2-20. 暴風域、再び①
月光が照らす星々の街区は、夜の海底のように深く静まり返っていた。
その一角、ルザニア邸の開け放たれた窓から淡い明かりが漏れている。ときおり潮の香を帯びた風が通り抜け、カーテンの裾を優しく揺らした。
その遥か上空。
風と見まがうほどの軽さで、一つの影が滞空していた。
風の魔術師――ゲイル・ヴェロキス。
漆黒のローブに包まれた体躯は細くしなやかで、月光を裂く銀糸のような髪が風に舞っては薄い影を落とす。
その奥にある三白眼は鋭くも冷たく、獲物を値踏みする猛禽の目つきと、年若い傲慢さを併せ持っていた。
ドランベルグ家との決別後、ゲイルを止めようと幾度となく刺客が送り込まれた。
だが彼にとってそれらはすべて取るに足らない些事に過ぎなかった。魔術で全て“分解”するにはさして労も要らず、そしてその事実が却って若き魔術師の自負心をさらに肥大化させていた。
――ただ一つ、胸に刺さったままの棘がある。
「……ちっ。忌々しい、"黒風"と"赤風"め……」
三日前。捨て果てられた倉庫街で交戦した、黒髪と赤髪の戦士。
ゲイルが"世界を支配する力"と信奉して止まない風魔術をあれほど叩き込んで、なお逃した。暴風の化身を自称する若き才能にとってそれは許しがたい失点であり、それを放置すしたことが我慢ならなかった。
「ふん……まぁ、いい。この仕事が終わりしだい、必ず見つけ出して駆除してやる……どこに隠れようが、この街の全てを吹き飛ばしてでも炙り出してやるぞ……」
唇の端に笑みを浮かべると、腰の石板へ魔力を流し込む。掘り込まれた溝に翡翠色の光が満ち、水脈のように広がっていく。
瞬間――街が呼吸を止めた。
犬の遠吠えが、途切れた。
噴水のさざめきが、掻き消えた。
星々の街区そのものが分厚い綿で包まれたような静寂に沈む。
そのなかでただ一人、ゲイルだけが世界の音を聞く風魔術――虚音界。
被術対象は聴覚を奪われ、迫りくる危機にも気づけない。術者だけが音を支配し、その感覚を支配する。
他者の自由を掌握する“高み”に立つ感覚――この術は数ある風魔術の中でもゲイルが何よりも好み、彼にとって誇るべき"支配の象徴"であった。
定める狙いは、ただ一つ。
ルザニア家に秘蔵されている、ナヴィレザの自治権を証す古文書――ナヴィレザ独立基本憲章。
それを奪い、王都にいる"あのお方"へと献上する。
全ては風の魔術を支配の力として絶対的地位に押し上げるために。そして、かつて自分を理解せず、追放したリュミエールと“師”に、復讐を果たすために。
屋敷の内部はすでに虚音界の術中にある。音を奪われた者たちは混乱し、為す術もなく戸惑っているだろう。
あとは風の様に忍び込み、紙切れ一枚を持ち帰るだけ。もう大した労力は必要ない。
ゲイルがほくそ笑み、屋敷への降下をゆっくりと開始した――その時だった。
視界の隅。銀髪で出来た、簾の向こう。
ヴァルシェ邸の方角から、"何か"が射ち上がった。
月光を浴び煌めくそれは……真紅の閃光だった。
流星のごとき速度と圧。軌跡が闇を裂き、一直線にゲイルへ迫る。
「なっ――?!」
わずかな遅れが命取りとなった。
反射的に首を振る。そこには、不敵な笑みを浮かべる赤髪の女――忌々しき“赤風”がいた。
次の瞬間、胸倉を掴まれる。浮遊する細身の身体が、悲鳴のような軋みを上げた。
「会いたくないけど来ましたよ、"黒ローブ"の人!」
「あ、"赤風"……! 貴様、やはり息があったか!!」
ゲイルが咄嗟に掌のタトゥーに魔力を流すと、新たな旋風――風翔術が発動される。
瞬く間に生成された高圧の気流が盾のように彼の顔面を覆う。透明な鋼板の如きその防御壁は、飛来する拳を逸らすはずだった。
だが――拳は来なかった。
「捕まえたっ!」
刹那、世界が反転する。
"赤風"はそのまま彼を抱えると、星々の街区の縁を越えると、その丘の斜面へ向かってゲイルを――
「そりゃあぁあぁあっ!!」
――容赦なく"投げ放った"。
「ぐっ……!? ぬおおおおおおっ!!??」
空が狂ったように回転し、景色が高速で流れ去る。
上下の感覚が崩れ、視界の端で星々の街区の白壁がひしゃげた線となって遠ざかる。
耳の奥を風が叩き、内臓が遅れて付いて来るような浮遊感が腹を締め上げた。
ゲイルは吐き気を噛み殺し、風翔術を多方向に展開する。周囲の空気が渦を巻き、体勢を強引に捻り戻すも、殺しきれない慣性が全身を打ち据えた。
肋骨は軋み、肩に鈍痛が走る。
「……っ! 止まれえぇえええぇええ!!」
咆哮と共に足裏に風を生成し、最後の一息で衝撃を削ぎ落とす。膝が石畳を鳴らし、ようやく世界が静止した。
着地したのはナヴィレザの中心部、水都回廊。
昼間の喧騒は嘘のように遠く、月光が水面に砕けさざ波に踊る。港から届く波音が、全身の疼きを嘲るように響いていた。
「よう。ずいぶん楽しそうに回ってたじゃないか」
突如、背後の影から飄々とした声が落ちた。
振り返ると、そこには黒髪の剣士――同じく三日前、取り逃がした筈の“黒風”がいた。
「ルザニア邸で俺たちを影から覗いてた従者……やっぱりドランベルグの手の者だったか。大方、自由派の追い風になり得る独立基本憲章を回収して破棄するつもりだったんだろうが……あんな杜撰な尾行をしといて、バレてないと思ってるとは。少し、笑えるな」
彼が緩く外灯の光へと歩み出る。灰色の瞳がゲイルを捉えた。
「あれだけ派手に動いたんだ。飼い主から大目玉を食らったろ? 当然、白昼堂々には仕掛けない。オマケに音を奪う妙な術まで持ってるなら……そりゃ、夜に動くよな」
"仕留め損なった獲物が、狩られに戻ってきた"
そう感じたゲイルは、喜びに口を歪ませながら腰の石板へと魔力を流し臨戦態勢へと入る。
その時。夜空を真紅の尾が再び切り裂いた。
放射線の軌道を描いた流星が、やがて――
ガゴオオオン!!
――炸裂音と共に着弾した。
土埃が潮風に洗われ現れたのは"赤風"だった。炎のような赤髪を払って黒髪の隣に並び立ち、まっすぐゲイルを見据える。
横目でその姿を確認した“黒風”が、気迫と共に言い放った。
「ようやく役者が揃ったな……三日前の借りを返しにきた。今度は最後まで付き合ってもらうぞ、魔術師!」
「雑種が……! わざわざ駆除されに戻ってくるとは、何てバカで殊勝な害獣なんだお前らは!」
吐き捨てるように言ったその声には、明らかな高揚が滲んでいた。ゲイルは乱暴にフードをはね上げる。
月を散らす銀髪が広がり、十六ほどの少年の顔が露わになる。若さと冷徹が同居する三白眼が、無季の風のような冷たさを感じさせた。
「冥土の土産に、僕っーーいや、"我"の風を吹かせて貰おう! 我は蒼穹を支配する者――ゲイル・ヴェロキスだ! 自分らを吹き消す暴風の名、とくと覚えておくがいい!」
「これはご丁寧にどうも……俺はカイウス・ヴァンデル。しがない傭兵だ。それと――」
「リア! ノルヴィア村の、リア・フリーディスです! カイウスさんにはもう、傷一つ付けさせませんから!」
「――だ、そうだ。お前に特に私怨はない。ただナヴィレザの未来のため……我らが"お姫様"のために。お前には少し、大人しくしてもらう」
「面白い、吹けるなら吹いてみろ! この雑種共が!」
ゲイルが虚音界を再展開した。カイウスとリアの周囲に、再び薄膜の静寂が張り出す。
同時に、前方の空気が刃の形に圧縮され、風刃が夜の闇に鋸歯を刻んだ。
それを見たカイウスは目だけで合図を送る。リアは頷き、水路の方へと歩み出る。
そして踵を半歩捻り、全身の力を一点に束ね――
「うるさくして、ごめんなさいっ!!」
――拳を水面に叩き込んだ。
轟音。
水が縦に裂け、信じがたい高さの水柱が立ち上がる。やがて天で失速した飛沫は散らばり、雨のように回廊全体へと降り注ぐ。
ゲイルの眉がわずかに動く。
風翔術の滑空が針で突かれた薄氷のように揺らぎ、カイウスとリアを取り巻く虚音界も溶け込むように弱まりをみせる。
「三日前の夜。雨が降り始めた瞬間、お前は追撃を手を緩めたよな。何故だ?」
カイウスは静かに問いながら、背の剣に親指を添えた。
「……答えは簡単だ。降雨の中じゃ、精度も威力も落ちるんだろ? 空気を操る、お前の術は」
「ッ!」
思わぬ図星に三白眼が細まり、嫌悪と焦燥が混じる。だがゲイルは不敵に笑い、吠え返した。
「……それが何だと言うのだ! 我は偉大なる暴風の化身だぞ! 魔力も持たぬ貴様ら雑種とは、戦闘力に蒼穹と地との差があるのだよ! 我が絶対的に優位であることは……風が支配者であるという事実は、絶対に揺るがないのだ!」
石板が翡翠色の明滅を再開する。
再度ゲイルの前方に、不可視の刃が生成された。そしてカイウスを睨みつけながら言い放つ。
「今度こそッ! 確実にッ! 風形もなく吹き消してやるぞッ! "カイウス・ヴァンデル"ッ!」




