1-4. あかいかみ、あかいけもの
土煙がようやく収まった頃、森に再び静寂が戻っていた。先ほどまでの陰鬱さは消し飛び、眩い陽が森に差し込み始める。
カイウスは地面に膝をついたまま、目の前の“少女”を見つめていた。
――いや、少女と呼ぶには少し語弊があったかもしれない。
歳は十八歳ほどか。背が高く、女性としては珍しくカイウスよりも頭ひとつ分は大きい。
腰まで流れる深紅の髪は、微風を受け陽炎のように煌めいている。すらりと伸びた手足は健康的な曲線を描いており、装飾的な美しさではなく、自然を生き抜く逞しさを感じさせた。
女性らしい柔らかな相貌と、凛とした目元が不思議な調和を生んでいる。頬に浮かぶ僅かな紅と少し日焼けした肌が、彼女の可憐さを際立たせていた。
彼女は一瞬だけ足を止めて躊躇い、やがてゆっくりとカイウスへと歩み寄る。
怯えも威圧もない。ただ、「どう声をかければよいのかが分からない」、そんな素朴な戸惑いが、その仕草に表れていた。
「……あの。大丈夫、ですか?」
声は澄んでいて、柔らかな水音のようだった。遠慮がちだが相手を思いやる気遣いが滲んでいる。
カイウスは、わずかに遅れて頷いた。
「……あ、ああ。なんとか、生きてはいる」
転がった剣を探り手繰り寄せ、杖のようにして立ち上がる。全身が一斉に痛みを訴えたが、それ以上に、先ほどの非現実的な光景を見た衝撃が胸を占めていた。
(あの巨狼を、この少女が、一撃で撃退した。しかも、武器も使わず、ただの素手で……)
少女は、長い前髪を指で払いながら、小さく息を吐いた。安堵のため息なのか、緊張の余韻なのかは読み取れない。
「その……もし良ければ、君の名前を聞いてもいいか?」
カイウスの問いに、少女は小さく「あっ」と息を呑み、目を伏せかけてから答えた。
「……リア。リア・フリーディス、といいます」
少なくない緊張を含んだ声だった。人と話すことに慣れていない様子はあるが、決して恐れているわけではない。必要な礼節を何とか尽くそうとする、不器用な誠実さが垣間見えた。
「リア、か。助けてくれて、ありがとう。命拾いしたよ」
カイウスの言葉に、リアの唇がほんのわずかに持ち上がる。
「い、いえ。……あの……間に合って、よかったです」
「いや、本当に。礼を言わせて欲しい。俺はカイウス、カイウス・ヴァンデルだ。流れの傭兵をやっている。いまは近くのノヴィリア村の依頼で、森の異変について調べていた。……まさかあんな化け物に出会すとは思わなかったが」
カイウスの自己紹介に、リアが一瞬息を呑む。口をつぐみ、視線を少し落とした。
「……ところで君は、どうしてこんなところに居るんだ?」
カイウスの問いに、リアはか細い声で答える。
「その、近くに……わたしの、家があって。一人で、暮らしています」
「こんな森の中に?危なくないのか?」
リアが一瞬固まる。が、すぐに表情を整え、少しだけ目を逸らして呟いた。
「……慣れてるんです。ずっと、ここで暮らしてるので」
言葉に嘘はなかった。だが、どこか言い淀むような響きもあった。
しかし、カイウスは深く追及しなかった。
目の前の少女が自分を助けたのは、見返りではなく、おそらく純粋な善意からだ。それを踏み躙る質問をぶつけるのは筋違いだと思ったからだ。
沈黙がわずかに流れた、そのとき。
節目がちだったリアが、意を決したように一人頷くと口を開いた。
「あ、あのっ!……も、もしよかったら、うちに来たり……しませんか?」
顔を上げた瞳には、それまでのおずおずとした気配はなかった。何かを乗り越えようとする、精一杯の覚悟が宿っていた。
「そ、その……怪我も、されていますし。薬もあるので、手当ても……簡単なものなら、できます。それと、もし……ご、ご飯とかも、食べていかれるなら……」
言いながら、わずかに視線を逸らす。
カイウスを見返すのが照れくさいのか、それとも招いたあとの段取りが想像出来ていないのか。ともかく、きっと彼女にとって「誰かを家に招く」という行為は、簡単なことではないのだろう。
カイウスは、その意志を正面から受け止めた上で、軽く笑った。
「……ありがとう。ぜひ、お言葉に甘えるよ。実を言えば、もう脚が棒で。こう見えて、今にも倒れそうなんだ」
冗談めかして言いながら、カイウスはわざとらしく両足をガクガクと揺らしてみせた。
リアはきょとんと目を丸くして、それからほんの少しだけ息を漏らすように笑った。恐らく初めて見せた、心からの笑顔だった。
「……じゃあ、ついてきてください。こっちです」
森の奥を指さしたリアの髪が陽光を受けて、赤く揺れる。その先に続く細い獣道は、木漏れ日と小鳥の囀りに包まれて、静かに二人を迎えていた。
***
森の奥へと続く獣道を、リアの背を追いながら歩く。
枝葉がうねるように道へ張り出し、薄暗い緑の天蓋を作っていた。けれど少女の足取りに迷いはなく、まるで地図の上をなぞるように正確だった。ここが彼女にとって、どれだけ馴染み深い場所かが知れる。
やがて、木々の合間から視界が開ける。
現れたのは、森に溶け込むように建つ、木造の一軒家だった。傾いた屋根には厚く苔が生え、壁板の一部はひび割れていた。
だが、ただの廃屋ではない。戸口の脇には綺麗に割られた薪が積まれ、窓辺には小さな鉢植えが控えめに並んでいる。粗末ながらも、丁寧な生活の跡がそこにあった。
「……こ、ここです。ごめんなさい、あまり綺麗な家じゃなくて……」
リアが立ち止まり、申し訳なさそうに縮こまりながら振り返り言った。
「いや、充分すぎるよ。実はこういう自然を感じれる場所の方が、俺は落ち着くタチでさ。それに、招いて貰えただけ、ありがたいさ」
カイウスの言葉に、リアは少しだけ口元を緩めた。そしてそっと木戸を開ける。
家の中は、外観から想像する以上に温もりがあった。
低い天井ときしむ床、中央には石造りの炉が据えられ、わずかに赤い火種が残っている。簡素な棚や鍋、壁際には小さな寝台が一つだけ。梁には乾燥した薬草が吊るされ、窓辺の棚には手作りと思しき陶器の小物が並んでいた。
人里離れた森の中。ここだけは“人の暮らし”が息づいていた。
「あの……少しだけ、待っててください。今、お茶を淹れますので」
リアは静かに告げると、慣れた手つきで器を取り出し、薬缶に水を注ぐ。手際は少しぎこちないが、長年の習慣が刻まれた動きだった。
カイウスは入り口近くの腰掛けに荷物を下ろし、深く息を吐く。背から外した剣を壁に立てかけると、じんわりと疲労がのしかかってきた。
しばらくすると、リアが木椀を差し出してきた。カイウスはそれに鼻を寄せる。薬草の香りが鼻腔をくすぐり、疲れをほどくように身体に染み込んでいく。
「……ずっと、一人で暮らしてるのか?」
ぽつりと尋ねると、リアの手が一瞬だけ止まった。だが、すぐに火の前に戻り、湯を見守りながら答える。
「……はい。十二のときから、六年ほど。その前は祖父と、二人で暮らしていました。祖父が亡くなってからは、ずっと一人です」
その声に滲む寂しさは、彼女がどれだけの月日を孤独に過ごしたかを物語っていた。
「……お爺さんは、どんな人だったんだ?」
リアは湯気をたてる木椀を手にし、口に寄せる。
その表情はどこか遠くを見ていた。
「優しい人でした。すこし無口だけど、いつもそばにいてくれて……森のこと、薬草のこと。生活のすべてを教えてくれた、大切な人です」
懐かしむ様に語るリアの言葉の奥には深い情が感じ取れた。カイウスは木椀に視線を添えながら続ける。
「……ノルヴィア村で暮らすことは考えなかったのか?」
問いかけに、リアはふっと視線を落とした。
「考えたこと、有りません。わたし、ほんとうに慣れているんです。この暮らしに」
即答だった。
しかしその声音には、どこか言葉を選んでいる硬さがあった。これ以上は話さない、という意志の輪郭も見える。
それにーー
(ーーこの少女は「慣れている」としか言わない。つまり、自ら選んで孤独を受け入れているわけではない。それでもこの森に残ったのは、きっと「他に行ける場所がなかったから」だ)
炉の薪がぱち、と小さく弾ける音がした。夕陽が窓から差し込み、二人の影をゆっくりと伸ばしていく。
カイウスはふと、リアの横顔に目を留めた。
焚き火の赤が頬に淡く映り、その表情には慎ましさと静けさが同居していた。
「……なあ、ひとつ、聞いてもいいか?」
リアは小さく肩を揺らし、それでもしっかりと頷いた。
「はい。……なんでしょう」
「さっきの狼。……君は、素手で殴って退けた。顎をへこませ、遠く吹き飛ばすほどの力で」
リアは何も言わず、視線を落とした。沈黙のなか、カイウスは続ける。
「勘違いしないでくれり君は命の恩人だ、それは変わらない。ただ……悪気はないが、どう考えても、その……あの力は、常人の域を超えている」
言葉を切りながら、ふと、ある記憶が脳裏をかすめた。
ーー《祈りの大樹》。
真っ二つに裂けたあの巨木。オルドとエルンは、一匹の"獣"の仕業と、そう言っていた。村に厄災を齎し、いまは森の奥に棲まうーー
「……"赤獣"って、聞いたことあるか?」
リアの瞳に、一瞬だけ影が走る。まるで過去から不意に心を引き戻されたかのような、わずかな動揺だった。
「……あります。子どもの頃、耳にしました」
「……どんなふうに?」
「……村を恐れさせた、森の奥に棲む、赤い……化け物。《祈りの大樹》を割いて、豊穣の女神様の怒りを招いた、飢饉の原因」
耐える様に目を閉じて紡ぐその声は、どこか諦めが滲んでいた。けれど、カイウスはもう確信していた。
赤い髪。規格外の力。村に伝わる恐怖。六年前、神木に起こった災厄。そして、人里離れた森に一人棲む目の前の少女。
「……君が、その赤獣なのか?」
静かな問いだった。声に責める色はない。リアは顔を伏せ、小さく唇を噛む。
「……はい。そう、呼ばれてました。昔……《祈りの大樹》を裂いたあの日から、ずっと」
吐き出されたその告白には、深い孤独と悲しみの色だけが宿っていた。
「……わたしが神木を裂いたことで、きっと、たくさんの人を悲しませて、苦しませたんだと思います。……いまさら、どんな顔で村に行けば良いのかも、分からなくて……でも、他に行くところもなくて、ずっとここに……」
その声は湿り気を帯び、震えていた。
カイウスは立ち上がり、リアのそばにそっと歩み寄る。
肩に手をかけかけて、しかし思い直し、言葉を選んで口を開く。
「……分かった。悪かった。これ以上は聞かない。でも、一つだけ言っておく」
リアが顔を上げる。その瞳には、何を言われるのか、という戸惑いが揺れていた。
「君は俺の命を救ってくれた。何の理由も、見返りもなく。……俺にとっては、それが全てだ。神木については、きっと君なりの事情があったんだろう。……話して貰わなくても、俺はそう信じるよ」
そう言い切るカイウスの声にら揺らぎがなかった。問いただす事もなく——ただリアの在り方を受け入れようとしていた。
その言葉を聞いたリアは、ふいに目元を覆うように顔を伏せる。炉の火が揺れた瞬間、髪の隙間からぽたりと涙が落ちるのが、かすかに見えた。
カイウスは、何も言わなかった。
視線を逸らし、あくまで自然な仕草で木椀を手に取り、何事もなかったかのように口をつけた。
薬草の香りがふわりと口内に広がる。喉を潤すその湯は、ほんのりとした甘みを含んでいて、苦味を穏やかに包んでいた。
「……おぉ、うまいな。薬草茶は苦手だが、これは悪くない」
ぽつりと呟いた声は、心地よさに満ちていた。
リアがそっと顔を上げる。瞳の端に滲む雫を拭わなかったが、口元に浮かんだ笑みは柔らかかった。
「祖父が……蜂蜜を少し入れるのが好きで。甘い方が、疲れが取れるって教えたんです」
ほんの少しだけ声が震えていたが、言葉には小さな誇りが宿っていた。
「祖父も、よく褒めてくれました……『リアの薬草茶は格別だ』って。数少ない、私の自慢なんです」
そう言ったあと、リアはふわりと笑った。
窓の外では、森の影がゆっくりと色を変え始めていた。
薄紫の帷が降り始め、心地よい静けさが濃くなっていく。外界と切り離されたこの小さな家の中にも、穏やかな夜の気配が近付いていた。