……!おじいちゃんの方が……!」


 リアは涙を堪えきれず叫んだ。

 アベルはゆっくりと首を横に振った。その動きも、今にも崩れそうに弱々しい。


「リア……」


 その名を呼ぶ声は、まるで祈るようだった。


「おまえは、誰よりも……強くて、誰よりも、優しい。……昔から、ずっと、そうだった……」

 

「やめて……!そんな……お別れみたいなこと、言わないで……!大丈夫って、言ってよ……!」


 リアの嗚咽が、声を押し潰す。呼吸が乱れ、涙で視界が滲んでいた。

 アベルの手が、震えながらもリアの頬に触れた。その掌のひんやりとした温度が、かえって温かさを思い出させる。


「リア……その力は……おまえに、与えられた……祝福、なんだ。怖がらなくていい……。人を……傷つける、ためじゃない。……救うためにある。おまえの手は、そういう手だ……」


 リアの肩が震える。祖父の言葉が、胸に深く染み込んでいく。


「……力ある者は……人のため、その力を使う、義務がある。……怖れられても、誤解されても……それでも、人を想い、歩き続ける……それが、ほんとうの、強さだ」


 吐息のようなその言葉の一つひとつが、アベルの最後の灯火を吹き消してゆく。


「……リア。おまえは……ほんとうに、優しい子だ……。だから……だからこそ……」


 言葉が、かすれて途切れた。それでもアベルは、最後の力を込めて、もう一度だけ言葉を紡ぐ。


「……その優しさを……どうか……手放さないで欲しい。いつか、きっと……その手を取ってくれる……誰かが……」


 それきり、声はもう届かなかった。

 アベルの手が、そっとリアの頬から滑り落ちる。


「……おじいちゃん……?ねぇ……返事、して……。……返事、してよぉ……お願いぃぃ……」

 

 返事は、なかった。

 目の前の現実を受け止めきれず、リアはただ呆然とその手の冷たさを抱きしめていた。

 

 その時だった。

 手の中の、アベルから託された小さな束。泥と血にまみれながらも、命の香りを宿した濃緑の葉が、その存在感を静かに誇張した。


「……セリアの葉……」


 指先に伝わる葉の形。かすかに鼻をくすぐる苦みのある香気。

 ーー間違いない。一緒に大樹の参拝に訪れたあの日、アベルが誇らしげに語ってくれた薬草だった。


『これはな、《祈りの大樹》の根元の湿った土にしか生えんのだ。長雨のあとがいちばんいい。生命の水を吸って、ようやく芽吹くんだよ』


 優しく、穏やかな祖父の声が耳の奥で蘇る。

 その瞬間、リアの胸の奥で何かがはじけた。

 すべてが繋がった。

 どうして、こんな嵐の夜にアベルは《祈りの大樹》へ向かったのか。

 どうして、倒れた大木の根元に、彼はひとりでいたのか。


 セリアの葉……それは、エレノアの命を繋ぐため。

 誰に知られるでもなく。何の見返りも求めずに。


「……おじいちゃん……」


 堰を切ったように、涙が溢れた。

 誰のせいでもない。だから、誰も恨むべきではない。祖父は、立派に自分の信念を貫き通いたのだ。笑顔で見送ってあげなければ。

 

 でも。それでも、やっぱり。


「……ありがとう……っ、でも……!う、うえぇっ……わ、わたし……っ、!な、なきむしでぇ、ご、ごめんねぇ……!」


 嗚咽が喉の奥を突き上げる。

 

 祖父の危機に、ほんの少しでも早く気づけていたら。

 怖がらずに、一緒に行けていたら。

 そんな悔いが、心の奥底から溢れ出す。


 しかし。

 アベルは最期まで託した。命の意味を。力の意味を。優しさの意味を。人を想い、人のために歩み続ける。


「おじいちゃぁぁんっ……わ、わたし……お、おじいちゃんみたいに、なれるかなぁ……!」


 雨はまだ止まない。

 《祈りの大樹》の傍らで、赤髪の少女は崩れ落ちるように祖父の亡骸を抱きしめた。その身はずぶ濡れで、震えていた。その泣き声は嵐に掻き消され、深い夜に取り込まれていった。


***


 翌朝。

 嵐が去った村は、冷たい朝露に包まれていた。


 《祈りの大樹》は、依然としてその巨躯を聳えていた。

 ーーしかし幹は途中で裂け、雨風に削られた断面が朝陽に晒されている。村を守り続けてきた象徴が傷口を晒すその姿は、目を背けたくなるほど痛ましい。


 大樹の傍らでリアは一晩中、動かずに座り込んでいた。大好きな祖父の亡骸に小さな手を添え、泥にまみれた顔を伏せていた。

 耳の奥では、まだアベルの声が聞こえていた気がする。

「頑張ったな」「優しい子だ」。何度も繰り返し、胸の奥で響いていた。


 その時だった。

 枝を踏み鳴らす複数の足音。

 ざわめきが近づく。リアが顔を上げると、そこには村長オルドを先頭に、数人の村人たちが険しい顔で近付いてくる所だった。


「これは……一体何が起きたと言うのだ……!」


 オルドの声が低く響く。

 その視線が、裂けた大樹をなぞり、血に濡れたアベルの遺体へ、そしてその傍らにうずくまるリアへと移る。


 その瞬間、オルドの表情が凍りついた。

 

「――アベル?」

 

 彼はよろめくように駆け寄り、崩れ落ちた友の体に手を伸ばす。だがその手は、途中で止まった。震えていた。


「……うそ、だろ……おい、アベル……起きろ……起きてくれ……!」


 唇がわななき、掠れた声が漏れる。リアは震える唇を開いた。


「……わたし……守ろうと、したの……だけど……」


 声はか細く、涙に濡れていた。けれど、オルドには届かなかった。

 オルドも心の底では否定していた。"この子がそんなことをするはずがない"と。だが、村を守る御神木の大樹が裂け、長年苦楽を共にした友が冷たく横たわっている現実を目の前にし、……その理性は脆くも崩れていた。


「リア……おまえが……やったのか……?」

 

「……ちがっ……」


 掠れるような否定。

 だがその声に、言葉に、重さはなかった。

 幼い彼女は、何をどう説明すればよいかも分からない。そして、真実を語れば、見返りを求めずエレノアを救おうとした祖父の純粋な想いを汚す気がして、ただ泣きながら、黙ることしかできなかった。


「言い訳をするな!!」


 オルドが叫ぶ。


「《祈りの大樹》を裂いたのは、おまえなのか!?アベルを、この村を、おまえが……!」


 怒声が丘に響いた。

 それは村長としての怒りでもあり、何より親友を守れなかった男の、八つ当たりのような叫びだった。その光景に村人たちも息を呑み、誰もが言葉を失っていた。

 が、数泊の後、小声で囁き始める。


「あの子、異常な怪力の子だろ……」

「力を見せつけるためにやったんだ!そうに違いない!」」

「やっぱり……わたしゃ、いつか何かをしでかすと思ってたんだ」

「あの赤い眼も、髪も、普通じゃない。まるで獣だ……」


「「「「あいつが……赤い獣が、ご神木を裂いたんだ」」」」


 その視線が。囁きが。まだ小さなリアの背に容赦なく突き刺さる。

 オルドは俯き、震える拳を握った。そして絞り出すように言った。


「……リア。今日をもって……おまえは、この村を出ていけ。二度と、村の敷居を跨ぐな」


 リアの目が揺れた。けれど反論は、なかった。

 ただ、静かに。肩を落としたまま、彼女は頷いた。


***


 その夜。

 リアは誰にも気づかれぬように、ひとりアベルの家へと戻ってきた。窓に明かりは灯さず、戸を開ける音すら忍ばせるようにして中へ入る。


 扉を閉めた瞬間、深い静けさが体を包む。

 もうアベルが戻らないことを、家そのものが静かに語っているようだった。


 リアは靴も脱がず、まっすぐ薬棚へ向かう。

 かつてアベルが何度も手にした引き出しを開け、埃の匂いと草の香りが混ざった空気を吸い込むと、指先で薬包を一つひとつなぞる。幼い頃、アベルの隣に立って「これは何?」と訊ねた日のことが思い出された。


 やがて、空の薬包の束を見つけ、手に取る。

 

 リアは卓に道具を広げると、黙って調合を始めた。

 ギザギザの葉とかすかな苦味を含んだ香気。祖父が最期まで手放さなかった、命の葉。


 手は震え、視界は涙で曇っていた。

 それでも、指先は止まらなかった。

 アベルが遺したものは、技術だけではない。

 “誰かのために生きる”という姿勢そのものだった。

 誤解されても、憎まれても。

 それでも愛する誰かを救おうとする意志。それが、アベルがリアに託した“想い”だった。


 乾いた布を取り出し丁寧に包むと、薬包を小さな布袋に収める。それを胸にそっと抱きしめると、アベルの匂いがかすかに残っていた。

 落ち着きと優しさと、少し草くさい、あの匂い――それがたまらなく、愛おしかった。


 空が白み始めた頃、リアは足音を殺して家を出た。

 目指したのは、隣家、エルンの家。まだ薄暗い村の道を抜け、門前に静かに膝をつく。


 人の気配はない。朝の風がわずかに吹き抜ける中、リアはそっと薬袋を石畳の上に置いた。湿気で濡れぬよう、周囲の草葉をちぎり、小さく覆いを作る。


 指がほんの少し、震えた。

 それを抑えるように、リアは胸の中で、アベルの言葉を思い出す。

『怖れられても、誤解されても……それでも、人を想って歩き続ける。それが、ほんとうの強さだ』


 祖父の声が、胸の奥で温かく響いた。


「……ちゃんと、届いて……エレノアさんが、よくなりますように……」


 ぽつりと、小さく祈るように呟いた。


 その声は誰にも届かず、風に溶けていった。


 リアは最後まで、背を丸めることなく立ち上がった。

 そして振り返ることなく、その場を去る、一度でも見てしまえば、踏み出せなくなる気がしていた。

 その小さな背に、朝の光がそっと射していた。


***


 陽は昇り始めていたが、まだ村には霧が薄く立ちこめ、草葉の一枚一枚が夜の名残を宿していた。


 リアは、かつて何度も通った小道をひとり歩いていた。

 村の外れから森へと続く、獣道のような細い道。

 草むらに咲く名もなき小花も、木の根の形も、朝日を浴びて輝く雫の粒も、全てが懐かしかった。


 けれどその懐かしさは、今や胸を温めるものでなく、刺すように心を締めつけるものだった。

 背には、小さな荷包だけ。薬草と、少しの私物。それから、祖父が最後まで使っていた大事な布の小袋。大した物は何もない。それでも、それがリアの全てだった。


 数歩歩くごとに、記憶が蘇る。


 エルンと泥だらけになって駆け回った坂道。

 アベルに連れられてキノコを採った林。

 用水路の水に足まで浸かり、遊び尽くした夏の午後。

 《祈りの大樹》に向かって、一人密かに願いごとを囁いたあの冬の朝。


「……ごめんね」


 リアは誰に向けるともなく呟いた。

 村を壊すつもりなんてなかった。誰も傷つけたくなんてなかった。それでも、自分はもうここには居られない。


「……いままで、ありがとうございました」


 同じように、静かに囁く。

 この村で育ったこと。祖父と暮らせたこと。たくさんの思い出をくれたこと。それがあったから、今の自分がいる。

 

 リアは歩みを止め、両手をぎゅっと握りしめる。

 丘の上から村を見下ろすと、朝靄の中に家々の屋根がぼんやりと浮かんでいた。その景色は、最後まで、優しかった。


「……ばいばい。皆んな、元気でね」


 今度ははっきりと声に出す。誰にも届かない、小さな別れの言葉。

 それからリアは、まっすぐ前を向いて、再び歩き出した。誰もいない森の中。どこまでも続く獣道。


 一陣の風が、リアの頭を撫でた。

 それはどこか、祖父の手の温もりにも似ていた。

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