1-5. あかいかみ、あかいけもの
土煙がようやく引いていく。森は少しずつ静けさを取り戻し、枝葉の隙間から落ちる天頂の光がその場を照らし出した。先ほどまでの陰鬱さが嘘のように薄れていく。
カイウスは地に横たわったまま、目の前の少女を仰ぎ見ていた。
年は十八ほどだろうか。背はカイウスより頭ひとつ分高い。すらりと伸びる手足は丸みを帯びながらも引き締まり、飾らぬ立ち姿のままでも目を引いた。腰まで届く深紅の髪が、森を渡る風にふわりと揺れる。樹木の深い緑にも決して埋もれない、鮮やかな赤だった。
少女は一瞬躊躇いを見せたが、ゆっくりとカイウスへ歩み寄ってくる。「どう声をかければいいのかが分からない」。そんな素朴な戸惑いが、小刻みな歩幅に表れていた。
「……あの、大丈夫ですか? お怪我、痛くないですか?」
声は澄んでいて、柔らかな水音のようだった。よく通るのにどこか控えめで、相手を慮る気遣いが覗いている。カイウスはわずかに遅れて頷いた。
「あ、ああ。なんとかな」
地面に転がっていた剣を手繰り寄せ、杖代わりに立ち上がる。全身が鈍い軋みを上げた。だがそれ以上に胸を占めるのは、現実味を欠いた先ほどの光景だった。
――あの巨狼を、この少女が、たった一撃の拳打で退けた。
少女は前髪を指で払うと、ふぅと一息をついた。それが安堵のため息か、緊張の残滓なのかは判断がつかない。ただ、こちらを窺う視線の奥にかすかな怯えが混じっているのを、カイウスは見逃さなかった。
「名前を聞いてもいいかな?」
問いかけに、少女は「あっ」と息を呑む。迷うように目を伏せたが、すぐに視線を戻すと、ゆっくりと名乗り出た。
「……リア。リア・フリーディス、といいます」
やや緊張した声。だがカイウスを恐れているわけではなさそうだ。ただ人と話すことに不慣れなだけで、必要な礼節を尽くそうとする誠実さがある。
初めてしっかりと視線が合う。凛とした目元に、年相応の幼さが残る顔立ち。頬に差す朱と少し日に焼けた肌の取り合わせが、野花のような無垢な可憐さを添えていた。
「リア、か。いい名前だな。助けてくれてありがとう。命拾いしたよ」
「いえ。……その、間に合って良かったです」
「良かった、どころの騒ぎじゃないよ。もし君が来てくれなかったら俺は今頃、あの化け物の胃袋でシカ肉シチューの一部になってたところだ」
冗談めかした返しにリアは少し目を見開くと、おずおずと上目遣いに尋ねてきた。
「……あの……私のこと、怖くはないんですか?」
「え? 怖い?」
カイウスはきょとんと問い返す。
「だって……その、さっきのこと、とか……」
「あぁ、あの化け物を素手で殴り飛ばしたこと?」
「……はい」
リアの声がわずかに翳る。
「助けてくれた恩人を怖がる理由なんてないさ。まぁ、あのバカでかい狼には度肝を抜かれたけどな」
「……っ」
リアは言葉もなくカイウスを見つめる。その目からようやく硬さが抜けていった。
「改めて、礼を言わせてほしい。俺はカイウス。カイウス・ヴァンデルだ。流れの傭兵をやっている。いまは近くのノルヴィア村の依頼で、この森の異変について調べていた。まさか、あんな化け物に出会すとは思わなかったが」
「……カイウス、さん……」
リアがその名をそっと唇にのせる。呼び名を確かめるような呟きだったが、思いの外自然と彼女の声に馴染んでいた。
「ところで君は、どうしてこんな森の奥に居るんだ? 見たところ狩人って訳でも無さそうだけど」
言いながら辺りを見渡す。野宿の足しになりそうな山菜はいくつか見えたが、いくら表向きは草食獣の溜まり場とはいえ、少女がひとりで立ち入るには深すぎる。
「その……この近くに家があるんです。いまは、一人で暮らしています」
「えっ? 家が、こんな森の奥に? 危なくないのか」
「……慣れてるんです。ずっと、ここで暮らしてるので」
「……なるほど。まぁそういう事もあるか」
言葉に嘘はなさそうだ。ただ、どこか言い淀む間がある。
だがカイウスは追及しなかった。この少女は自分を救ってくれた。理由も事情も関係なく、ただ見知らぬ自分のために躊躇いもなく危険へ飛び込んできた。カイウスにとっては、それだけで十分だった。
ふと、二人の間に沈黙が落ちる。俯きがちだったリアが、意を決したように顔を上げた。
「あ、あの……! も、もしよかったら、うちに来ませんか?!」
怯えが強かった瞳に、それまでとは違う色が宿っていた。
「そ、その……お怪我もされていますし! わたし、薬草のことも少し分かるので、簡単な手当てもできます。それと、もし……ご、ご飯とかも、食べていかれるなら……」
尻つぼみな言葉の最後はほとんど聞き取れなかった。照れ隠しのようにも、単純に誘った後の段取りが想像ついてないようにも見える。きっと彼女にとって「誰かを家に招く」という行為は、それほど大きな一歩だったに違いない。
「ありがとう。そしたらお言葉に甘えさせてもらうかな。実を言えばもう脚が棒で。こう見えて、今にも倒れそうなんだよ」
そう言って、わざとらしく脚をぷるぷると震わせてみせる。リアは目を丸くすると、ほんの少しだけ息を漏らすように笑った。出会ってから初めて見せた、心からの笑顔だった。
「……じゃあ、ついてきてください。こっちです」
そう言ってリアが森の奥を指さす。その先に続く獣道は柔らかい木漏れ日と小鳥の囀りに包まれていた。
カイウスは背の鞘に剣を収めると、ゆっくりと歩き出す。足裏で踏む草の感触が、いまは少しだけ心地よく感じられた。
***
枝葉の天蓋の下は薄暗く、けれど先を行くリアの足取りに迷いはなかった。まるで地図の上をなぞるように正確で、この道が彼女にとってどれほど馴染み深いのかが伝わってくる。
やがて拓かれた空地に出た。そこに木々に溶け合う小さな森小屋が佇んでいる。かつては伐木小屋だったのだろう。傾いた屋根には苔が広がり、壁板のあちこちにヒビが目立つ。
だが荒れ果てた廃屋という訳でもない。戸口にはきちんと積まれた薪。窓辺の小さな鉢植えには季節の花も揺れている。脇には手入れの行き届いた畑もあり、木片を組んだ案山子が立っていた。麻袋に藁束を詰めた頭部には、炭で描かれた満面の笑顔。少し不恰好だがどこか愛嬌がある。質素ではあるものの、丁寧な“暮らし”が息づいていた。
「……ここです。ご、ごめんなさい。お誘いしておいて、あまり綺麗な家じゃなくて……」
振り返ったリアが気まずそうに頭を下げる。
「いや、十分すぎるよ。休める場所を貸して貰えるだけありがたいさ」
カイウスは正直にそう思った。野宿を重ねた身には、屋根があるだけでも十分だ。ましてここには、人の手が行き届いている。
リアはほっとしたように口元を緩めると、そっと木戸に手をかけ、カイウスを中へと招き入れる。
低い天井に、わずかに軋む床。壁には石造りの炉があり、赤く残る火種が優しく揺れる。壁際には簡素な木棚と藁詰めの寝台。梁には乾燥した薬草が丁寧に吊るされ、二人用の小さな食卓は手作りと思しき小物に彩られている。
外から見るよりもずっと、温もりのある空間だった。
「あ、あの、少しだけ待っててください。いまお茶を淹れますので」
「ありがとう。何から何まですまないな」
リアは頷くと、炉の鍋で茶を煮出しはじめた。慣れた手つきで薬草を量り、鍋をかき混ぜる。
カイウスは腰掛けに荷を置き、壁に剣を立てかける。途端、全身にどっと疲労が押し寄せた。張り詰めた緊張がほぐれ、生き延びた実感がようやくストンと胸に落ちる。
「……どうぞ。そ、粗茶ですが……」
差し出された木椀から湯気が立つ。礼を返して鼻を近づけると、薬草の香りがふわりと弾けた。
「ところでリアは、ずっとここに一人で暮らしてるのか?」
何気ない問いに、リアが作業の手をぴたりと止めた。だがすぐに動き出し、炉に薪を焚べはじめる。
「はい。十二のときからなので、もう六年ほどになります。その前は祖父と二人で暮らしていました。祖父が亡くなってからは、ずっと一人です」
「六年も一人で暮らすのは、その……寂しくはないのか? 村で暮らそうとは思わなかったのか?」
リアが、ふっと視線を落とす。
「ご心配、ありがとうございます。でも、わたしは大丈夫です……一人きりのこの暮らしに、もう慣れてますから」
即答だった。淡々とした声には張りがない。感情が乗らないことで、かえって滲み出るものがある。
「お祖父さんはどんな人だったんだ?」
「優しい人でした。すこし頑固でしたけど、いつもわたしの側にいてくれて……森のことも、薬草のことも、全部教えてくれました」
一転して、声に温度が立ち戻る。
「かけがえのない、とても大切な人です」
遠くを見つめる横顔に、今もなお抱く深い敬意が滲む。それまで何かに身構えるようだった彼女の表情が、ほんの少しだけほどけていた。
――だからこそ、カイウスは一拍だけ迷った。
聞くべきか。いや、聞かなければならない。この任務のためだけでなく、目の前の彼女のためにも。
ぱち、と炉の薪が小さく弾けた。窓から入り込む斜陽が、ひんやりとした夜の気配を引き連れる。
「質問ばかりですまない。もうひとつだけ、聞いてもいいか?」
リアは「はい」と顎を引く。その表情が、また少し固くなった。
「勘違いはしないでくれ。怖がってるわけじゃないんだ。でも……さっきの狼。君はあの巨体を、素手で殴り飛ばしてた。それも、頬をへこませるほどの力で」
リアは炉の火を見つめたままだ。
「君は俺を助けてくれた。それにこうして休む場所まで与えてくれてる。本当に心から感謝してるんだ。でも……あの力は、どう考えても普通じゃない」
沈黙が落ちる。そのとき、炉の炎がふっと揺れた。赤く染まった光の中で、リアの髪が燃えるように輝く。
――赤い髪。
パチリ、と何かが嵌まった音がした。
人の域を超えた力。村を離れ、六年前から森に隠れるように、ひとり孤独に生きる少女。パチリ、パチリ。ピースが次々と埋まってゆく。やがてカイウスの脳裏に、ある風景がよぎった。
ノルヴィア村の外れに立つ、祈りの大樹。朽ち果てた骸のように真っ二つに割けた、あの無惨な姿。オルドが震える声で言っていた――あれは、一匹の"赤いケモノ"の仕業だ、と。
「……赤獣って言葉、聞いたことあるか?」
リアの体が、かすかに強張った。
「……あります。子どもの頃、よく耳にしました」
「……どんなふうに?」
「……村を恐れさせた、赤い化け物。祈りの大樹を裂いて村に飢饉をもたらした……二度と招いてはならない、ノルヴィアの厄災です」
感情も抑揚もない。呪文のような口ぶりだった。まるで、何度も何度も、自分自身に言い聞かせてきた言葉のように。
「……君が、その赤獣なのか?」
長い沈黙だった。炉の薪がぱちりと弾ける。その音だけが、二人の間に落ちた。
やがて彼女はコクリと頷いた。
「……はい。そう呼ばれています。六年前……祈りの大樹を裂いてしまった、あの晩からずっと」
言い切ると同時に、赤い瞳が涙に揺れた。
「わ、わたし、本当に悪気はなかったんです。でも、わたしのせいで、あれから村が不作に苦しんで……きっと、たくさんの人を傷つけました。いまさら、ど、どんな顔で村に行けばいいのか、わたし……わたし、もう分からなくて……!」
ほどなく嗚咽を噛み殺す声に変わった。孤独で蓋をしていた想いが堰を切って溢れ落ちていく。
カイウスはただ黙って、その言葉を受け止めていた。
思えば出会ってから今に至るまで、彼女の目はいつも何かに怯えていた。年頃の少女として男を警戒するのは当たり前。最初はそう思っていた。
けれど、今ならはっきりと分かる。彼女は「嫌われること」を恐れていたのだ。村に忌まれる赤獣だと知られ、ようやく掴み掛けた人との繋がりを、また失うことを。
カイウスが立ち上がり、リアへと歩み寄る。震える肩に手を伸ばしかけ――驚かせるかもと思い直し、そっと引き戻す。
代わりに、リアの目線に合わせるように膝を折った。
「分かった。言いたくないこともあるだろうから、これ以上は詮索しないよ。でも、一つだけ言わせてくれ」
リアが恐る恐る顔を上げる。目元には「拒絶されるかもしれない」という不安が、はっきりと浮かんでいた。それでも彼女はカイウスを見つめ、視線を逸らさそうとはしなかった。
「俺は、いまのリアを信じるよ」
それだけだった。余分な言葉は、いらなかった。
「……いまのわたしを、ですか……?」
「ああ。会ったばかりだけど、君が理由もなく悪事を働く人間にはどうしても見えない。きっと何か事情があったんだろうし、話したくなければ話さなくてもいい。でも忘れないで欲しいのは、少なくとも俺にとって君は、村の厄災でも赤獣でもない。恩を報いるべき、命の恩人なんだ」
一拍置いて、ふっと口元を緩める。
「……赤い髪が、チャームポイントのね」
その言葉にリアが弾かれたように顔を伏せた。さらりと垂れる赤髪の隙間から、涙がぽとぽとと落ちるのが見えた。
カイウスはその涙に触れなかった。わざと視線を逸らし、自然な仕草で手にした木椀に口をつけた。薬草の甘みが、じんわりと喉を温める。
「おぉ、これ美味いな。薬草茶は正直得意じゃないんだけど、これなら何杯でもいけそうだ」
「……祖父が、蜂蜜を少し入れるのが好きで。甘い方が疲れがよく取れるって、教えてくれたんです」
鼻をすするその声には、小さな誇りが宿っていた。
「祖父も、よく褒めてくれたんですよ? 『リアの入れる薬草茶は格別だ』って。数少ない、私の自慢なんです」
そう言って、リアはふわりと笑った。涙の跡が残ったままの、不器用で、でも可愛らしい笑顔だった。
窓の外では、森がゆるやかに夜を纏いだす。外界から切り離された森小屋にも、穏やかな時間が訪れていた。




